「被害者」とはいったい何なのか——『生活の批評誌no.5』に寄稿しました。

  

 5月25日発行予定の『生活の批評誌no.5』(特集:「そのまま書く」のよりよいこじらせ方)に、「教室のうしろの席から」というエッセイを寄稿しました。

 5月29日(日)の文学フリマ東京にて初頒布されます。(ブース番号は【テ-11】) 

 その後、全国の個人書店などでも取り扱われる予定です。(生活の批評誌twitterアカウント @seikatsuhihyou にてお知らせ)

 目次など、内容の詳細はこちらをご参照ください。

  

  

 わたしは在学していた大学院でセクハラの被害に遭い、2019年から加害者・大学と裁判をしつつ、2020年の秋に「大学のハラスメントを看過しない会」という団体を立ち上げ、「原告A」として活動していましたが、昨年末から時間をかけて上記のエッセイを書いていく過程で、今回、名前を出すことに決めました。

 エッセイの中で詳しく書きましたが、長い間わたしは自分が「被害者」だと認めることを拒んでいました。それは、自分が劣位に置かれていることを認めたくないという悔しさがあったからでもあります。普段、「自立した女」であろうとしている自分の弱さを、人前にさらすような恥ずかしさがあったからでもあります。

 「被害者」とはいったい何なのか。運動や裁判をしていくなかでわたしが気づいたのは、「加害者は被害者意識に満ちている」ということでした。加害者たちはわたしの意見や気持ちに耳を傾けることなく、どこまでも自分を正当化し続けます。わたしは彼らと同じ土俵に立って、どちらの方が被害者なのか言い合うような、“低レベル”なことはしたくありませんでした。

 だから、運動をはじめた当初、わたしは愚痴や弱音をほとんど吐きませんでした。いろんな人に会いに行って話をし、二次加害にあたる発言をされても、傷ついている自分を見ないようにして、また次の人に会いにいきました。周りから「フットワーク軽いね」「行動力すごいね」と言われることを喜んでいたし、「大変な目にあっても飄々としている自分」に酔っていた部分もあったと思います。

 加害者たちのように「むしろ自分は被害者なんだ」と周囲に触れ回っている暇があったら、そのあいだにわたしは、彼らが目を向けないようなところまで視線を配り、なるべくたくさんのものたちに手を差し伸べようと思いました。そうしてハラスメントとはまったく別の人権運動や、動物のための工場畜産反対の運動にも深く関わりました。それは、「文学」への失望の反動でもあったと思いますが、そうやって次元をずらすことで、視野のせまい彼らのことを、高みへ至ったわたしは見下ろしていると感じたかったのだと思います。「わたしよりもっと大変な目にあっている存在はたくさんいるのだ」と自分に言い聞かせ、毎日あちこちへと走り回ることで、わたしは自分自身の傷と向き合うという作業をあとまわしにしていました。

 そうやって日々、他の運動にも参加するなかで、わたしはハラスメントの運動をやる際にも、あくまで自分のことを「当事者」といい、「被害者」という呼び名を使わないよう気をつけていました。

 また、以前のわたしはフェミニズムの議論を聞くたびに、「いまどき女とか男とかどうでもよくない?」と冷ややかに聞き流していました。わたしは性自認があやふやで、一応自分を「女」と認めてはいるものの、性別なんか別にどうでもいいと思っていました。小さい頃から母や祖母に、女であるというだけで兄と区別され、どこかにでかけてもわたしだけ迎えにこられたり、外泊を禁止されることにうんざりしていました。しょっちゅう痴漢を心配されたり、露出を気にされることにうんざりしていました。大学のときに一人で海外に旅行にいくことになったときには、禁止されることはなかったものの、「レイプされそうになったときは相手にこれを渡しなさい」と祖母からコンドームを渡されました。そういうことのすべてにうんざりしていました。

