詩と批評のあいだ Ⅲ 増幅される声——チャック・パラニューク『ファイト・クラブ』

Ⅲ 増幅される声–チャック・パラニューク『ファイト・クラブ』(池田真紀子訳)
                                         

 ぼくの頬に開いた孔、青黒く腫れた目、タイラーのキスの形に赤く腫れた手の甲の痕、コピーのコピーのコピー。
 ファイト・クラブ規則第一条、ファイト・クラブについて口にしてはならない。
 転んでしまいまして。ぼくはそう説明する。
 ぼくが自分でしたことです。
 ボスが訊く。「毎週末、きみはいったい何をしでかしているのかね?」
 それでも何も言わない。ファイト・クラブは、ファイト・クラブが始まり、ファイト・クラブが終わるあいだの数時間しか存在しないからだ。
 ファイト・クラブ規則第二条、ファイト・クラブについて口にしてはならない。
 ふたたび。
 ファイト・クラブは外見を磨く場所ではない。教会と同じように、恍惚とした言葉にならない言葉が響き、日曜の昼過ぎに目が覚めたときの気分は、救済されたみたいだ。
 生きていることをあれほど強烈に実感できる場所は、ファイト・クラブしかない。
 ファイト・クラブは勝ち負けじゃない。ファイト・クラブに言葉はない。
「怖じ気づいてどん底まで落ちられないなら」タイラーが言う。「そいつは絶対に真の成功を手にできない」
 これは自己啓発セミナーじゃない。
 破壊を経て初めて蘇ることができる。ぼくがそれを知っているのは、タイラーが知っているからだ。
「すべてを失ったとき初めて」タイラーが続ける。「自由が手に入る」
 ぼくは訊く。ぼくはもうじきどん底かな?
 タイラーは唇を湿らせ、てらりと光る唇をぼくの手の甲に押し当てる。
 目を閉じて。
「これは薬品火傷だ」とタイラーは言う。「ほかのどんな火傷よりずっと痛い」
 水と混じると、苛性ソーダは摂氏一〇〇度近い熱を発する。その熱がぼくの手の甲を焦がす。
「苦痛に意識を戻せ」とタイラーが言う。
 これがぼくらの人生最高の瞬間だ。
 最高。
 どん底。
 ファイト・クラブ規則第三条、ファイトは一対一。
 かつてぼくは自分の人生を憎悪していた。疲れて、仕事や家具にうんざりして、それでも状況を変える方法がわからずにいた。
 ぼくが全人生を費やしてそろえた物たち。
 ラッカー仕上げを施したメンテフリーのカリックスの補助テーブル。
 ステッグの入れ子式テーブル。理想の皿一式。次は完璧なベッド。カーテン。ラグ。
 ぼくたちは素敵な巣のなかで身動きがとれなくなっている。かつて所有していたものに、自分が所有されるようになる。
 ドアマンが近づいてきて、ぼくの肩越しに言う。「一目置かれたくて、やたらにものを買いこむ若者は多い」
 営巣本能の奴隷と成り下がったのは、この世にぼく一人というわけではない。以前はポルノ雑誌を手に便器に腰を下ろしていたであろう人々がいまトイレに持って入るのは、イケアのカタログだ。
 コピーのコピーのコピー。
 モンマーラのキルトカバーセット。デザイン担当はトマス・ハリラ、以下のカラーバリエーションをご用意しています。
 ライラック。
 フューシャ。
 コバルト。
 シャイニーブラック。
 マットブラック。
 クリームイエロー。
 ヘザー。
 ぼくの視界をコピーが埋め尽くしている。
「欲しいものがわからないと」ドアマンが続けた。「本当には欲しくないものに包囲されて暮らすことになる」
 欲しいのか、欲しくないのか。
 眠ったのか、眠っていないのか。
 生きているのか、生きていないのか。
 どんな出来事もぼくらのはるかかなたで起きる。何一つ手が届かず、何一つこちらに手が届かない。 
 不眠症的非現実感。
 目を覚ますとそこはエア・ハーバー国際空港だ。
 使い捨ての友が隣のシートから声をかけてくる。
 うまく乗り継げるといいですね。
 ええ、まったく。
 目を覚ますとそこはオヘア空港だ。
 目を覚ますとそこはラガーディア空港だ。
 三週間も眠っていないんです。日常のすべてが幽体離脱体験みたいなんです。
 医者は言った。火曜の晩にファースト・ユーカリスト教会に行ってみるといい。住脳寄生虫感染症患者を見てみるといい。変形性骨疾患患者を。器質性脳障害患者を。ガン患者がその日その日を生きている姿を目の当たりにするといい。
 目を覚ますとそこはローガン空港だ。
 骨疾患、住脳寄生虫感染症、結核。精巣ガン、住血寄生虫感染症、器質性脳障害。
 人と触れ合うことで心を癒しましょう、とクロエは言う。パンツの尻が悲しくむなしく垂れたクロエという名の哀れな骸骨。
 クロエの痛々しさの前では、ぼくなんて何でもない。いないも同然だ。
