詩と批評のあいだⅨ まばたきのない語り ——村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』

Ⅸ まばたきのない語り ——村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』

  

 暗い箱の中、仮死状態だった赤ん坊は全身に汗を掻き始める。最初額と胸と腋の下を濡らした汗はしだいに全身を被って赤ん坊の体を冷やす。指がピクリと動き口が開く。そして突然に爆発的に泣き出す。暑さのせいだ。空気は湿って重く二重に密閉された箱は安らかに眠るには不快過ぎた。熱は通常の数倍の速さで血を送り目を覚ませと促す。赤ん坊は熱に充ちた不快極まる暗くて小さな夏の箱の中でもう一度誕生する、最初に女の股を出て空気に触れてから七十六時間後に。赤ん坊は発見されるまで叫び続ける。
 私たちはみな閉じ込められている。コインロッカーに捨てられたキクとハシのように。プラスチックみたいにツルツルして薄っぺらな現実に一人ずつ入れられて生きている。巨大なコインロッカー。そこには何もない、ドロドロしたものがない、みんなそうだ、上澄みしか見えないように遮断されている。虚像をきかざっている外面、虚構の上に虚構を重ねる。そこには匂いがない。暑さがない。実体がない。私たちはみな同じだ。同じ大きさの同じコインロッカーに入れられた同じ人間。
 街の中心にはビルが立ち並ぶ。私たちは部屋に閉じ込められている。窓際に立って街を見る。雨が降り始める。目の前のガラスには他人の顔と自分の顔が重なって映っている。他人の顔を被っているガラスの中の自分の顔、ガラスの向こう側で煙っている街並、目の裏側に広がっていた島と海、それらは別々な透明な絵になって重なり合い、自分がどこにいるのかわからなくなる。透明な絵の隙間に、顔を残したまま落ちていくように。息が詰まる。水滴が転がる厚いガラスが自分を遮断し閉じ込めていると思う。思いきりガラスを叩く。割れない。私たちは割ることができない。
 私たちは押し込められ、閉じ込められ、物分りよく生きてきた。みんな子供の頃からあまりにも我慢のしすぎで頭の中はモヤモヤして、大人になってからも寝ぼけたような口をきく。解けることのない催眠術にかけられているみたいに。そうだ。子供の頃から何一つ変わっていない、私たちはまだ閉じ込められている。壁はうまい具合に隠されている。巨大なコインロッカー、中にプールと植物園のある、愛玩用の小動物と裸の人間達と楽団、美術館や映写幕や精神病院が用意された巨大なコインロッカーに私たちは住んでいる、一つ一つ被いを取り払い欲求に従って進むと壁に突き当たる、会ったこともないような奴らが私たちの周りによってたかって勝手なことを言い、それでも私たちは壁をよじのぼる、跳ぼうとする、壁のてっぺんでニヤニヤ笑っている奴らが私たちを蹴落とす、気を失って目を覚ますとそこは刑務所か精神病院だ、かわいらしい子犬の長い毛や観葉植物やプールの水や熱帯魚や映写幕や展覧会の絵や裸の女の柔らかな肌の向こう側に、壁はあり、看守が潜み、目が眩む高さに監視塔がそびえている、鉛色の霧が一瞬切れて壁や監視塔を発見し怒ったり怯えたりしてもどうしようもない、我慢できない怒りや恐怖に突き動かされて事を起こすと、精神病院と刑務所と鉛の骨箱が待っている。
 方法は一つしかない、目に見えるものすべてを一度粉々に叩き潰し、元に戻すことだ、廃墟にすることだ。
 つるつるとした現実を語りは容赦することなく剥いでゆく。語りはまばたきすることなく対象を見つめ、ことこまかに描写し、きれいな表面を破って中にある闇をえぐり出す。あらゆる人間に生まれつき含有される悪意、社会の価値観に培養され膨らみすぎた虚栄心、救い難い暴力や性への嗜好は銃声と粘液と血の混ざった音となって、脂肪のようにぶよぶよと膨らんだ会話とともにいつまでも耳にまとわりつく。子供の前で互いの若い愛人と一緒に食事をするイカサマな両親、生魚の頭と骨が詰まったドラム缶の上に乗ってカーテンの隙間から見えるのは弛みきってどこまでが尻でどこからが太腿かわからない豚のような女、その肉の皺が寄り集まっているところに見える白っぽい男性器、その大きさは子供の腕ほどもあるが注射をしすぎてグニャグニャしている、売れなくなって整形手術をした元童謡歌手は醜い子供が生まれて自分の過去が暴かれることを心配し、金色のハイヒールだけをつけて裸で床に転がり涎を垂らしているグルーピーは自ら犯されることを望んで男の腰にしがみつき、体中に斑点のある老人は影を踏まれることを恐れて手の平を噛みながらいけなあああい!と叫び、鉄格子を蹴っても泣き止まない老人に腹を立てた看護人は老人の頬をスリッパで殴りつけて怯えた老人は、はい、はい、はい、はい、はいと弱々しく答えて血を流しながら浴衣がはだけて透明なビニールのおむつがむき出しになり、その声は、匂いは、人を不快にさせ人から人へと悪意は伝染してゆき、イメージが次のイメージへと連鎖し、宙で破裂して殻の破れた言葉からはドロドロと液体が流れ、白い煙を放ちながら熱い腐臭がたちのぼる。それが現実だ。