 わたしは「被害者」が嫌いでした。

 2019年のはじめ、活動の一貫で、大学におけるハラスメントの男性被害者たちと顔を合わせることとなりました。わたしの当時の協力者は、遅刻癖のひどい男で、わたしとの打ち合わせのときには当たり前のように遅刻したりそのまますっぽかしたりしていましたが、珍しくその日は5分前に来ていました。彼にとって、今日会う男性被害者たちよりもわたしは雑に扱っていい相手だったのかと思うと少しイラッとしました。それから双方、簡単に自己紹介しあい、本題に入りました。互いの情報交換をする場になるとわたしは思っていたのですが、彼らは自分たちの話を主にしていて、あまりこちらの話を聞きたいという様子はありませんでした。わたしたちは彼らの話に耳を傾けました。途中、加害者の描写がおかしくてわたしが笑ったら、協力者から「彼らは被害者なんだからさ」とたしなめられました。普段わたしには気を遣わないわりに彼らに対してはやけに細やかに気を遣うんだなと引っかかりましたが、内輪で揉めてもしょうがないので、「わたしも一応被害者なんですけど?」という言葉は胸にしまいました。

 ひととおり話を聞き終わると、わたしの協力者は「彼らのために慰労会をやろう」と提案し、そのままみんなで居酒屋にいきました。わたしは協力者からも誰からも一度も「慰労会」などしてもらったことはなかったので、いったいなんでわたしが彼らを「慰労」しなきゃいけないんだ?と内心ムカつきましたが、表には出さず振舞いました。彼らは初対面のわたしにも隠すことなく弱音を吐き出していました。会計は年上のわたしたちが多く出すことになりました。わたしは金もないしケチなのであまり気が進みませんでしたが、ここで嫌がっても大人気ないと思い、表情を変えずにお金を出しました。

 みんなと別れ、最終の電車で最寄駅に着くと雨が降っていて、いつもなら自転車で帰る家までの道を、とぼとぼ歩いて帰りました。深夜1時過ぎ、人通りはまったくありませんでした。わたしはヒールのブーツを履いていて、爪先が雨に濡れて冷えました。なんだか悲しい気分だったので、ヘッドホンをして音楽を聴きました。5分ほど無人の大通りを歩いていくと、左側のフェンスの前に男が立っていてぎょっとしました。立ちションをしているようだったので、急いで目を逸らしましたが、一瞬目が合ってしまい、まずいなと思いました。男はわたしの方へ歩いてきました。傘のなかをのぞきこんできました。男は小柄で、端正な顔をしており、ジャージを着ていました。男はわたしに何か話しかけてきているようでしたが、わたしはヘッドホンを外さず聞こえないフリをしました。男はそのままついてきました。ナンパだったら無視していればそのうちついてこなくなります。でも男はわたしの肩に手を回してきました。これはやばい、と思いました。ヘッドホンを外すと、「ちょっとだけでいいから」という声が聞こえました。見ると男は下半身を出していました。わたしは腕を払いのけ走りだしました。

 一番近くにあった建物の自動ドアを拳で叩きました。不動産屋のようでした。電気はついておらず、誰もいないようでした。ガラスを叩いて割ったら防犯アラームが鳴って誰か気づくかもしれないなどと考えていると、視界の端で男が反対側の小道に走って逃げるのが見えました。とにかく人のいるところへいかなきゃ。わたしはコンビニへ向かいました。傘もささず、走ってよろけながら、スマホで警察に電話をかけました。

 コンビニのなかで、あがった息を抑えていると、まもなく警察がやってきました。最近、似たような被害が相次いでいて、ちょうどパトロールしていたところだったそうです。聞き取りは詳細になされました。終始丁寧な対応でした。車で家まで送ってもらいました。でも、最終的な解決策は、「女の子がこんな遅い時間に歩いていちゃだめだよ」「ヘッドホンをして歩いちゃ危ないよ」というものでした。

 わたしはそのとき、その男に対しても警察に対しても協力者に対しても腹が立ちましたが、でも何より、他の「被害者」を憎みました。平気で人前で弱音を吐けることが羨ましかった。他にも仲間がいるのに、協力してくれている教員もいるのに、いったいこれ以上なんの不満があるんだろう?と思いました。彼らは男だから、その日わたしがあったような目にあうこともあまりないでしょう。今頃わたしがこんな目にあっているなどと想像もしてないでしょう。わたしは口では「いまどき女とか男とか関係なくない?」と言いながらも、男であるという特権を持っているにもかかわらず弱さをさらけ出せる彼らに嫉妬しました。ヒールの靴で、爪先立ちで、かろうじてバランスを保っているこのわたしに、弱音を吐いてくる彼らが許し難かった。

 それから約一年間、わたしはハラスメントの運動をやめ、それに関わる人間関係を断ちました。

 

 