 ぼくはガンで死にかけている人々をうらやましいと思った。
 目を覚ますとそこはオヘア空港だ。
 ふたたび。
 眠ったのか、眠っていないのか。
 ぼくは生きているのか、いないのか。
 いっそこのまま堕ちてくれとぼくは祈った。
 目を覚ますとそこはウィローラン空港だ。
 ぼくが眠るとき、ぼくは本当には眠っていない。
「そうね」とマーラが言う。「あんたは眠らない」
 眠ったのか、眠っていないのか。
 コピーのコピーのコピー。
 ぼくたちの視界はコピーで埋め尽くされる。
 ぼくのちっぽけな人生。ぼくのちっぽけなクソ仕事。
 ぼくは完全すぎた。
 ぼくは完璧すぎた。
 ぼくは人生のちっぽけな人生に脱出口を探していた。
 北欧家具からぼくを救い出してくれ。
 気の利いたアートからぼくを救い出してくれ。
 そのときぼくはタイラー・ダーデンに出会った。
 タイラーは言った。「おれを力いっぱい殴ってくれ」
 爆発。
「石鹸を作るなら、まずは脂肪を精製する」
 煮立て、すくう。煮立て、すくう。
 ファイト・クラブ規則第四条、一度に一ファイト。
 最初のファイト・クラブは、タイラーとぼくが二人で殴り合っただけだった。
 タイラーの仕事はパートタイムの映写技師だった。リールの切り替えもする。生まれつきの夜型だから、夜勤しかできない。
 世の中には夜型の人間がいる。昼型の人間もいる。ぼくは昼間の仕事しか勤まらない。
 夜型と昼型。
 切り替え。
 あいにく、自動フィルム繰り出し・自動巻き取り機能付き映写機を使う劇場が増えるにつれ、映写技師組合はタイラーをさほど必要としなくなった。
 支部長閣下は言った。排斥とは考えないでくれ。ダウンサイジングだと思ってくれ。
 いや、おれは恨んだりしないよ、とタイラーは愛想よく笑った。
 失うものは何もない。
 おれは世界の捨て駒、世の全員の廃棄物だ。
 切り替え完了。
「グリセリンに硝酸を混ぜるとニトログリセリンができる」タイラーが言う。
 脂肪の塊を水に入れて沸騰させます。
「ニトログリセリンに硝酸ナトリウムとおがくずを混ぜればダイナマイトだ」タイラーが言う。
 すると脂肪の塊が溶け、沸き立つ水面に油脂分だけが浮いてきます。
「ニトログリセリンにさらに硝酸とパラフィンを混ぜれば、爆発性ゼラチンを作れる」とタイラーは言う。
 そうしたら鍋の火を弱め、湯をかきまわしてください。
「ビルだってまるごと吹き飛ばせる。一発で」
 すくい取った脂を、上蓋を全開にしたミルクのカートンに移します。
「大量の石鹸があれば」タイラーは言う。「世界をまるごと吹き飛ばせる」
 煮立て、すくう。煮立て、すくう。
 石鹸のはじまりはじまり。
「太古の昔」とタイラーは言う。「生け贄を捧げる儀式は川を見下ろす丘の上で行われた。何千という生け贄だ。生け贄の死体は薪の山のてっぺんで焼却された。数百人の生け贄が捧げられ、燃やされたあと、白いどろりとした液体が祭壇からあふれ、丘づたいに川へ流れた」
「雨が」とタイラーは言う。「燃えた薪の上に来る年も来る年も降り注ぎ、来る年も来る年も死体が燃やされ、灰で濾過された雨水が苛性ソーダ溶液を作り、それが溶けた生け贄の脂肪と混じってできた白いどろりとした石鹸が祭壇の下から滲み出て、丘の斜面を伝って川へ流れた」
「千年にわたる殺人と降雨の結果、古代人は発見した。石鹸が川に流れこむ場所で服を洗うと、ほかで洗うより汚れ落ちがいい」
「大勢の人間を殺したのは正解だった」
「これを頭から締め出すな」とタイラーが言う。「石鹸と生け贄はワンセットだ」
 ワンセット。
 ファイト・クラブ規則第五条、シャツと靴は脱いで闘う。
 ぼくとタイラーは一卵性双生児のように似てきた。
 ぼくは何か美しいものを破壊したい気分だった。
 タイラーと一緒にいれば何もかも壊せそうな気がした。
 タイラーは、ぼくが闘っている本当の相手は何かと訊いた。
 自分が恵まれなかった美しいものすべて。
 アマゾンの熱帯雨林を焼き尽くしたかった。フロンを空に噴射してオゾン層を破壊したかった。スーパータンカーの放出バルブを全開にしたり、海底油田の蓋を取り除いたりしたかった。ぼくには買って食べるゆとりのない魚を全部殺し、ぼくが行けることのないフランスのビーチを絞め殺してしまいたかった。
 全世界をどん底に突き落としたかった。
 最高だから。
 種の保存のためのセックスを拒絶して絶滅の危機に瀕しているパンダや、海岸に乗り上げる根性なしのクジラやイルカの眉間に、片端から弾丸を撃ちこみたかった。
 絶滅とは考えないでもらいたい。ダウンサイジングだと思ってくれ。
