詩と批評のあいだⅣ これからの恐怖にむけて——ブライアン・エヴンソン『遁走状態』『ウインドアイ』(柴田元幸訳)

Ⅳ これからの恐怖にむけて——ブライアン・エヴンソン『遁走状態』『ウインドアイ』(柴田元幸訳)       

  

 何日か続いて思い出せない日があって、それが何日間なのかはどうしてもわからなかったが、とにかくそれらの日々、自分は昏睡状態に陥って床に倒れ、妻だろうと思ったがもはやそれも定かではない女性の隣に横たわって目から出血していたにちがいない、ととりあえず推測した。そしてそういう日々の前の日々も、やはり思い出せなかった。何とか目を開けて、自分の周りの世界が、五感で十分感知できる速さで動いていると感じたとき、女性は、彼女が誰であれ、もう死んでいた。かくして最初の、どんどん崩壊しつつある記憶は、女性の隣に横たわって、その痩せこけた顔に、すぼまって犬歯の先を覗かせている唇に、見入っている記憶だった。
 この女は誰だろう? と考えた。
 そして俺は、いったい俺は誰だろう?         
                                  ——「遁走状態」

  

 名前をもたないものにせよ、名前をもたされているものにせよ、たとえ名前をもっていたとしてもそれが正しいものだという確証はまったくないのだが、とにかくここ、二つの短編集のなかに収められ、描かれている彼らは、自分の置かれている今ある閉ざされた状況、それは多かれ少なかれ陰惨で、暴力がどっぷりと満ち、物語がはじまったときにはすでに取り返しのつかなくなってしまっている状況を、自分でもはっきりと把握することができない。彼らは我々に、彼らの限られた視野から見えるか聞こえるかする情報を語りながら、自分の置かれている立場というものを、たどたどしく手探りでたしかめていこうとする——なぜ目の前の人物は両方の眼窩から血をどくどくと流しているのか、なぜ自分は血まみれの仔馬たちの死骸の中に立っているのか、なぜ父は頭をオレンジ色のビニールのメッシュにくるんで撚り糸できっちり縛っているのか——といったことを。それはひょっとすると、子供たちが肝試しにやるような、壁板のうしろがわのみえない暗闇に指を滑りこませて、そこにじっとひそんでいるものを手でたしかめながら質問に答えていくような遊びに似ているのかもしれない。それってつるつるしてるかい? それともざらざら? うろこみたい? 血は冷たいかい、温かいかい? 赤い感じ? かぎ爪が出てる感じ、引っ込んでる感じ? 目が動くのがわかるかい?

 しかしながら彼らが認識のために用いようとする身体は、彼らに従属するものとしてではなく、むしろ彼らと齟齬をきたすものとしてあるのである。ある男は、自分が片腕を失ったことを自覚していて、その喪失が現実であることを一瞬たりとも疑いはしない。ところが、切断面に目をやると、腕がまだそこにあることを男は見てとる。また別の男は、痛みを感じていたとしても、医者のようなものたちからは、あなたがいま痛みをかんじることはありえないと断定される。あるいは、声が出た確信があっても、出てくるのはささやき声だけ。あるいは、周囲の音が次第に遅れて届くようになる。あるいは、パントマイム師がつくりだした存在しない箱に毎晩圧迫される、等々。

 そしてまた、彼らがそれだけを頼りに語ろうとすがりついている言葉も、彼らが求めるがままには応じてはくれない。常に他人との会話はちぐはぐ、双方向の関係はなりたたないのであって、正しいと思えること、自分では納得できることを言っても、誰も本当にわかってはくれない。他人は自分とは別の世界に住んでいるみたいな、もしくは、こっちが水の中から話しているみたいな感じにさせるだけなのだ。言葉は頼れるものではなく、彼らをさらなる混乱へと陥れるものとしてあるようにみえる。それは他人との関係だけとは限らない。言葉は独立した、まるで邪悪な意志をもった存在であるかのように、ときに彼らに執拗にとりつき、ときに勝手に口から滑り出て単語同士を勝手に入れ替える。彼らはもはや言葉というもの、自分の口から出てくる言葉に、呑まれ、信用することができなくなっていく。