 現在、わたしは別の協力者たちに支えられながら、基本的に一人で団体を運営しています。普段は各々活動していて、必要なときに助けを呼びかけ、ときどき手伝ってもらうという形をとっています。彼女たち/彼らは遅刻もすっぽかしもしないし、連絡を無視もしないし、互いに意見を聞き合うし、何よりわたしが「被害者」であるということを理解してくれています。

 そのおかげで、わたしは以前より、愚痴も弱音も気軽に吐けるようになりました。そうすることによって、他の被害者が愚痴を吐いていても腹が立たなくなったし、お互い支え合っていきましょうと協力しあえるようになりました。人が弱さをさらけ出しているのを見ると、わたしも出していいんだな、と思えるようになりました。そうやって、少しずつ、「被害者」という存在の仕方を許せるようになり、自分自身も「被害者」であるという事実を受け入れられるようになってきました。

 とはいえ、「わたしの方が大変な目にあってるんだけど」とか「それをわたしに言うか?」という気持ちがまったくないかといえば、嘘になります。でも、そういう気持ちが出てきたときは、「ああ、今わたしは羨ましく思ってるんだな」と自分の感情になるべく早く気づけるようになってはきています。そういう感情が出てくるときは、大抵「無理をしすぎ」のサインなので、その場から離れたり、負担を減らすようにしています。

「被害者である」と名乗ることには危険性がともなうと思います。「被害者vs加害者」という単純な二元論に陥ってしまうのではないかという不安もあります。それでも、まずは被害者として自分を認め、自分の中の痛みを引き受けること、それなしには前に進むことはできないと思うのです。だからわたしは今では「被害者」であると、ちゃんと名乗るようにしています。

 よく、「もっと強くなれたらいいのにな」と思います。何が起こっても、誰に何を言われても、動じないだけのメンタルがほしい。ときどき、変わることのない加害者たちが羨ましくなることもあります。いちいち取り乱してしまう自分、感情があふれてしまう自分に嫌気がさすこともあります。

 でも、自分自身に泣くことを許していない人は、他人が泣くことを許せないから。自分自身が弱音を吐くことを受け入れらない人は、他人が弱音を吐くのも許せないから。

 わたしはわたしのすべての感情を受け入れていきたいと思っています。

 

 

 去る3月、わたしは自分にとって娘のような存在であった犬を失いました。突然死でした。持病があったため去年から闘病し、病院に通い続けていましたが、持病とは関係なく、おそらく脳の問題で、何の前触れもなく亡くなりました。10歳2ヶ月でした。

 その日、わたしは犬とリビングのカーペットに寝転んで昼寝をしていました。あたたかくなりかけてきた3月の日曜日の気持ちの良い午後でした。家族が外から帰ってきて、犬はいつものように出迎えるために立ち上がり、廊下を軽い足取りで歩いていきました。30センチほど開けてあるドアの隙間を、ひょいとくぐりぬけていくのがお決まりだったのですが、大きなお尻がひっかからないかわたしは毎回心配で、ちゃんと通れたか見届けていたものでした。 

 そろそろ散歩の時間かと思いつつも、起き上がる気になれずにごろごろしていると、家族がわたしの名前を呼びました。いったい何だろうと玄関に見に行くと、犬が倒れていました。失禁していました。わたしは悲鳴をあげ、駆け寄りました。動いていませんでした。わたしは急いで動物病院に電話をしました。すぐにきてくださいと言われました。わたしたちはいったん犬を廊下に移し、急いで支度しました。持ち上げた時、犬の体はぐにゃりとして、力が入っていませんでした。犬の胸に手を当てましたが、動いていませんでした。口の前に手を当てても、呼吸をしていませんでした。でも、わたしは彼女がもう死んでいるかもしれないという疑問を口に出してしまったら、本当にそうなってしまうような気がして、前足を握りながら、大丈夫だよ、と呼びかけました。すでに足は冷たくなっていました。 

 わたしと家族は犬を車に乗せ、ボンネットとリアに初心者マークを貼り、急いでキーを回しました。わたしは犬をつれて旅行にいきたくて、去年免許をとったばかりでした。後ろの席で家族は、犬を抱き抱えながら、彼女に聞かせるように歌を歌っていました。赤信号になるたびに、わたしは振り返って犬の足を握りました。大丈夫だよ、と語りかけました。でもその肉球は触るごとに冷たく固くなっていくようでした。 