「忘れるなよ」とタイラーは言った。「あんたが踏みつけようとしてる人間は、我々は、おまえが依存するまさにその相手なんだ。我々は、おまえの生活を隅から隅まで支配している。」
 依存と支配。
 最高とどん底。
 石鹸と生け贄。
 ファイトは一対一。
 ぼくとタイラー。
 所有するものとされるもの。
 一度に一ファイト。
 ファイト・クラブ規則第六条、ファイトに時間制限はなし。
 ぼくは駐車場であおむけに寝転がり、街灯の明かりに負けずに輝く唯一の星を見上げながら、きみは何と闘っていたのかとタイラーに尋ねた。
 父親だとタイラーは答えた。
 ぼくらは父親などいなくたって自分を完成させられるのかもしれない。ファイト・クラブでは、恨みを晴らすために闘うのではない。闘うために闘うのみだ。
 ファイト・クラブは、ファイト・クラブが始まり、ファイト・クラブが終わるあいだの数時間しか存在しない。
 タイラーは、ぼくが眠りにつき、ぼくが目覚めるあいだの数時間しか存在しない。
 ぼくは、タイラーが眠りにつき、タイラーが目覚めるあいだの数時間しか存在しない。
 かつて所有していたものに、自分が所有されるようになる。
 タイラーはぼくを殴る。
 ぼくはタイラーを殴る。
 ぼくはぼく自身を殴る。
 コピーのコピーのコピー。
 タイラーはぼくの夢なのかもしれない。
 あるいは、ぼくがタイラーの夢なのか。
 これは夢じゃないはずだ。
「いや」とタイラーは言う。「おまえは夢を見てるんだよ」
 ぼくはまだ眠っている。 
 目を覚ますとそこはオヘア空港だ。
 目を覚ますとそこはラガーディア空港だ。
「おれ、とか、きみ、とかいう概念はもはや存在しない」とタイラーは言い、ぼくの鼻の先を軽くつねる。「おまえもとうに気づいているだろうが」
 おれはきみを殴り、きみはぼくを殴る。
 ぼくはおれを殴り、きみはきみを殴る。
 わかるだろう?
 わからない。
 目を覚ますとそこはどこでもない。
 ぼくたちは誰でもあり、誰でもない。
 ファイト・クラブは存在し、存在しない。
 無。
 ファイト・クラブ規則第七条、今夜初めてファイト・クラブに参加した者は、かならずファイトしなければならない。
 目をさますとそこは現代です。
 ぼくたちの時代は過ぎ、きみたちの時代になった。
 切り替え完了。
 とっくの昔に飛行機はビルに突っ込み、きみたちの目の前で張りぼては崩れた。
 きみたちはもはや物すら信じていない。
 以前はイケアのカタログを手に便器に腰を下ろしていたであろう人々がいまトイレに持って入るのは、手垢でベトベトになったスマートフォンだ。
 きみはクソを垂らしながら、使い捨ての友達にいいね!を押す。
 でも何も変わってない。きみは疲れて、仕事やSNSにうんざりして、それでも状況を変える方法がわからずにいる。
 きみが全人生をかけて費やしてそろえた写真。
 こちらのレストランではインスタ映えする8種類のカラー小籠包をとりそろえております。
 フォアグラ。
 黒トリュフ。
 チーズ。
 コウライニンジン。
 カニの卵。 
 ガーリック。
 マーラー。
 オリジナル。
 リツイートのリツイートのリツイート。
 コピーのコピーのコピーのコピー。
 きみは素敵なイメージのなかで身動きがとれなくなっている。もはや所有すらしていていないものに、きみは所有されるようになる。
 いいのか、よくないのか。
 欲しいのか、欲しくないのか。
 眠っているのか、いないのか。
 夢をみているのか、いないのか。
 きみはぼくなのか、きみなのか。
 ファイトは一対一。
 今夜、これからぼくはきみに会いに行く。
 今夜、ぼくはきみのこめかみに銃身を突きつけ、質問をする。
 きみは大人になったら何になりたい? この先の人生をどう過ごしたい?
 答えられなければきみはまもなく死ぬ。驚嘆すべき死の奇跡。
 銃口をこめかみに押し付けられたきみは、銃がそこにあること、ぼくがすぐ隣にいること、これは生死に関わる問題で、次の瞬間にも死ぬかもしれないことを痛感するだろうか。
 涙の粒が転がり落ち、銃身に涙の太い線が一本走り、引鉄の周りの輪を伝ってぼくの人さし指に落ちるだろうか。
 きみは何と闘っているのか。
 ぼくは何と闘っているのか。
 水で薄められたすぐにはじける泡なんかじゃなく、祭壇から流れる石鹸のようにねっとりとした濃い生をいきたいと思うだろうか。
 きみはこめかみに銃口を押し付けられたまま、顔をあげ、ぼくにむかって答えられるだろうか。
 きみはぼくの要望に答えられるだろうか。
 ただ一つ。
 そうだ、ぼくを力いっぱい殴ってくれ。

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