 だが語ること以外に彼らにいったいどんな術がある? 語ることでしか彼らは自分の置かれている位置を認識すること——正確にいえば、認識に至ろうともがく不毛な試み——ができないのだ。すでにして人生の把握を失っている彼らは、慎重に、ゆっくりと、その信用ならない言葉をぎこちなく使いながら、自分に問いかけること——どうなっているんだ?——を繰り返し、考え、思考し、出来合いの言葉で目の前にある絶望的な現実を語る。彼らはいくつもの可能性のあいだを、どちらにせよ悲惨にはかわりない選択肢のあいだを、どっちつかずのままゆらゆらと歩いていく。妹は消えてしまったのか、それともはじめからいなかったのか? なぜ自分は支配されているのか、この支配から逃れられるのか? そもそも誰に支配されているのか? 誰が、ではなく何が、なのか? どうやって始まったのか? いつ始まったのか? そもそも始まっていないのか? 現実だったのか? 自分が現実だと信じ込んでいるだけなのか? こうやって語っている自分はまともなのか? 自分はもう壊れてしまっているのではないか? 
 困難は何が現実で何が現実でないかを知ろうとする際に生じる。彼らはよろよろと歩いていって、新たにドアを開けて、また別の部屋が現れるたびに、自分という人間の蝶番がまた少し外れていくのが、自分がまた少し狂っていくように感じる。けれども彼らには前に進む以外の選択肢はない。話はどこにもたどりつかない。だとしても、彼らは少しでも語ることで、自分たちにいったい何が起こったのかを把握しようとし、そうすることで、かろうじて希望を得ようとするのだ。彼らは曖昧な現実を曖昧なままに伝え、我々は曖昧なままに受け取ることになる。

 あるいは、現実に我々が立たされている世界、根源的な世界というのは、まさに彼らが置かれているような状況ではないだろうか。生まれたときからすでに世界は壊れていて、とりかえしがつかない状況からはじまり、気づけば見えない蟻地獄から抜け出せないでいる。我々は声のする方に向かって、聞こえるとおりに従っていこうとするが、価値判断は流動的、声のいうことは数秒ごとにうつりかわり、その声が確かなものか、誰が発したものなのか、本当に聞こえているのかどうかも確信できず、そしてもはや我々は自分が何を感じているのかさえわからないのだ。嬉しいのか? 楽しいのか? 悲しいのか? 怒っているのか? 自分で感じていることを感じとることは不可能で、いいたいことはわからないために、いうべきことだけをいうしかない。我々は靄のかかったまま世界を生き、頼りにできるものはなにひとつない、というのも現実そのものが確固たるものではないからだ。
 我々にとっての恐怖は、いまやアッシャー家のような、おどろおどろしい舞台を必要とすることはないのだろう。フランケンシュタインの怪物のような異形のものでもなく、幽霊でもなく、人間の顔をした蝿でもなく、自分の奥底にひそむハイド氏でもないのであって、それは明確なかたちをもった恐怖ではなく、そこには明らかな因果関係もない。我々が対峙しているのは現実ですらない。認識そのものなのだ。それをなにか認識することができないということ自体への恐怖、わからない、ということへの恐怖。だがそれこそが、恐怖というものこそが、そもそも根源的な世界であったのであり、我々はいまや、確かなものなどどこにもない、という事実と直接戦わなければならないのだ。

 けれど、そんなことを声を大にしていったとして、いったい何になる? せいぜい、じきに絶望して首をくくるか、誰彼構わず惨殺する破目になるかではないか。最悪の場合、いまある以上にわからないことを増やしてしまうことになるだろう。本当にこの事態から無事抜け出すという可能性、本当に一度だけでも明確な認識を得るという可能性は、我々自身からみても、一番確率が低そうに思える。だから、我々はここで語るのをやめておこう。我々に向かって語っている彼らをそのままにしておいて、一歩二歩うしろに下がろう。それからそっと寝室にいって、明かりを消し、暖かなベッドにもぐりこもう。そうして、闇のなかで誰かがせかせか寝返りを打つ音が聞こえようとも、夜が更けてゆくにつれやりきれなさげなうめき声が漏れてこようとも、我々としてはにっこり笑うことにしよう、そして我々自身に嘘をつくことにしよう、そうとも、もう何もかも大丈夫だ、そう、シーッ、そう、我々は眠りについたのだ。