 人間は美しくなどない。人々は助け合うのではなくて憎しみあうものなのだ。誰かが誰かを必要としているなんて幻想でしかない。自分に触れているもの、自分以外のすべてを憎む。私たちは閉じ込められている。何時間もコインロッカーに放置されて。あるのはただ時間への恐怖、閉じ込められたまま時間だけが過ぎてゆくことへの恐怖。外で音が聞こえる。夏の、長い時間、犬の吠声、盲人の杖の音、駅のアナウンス、自動販売機から切符やコーラが落ちてくる音、自転車の警鈴、紙屑が風に舞う音、遠くのラジオから流れる歌、八人の小学生がプールに飛び込む音、眼帯の老人の咳、水道の水がバケツを叩く音、交差点での急ブレーキの軋み、巣を作る鳥のさえずり、女が肌を擦る音、女の笑い声、そして自分の泣き声、木とプラスチックと鉄と女の柔らかな皮膚と犬の舌の感触、血と排泄物と汗と薬と香水と油の匂い、すべての感覚はこのまま死んでしまうことへの恐怖だけに繋がっているのだ。そこで私たちは細胞が記憶している声を聞く。その声は、こう言っている。お前は不必要だ、お前を誰も必要としていない。
 そうだそれが現実だ。私たちは自分が誰からも必要とされていないのを知っている、必要とされている人間なんてどこにもいない、全部の人間は不必要だ。私たちは自分の腕で休んでいる小さな虫たちを一つずつ潰す。虫は一本の黒い線になって死ぬ。虫を潰すのと同じように、誰かが私たちを閉じ込めて簡単に潰そうとしている。虫は私たちの腕を公園だと思ったのかもしれない、私たちに殺された虫は私たちのことを人間だとはわからなかっただろう、ライオンだと思ったかもしれない、蝶々とは違うくらいはわかったかも知れないが、それと同じように虫みたいに潰されても何から潰されたのかわからないという奴がいる、おそらくそいつらの体は空気で出来ているのだ、ブワブワした風船みたいな奴ら、そいつらはどこまでも追ってくる、私たちは自分が潰される前に潰そうとしてくるものを壊さなくてはならない、潰そうとするものを壊すこと、阻もうとする壁を飛び越えること、ありとあらゆる壁を破壊すること、何のために人間は道具を作り出してきたか? なんのために石を積み上げてきたか? 壊すため、破壊の衝動がものを作らせる、立ちはだかる十三本の高層ビル、窓の外の街は熱暑でゆがんでいる、ビルの群れが喘いでいる、東京が呼びかける、壊してくれ、すべてを破壊してくれ、窓から下を眺める、私たちはある瞬間の自分をイメージする、東京を焼きつくし破壊しつくす自分、叫び声と共にすべての人々を殺し続け建物を壊し続ける自分だ。街は美しい灰に被われる、虫や鳥や野犬の中を歩く血塗れの子供達、そのイメージは私たちを自由にする。不快極まる暗く狭い夏の箱の中に閉じ込められているのだという思いから私たちを解放する。私たちの中で古い皮膚が剥がれ殻が割れて埋もれていた記憶が少しずつ姿を現わす。夏の記憶。コインロッカーの暑さと息苦しさに抗して爆発的に泣き出した赤ん坊の自分、その自分を支えていたもの、その時の自分に呼びかけていたものが徐々に姿を現わし始める。どんな声に支えられて蘇生したのか思い出す。殺せ、破壊せよ、その声はそう言っていた。その声は眼下に広がるコンクリートの街と点になった人間と車の喘ぎに重なって響く。壊せ、殺せ、全てを破壊せよ、赤い汁を吐く硬い人形になるつもりか。怯えていてはいけない、怒れ、壁の前で足踏みをし、逃げて嘘をついて偽の生き方をさせられ、みんなに好かれようと努力をし、頭の中はモヤモヤモヤモヤモヤモヤモヤモヤモヤと曇り、誰か傍にいて優しくしてくれないと生きてこられず、自分の欲しいものすらわからなかった現実を、壊せ、私たちは何が欲しかったのか、何かが欲しかった、何かに飢えていた、あの音、あの音だけ、あの音だけが欲しい、私たちは何一つ手に入れていない、私たちは変わっていない、まだコインロッカーの中にいる、肌を腐らせたまま箱の中に閉じ込められている、この腐った街、ヌルヌルする糸を吐いて繭を作り、外気を遮断して、触感を曖昧にする、巨大な銀色のさなぎのような都市、道路は溶けたゴムの匂いがし、柔らかくぬかるんでベトベト糸を吐き、通りを歩くすべての人々がガラスと鉄とコンクリートにはさまれて足の裏で糸を引き擦るこの街、銀色のさなぎにくるまれて、さなぎはいつ蝶になるのだろうか、巨大な繭はいつ飛び立つのだろうか、糸や繭が、あの彼方の塔が崩れ落ちるのはいつか。夏に溶かされた柔らかな箱の群れ、漂うミルクの匂い、あの箱の一つ一つに赤ん坊が閉じこめられている。心臓音が響く、体のどこかに煮えたぎるものがある。体を切り裂いて煮えたぎるものを取り出しブヨブヨのさなぎの夜の街に叩きつけたい。壊せ、破壊を続けろ、街を廃墟に戻せ。その音は言う。私たちは何一つ変わってはいない、誰もが胸を切り開き新しい風を受けて自分の心臓の音を響かせたいと願っている。夏の柔らかな箱で眠る赤ん坊、私たちはすべてあの音を聞いた、空気に触れるまで聞き続けたのは母親の心臓の鼓動、一瞬も休みなく送られてきたその信号を忘れてはならない、信号の意味はただ一つ。死ぬな、死んではいけない、信号はそう教える、死ぬな、生きろ。十三本の塔が目の前に迫る。銀色の塊りが視界を被う。もうすぐ巨大なさなぎが孵化しようとしている、夏の柔らかな箱で眠る赤ん坊たちが紡ぎ続けたガラスと鉄とコンクリートのさなぎが一斉に孵化するとき、私たちは巨大なコインロッカーの中で新しい産声をあげるだろう。