氷の国について

 氷の国はここよりはるか北の端にある魔女に支配された国です。

 国といっても実際のところはせいぜい小さな街といった広さで、雪山の谷のほんのわずかな平地にこじんまりと位置しています。千年も昔から休むことなく雪が降り続け、一年を通してほとんど景色が変化しないため、わたしたちの国は外の国の人々から「不変の街」と呼ばれているそうです。家々は雪で押しつぶされないように細長い三角の形をしていて、それが平地に螺旋を描くように、一軒一軒同じ間隔で並んでいます。そして中心には、国のすみずみまで見渡せるほど高い一本の塔が建っており、その塔の一番上に魔女が住んでいるのです。

 わたしたちは十三歳の誕生日を迎えると、それまで着ていた分厚い毛皮を脱ぎ捨て、成人の儀として真夜中に一人で塔まで趣き、魔女に自分の心臓を授けに行きます。重い鉄の扉を押し開け、大理石でできた螺旋階段を一番上までのぼっていっていくと、ひとつだけ大きな部屋があって、その部屋のなかに魔女がいます。魔女は誰がいつ成人するか正確に把握しているので、すでに準備をして訪問を待っています。魔女は入ってきた若者の胸に両手を突っ込み、心臓を生きたまま掴んで抜き取るのです。あなたは生きた心臓をご覧になったことはありますか? わたしたちのそれは炎の形で、赤く燃えたぎっていて、持ち主の鼓動のリズムに合わせてずっと揺れています。それから魔女は抜き取った心臓を棚に収めます。部屋の壁には床から天井まで隙間なく棚が並んでいて、すべての段にこの国の大人の心臓がずらりと保管されており、それぞれに違った速度、強弱で各々の命を揺らしているのです。

 こうして一度心臓を魔女に託してしまうと、死ぬときまで自分の元へ返ってくることはありません。一生魔女に占有されます。わたしたちはよく子供たちに「悪いことをすると大人になったとき魔女に心臓を喰われてしまうよ」と言って脅しますが、その言い伝えはもとはこのしきたりからきているのでしょう。

 心臓を失ったわたしたちの体は徐々に霜がついていき、やがて体の先から凍ってゆきます。ですが凍ってもわたしたちは寒さを苦痛に感じることはありません。心臓を預けるということはつまり、心を失くすということです。わたしたちにはもはや感情が残されていないので、どんな寒さも苦痛ではなくなります。それに心臓の炎がなければわたしたち自身が熱を持たなくなりますから、当然寒さも感じなくなります。寒さとはあたたかいものがあってはじめて知覚されるのです。

 氷の肉体を持つわたしたちは年をとるということがありません。いつまでも十三歳の、白く、きれいな体のままであり続けるのです。そうしてわたしたちは変わらぬ体で生き続けたのち、あるとき突然、眠りから覚めなくなります。それは本当に唐突に訪れるので誰にも予測がつきません。眠り続けているとそのうち魔女が街に降りてくるのですが、そうなるともう助かる見込みはありません。死期が近づくと心臓の炎が弱くなるので、魔女は人の死を察知することができるのです。魔女は瀕死の心臓を抱えて、その持ち主の家を訪れてノックをし、部屋に入って、ベッドに横たわっている持ち主の胸に心臓を戻します。その瞬間、心臓はもう一度激しく燃えあがり、その人の胸もぐっと盛りあがります。この最期のたった数分のあいだに、その人は心を取り戻し、一生でもっとも美しく幸福だった感情の記憶を味わいます。感情が味わい尽くされると、やがて心臓の炎が弱くなり、小さくなって消え、肉体は芯まで凍って、二度と目を覚まさなくなるのです。

 氷の国は魔女に支配されている国だと紹介しましたから、あなたは「なんて前近代的な国なんだろう」と思われたかもしれませんね。だとしたら、それは誤解です。わたしたちの国はこのように心臓を魔女に託すことによって高度な発展をとげてきました。高度な発展というのは外見だけの、見かけだましのことではありません。真なる発展とは、高い建造物だとか、大きな工場だとか、強大な軍事力だとかいった表層的なものではなく、内なる精神をろ過して、不純なもののない、透き通ったものにすることを指すのです。たとえば、わかりやすい例で申しますと、わたしたちの国では犯罪は起こりません。誰かの上に立ちたい、他人よりも優れていたいと愚かな思いを抱くこともなく、誰かを妬ましく思うこともないから人を攻撃することがありません。自分は少しでも楽をして他人に負担を押し付けたい、苦しみから逃れたい、と怠惰になることもありませんから、階級差もなく、食べ物も生活必需品もみんなで平等に分け合っています。わたしたちは怒りや憎しみに身をまかせることもなく、無意味に傷つけあったり、余計なことで悲しんだりすることもありません。この世にはあまりにもささいなことで心を乱されることが多すぎます。そんななかわたしたちは生涯にわたって自分の感情というものを持たないですむのです。あらゆる争い、世界中で生じたどんな大きな争いも、はじめは小さな不安や不信がきっかけに起こります。人々は、そういった弱さから悪につけこまれるのです。感情がなければ、弱さにつけこまれることもない。間違った指導者に扇情されることもない。わたしたちの国には、悪の入り込む一ミリの隙間もありません。心を攪拌され、濁ったものにされずにすむこのシステムを、わたしたちは千年以上も前から維持してきたのです。

 かつてはこの国でも感情は個人が所有していたといいます。しかし感情とはケガレです。生まれたときには誰もが透き通って美しいのに、空気が食べ物を徐々に腐らせるように、感情というものは見えないうちにわたしたち存在を取り返しがつかないほど汚していき、いつのまにか自分たちではコントロールできないほど大きな渦を生み出します。わたしたちはそのような煩わしい感情の作用のすべてを魔女に任せているのです。魔女は毎晩、塔のなかで一人、燃えたぎるわたしたちの心臓に身を焼かれます。そうやって魔女はわたしたちが感じているはずの感情を代わりに消化してくれるのです。燃えたぎる心臓は魔女の体を包み、彼女の精神を焼き尽くそうとします。魔女は自分の魂が焼き尽くされないように抵抗しもがき苦しみます。生きながら身を焼かれる苦痛から激しい悲鳴をあげます。ときに自分の体を塔の内側の壁に打ちつける音も聞こえます。魔女がそのように犠牲になって余計な感情を燃焼させて取り除いておいてくれるから、わたしたちは死ぬ際に最高に純度の高い、幸福の結晶だけを感じることができます。

 つまるところ、魔女とは人々の感情の濁りを浄化するための装置なのです。そうはいっても魔女も生身の人間ですから、炎に焼き尽くされれば燃えかすになってしまいます。消えて終わりです。悲鳴が聞こえなくなったときが魔女の消滅の合図です。そうなると新しい魔女に交換しなければなりません。新たな魔女は大人たちのなかから、客観的かつ公正な選挙によって速やかに選ばれます。人々には感情がありませんから、魔女と決められた人は素直に塔にのぼっていきます。そしてまた同じように今度はその人が人々の心臓を引き受け、新たな魔女となります。魔女の仕事は過酷なものなので、ときおり逃げようとするものもあらわれます。だからわたしたちは魔女がこっそり逃げ出すことがないようにいつも見張っています。それゆえわたしたちの家は螺旋状に連なって塔を囲んでいるのです。

 静謐に満ちたこの氷の国では、毎日魔女が熱さにもがき苦しむ声だけがその都度響きを変えて鳴り渡っています。ときにそれは山からの吹雪の音と混ざりあい、不思議な和音を生むこともあります。わたしたちは魔女の苦しみの声を聞きながら、いつも変わらず食事をし、編み物をし、穏やかな眠りにつきます。もちろん今の魔女が消えればわたしが次の日から魔女となって全員分の苦痛を背負わなければならなくなる可能性もあります。だとしても、わたしが感情を感じるのはまだ先のこと。今はただ自分の家の窓から、塔のなかで燃えさかる炎のあかりを眺めていればよいのです。

 ええ、そうでしょうか? わたしたちは残酷でしょうか? 魔女が苦しむ声を聞きながら暮らすのが? 僭越ながら、最後に自分の意見を言わせていただくとすれば、食事中は聞きたくないからといってわざと音を閉ざしたり、今はそういう気分ではないからといって聞こえないふりをすることの方が、魔女にとってはこの上ない侮辱なのではないでしょうか? わたしたちはわたしたち皆で魔女を苦しめているという自覚をもっており、魔女の悲鳴を絶えず聞いてあげることでわたしたちなりの責任を果たしているのです。わたしたちは魔女の存在を常に意識し、その苦しみに敬意を払っています。ただし心で理解するということはできませんが。しかし、魔女とはいつの時代でも、どの場所でもそういうものだったのではないでしょうか? 誰にも共感されることなく、果てしなく続く孤独のなか、時代のすべての痛みを一身に引き受けるからこそ、魔女は変わることなく魔女と呼ばれているのでしょう。