 動物病院の駐車場に車を止め、座席から降り、横たわる犬を抱きかかえようとしましたが、わたしも家族も手足が震えてしまって、14キロある彼女の体を持ち上げることができませんでした。わたしは病院に駆け込み、受付の方に状況を伝えようとしましたが、涙が出てくるばかりで、何と言ったらいいのかわかりませんでした。わたしの口からやっと出てきた言葉は、「生きてるかわからない」でした。急いで看護師の方が出てきて、車まできて、犬を抱き抱えて、走って病院に運びこみました。中では院長やスタッフの方たちがすでに機材の準備をしていて、犬を診察台の上に置くと、チューブをつなぎ、心臓マッサージがはじまりました。クリップが留められた舌は、紫がかった白色になり、だらんと横に垂れていました。院長が犬の心臓を押すたびに、わたしは、動け、動け、と祈りました。今まで当たり前のこととして見過ごしていたけれど、動くということはすごいことなのだと思いました。彼女が呼吸していたのは奇跡みたいなものなんだなと思いました。頼むからもう一度動いて欲しい。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、わたしは彼女の胸を見つめ、心の中で祈り続けました。

 10分か15分くらい経ちました。院長がわたしと家族の方にやってきて、たぶんこれ以上続けても戻ることはないけれどどうしますか? といいました。わたしのポケットは右も左も濡れたティッシュでいっぱいでした。わたしは犬のお腹に手を置いて、もう大丈夫です、と告げました。彼女の目は半開きのまま、遠くを見ているようでした。

 

 

 毎朝、わたしは雨戸を開け、歯を磨き、それから祈ります。

 線香をあげ、おりんを鳴らし、手を合わせます。

 そうやって一日をはじめます。

 

 

 わたしは、これから裁判所に長文の陳述書を提出しなければならないという負担からただでさえ鬱になっていたおりに、突然犬を失ったことによって、自分の魂が半分持っていかれたように力が抜けてしまいました。

 彼女の存在なしに、これからの戦いを持ち堪えられる気がしませんでした。

 座っている気力もなく、毎日ただ横になっていました。

 裁判の作業のために、自分のやりたいことにいつまでも復帰できなくて、すでに費やしてしまった何年もの時間のことを思うと、途方もなく虚しくなりました。

 事件から5年もたったのに、加害者たちの主張は何ひとつ変わらず、わたしがしてきたことに意味はあったのだろうかと、わからなくなりました。

 いろんな方向から二次加害を受け続けて、言い返す気力もなくなりました。

 大学という姿の見えない大きな組織相手に、裁判という戦いを続けていると、自分にはなんの力も価値もないような気がしてきました。

 ニュースをみるたびに、とてつもない暴力の存在を目にし、押しつぶされそうになりました。

 これまでの人生で、あまりにもいろいろなものを失いすぎて、これからも生き続ける意味はあるんだろうかと、どんどん深みへ迷い込んでいくような気持ちになります。

 

 

 わたしはその問いにいまだ答えを見つけられないでいるけれど、

 でも毎日なんとか生きています。

 地面を這いつくばって生きています。

 心臓が動いている限り、わたしも生き続けなくちゃいけないのだと思っています。

 

 

 おりんの音が鳴り響いている間は、犬と繋がっているような気がします。

 一緒に寝転がりながら、彼女に触れていたときの、あたたかくてやわらかな感触を思い出します。

 そこにはたしかに「よきもの」があったのだという記憶を思い起こさせてくれます。

 わたしはその記憶を絶やさぬよう、なんとか守っていきたいと願っています。

 

 

 今回、わたしにとって、とても重要な文章を書きあげる機会をくださった、『生活の批評誌』編集長の依田那美紀さん、わたしの小さな声を拾い上げてくれて本当にありがとうございました。

 それから、いつも力を貸してくださっている川口晴美さんと協力者の方々、たった一人で代理人を引き受けてくださっている山本裕夫弁護士、苦しいときに必ず助けてくれる友人たち、そして日々を支えてくれている家族に、深く感謝します。

 

 

 

+大学のハラスメントを看過しない会 公式HP

 

詩「静かな場所を求めて彷徨う」をOrcinus Orca Pressに寄稿しました。

 

新作の詩「静かな場所を求めて彷徨う」を、Orcinus Orca Pressに寄稿しました。

セブンイレブンのプリントでお気軽に発行できまーす。

3月25日より、プリント予約番号をUBRYEB58に更新しました。

期限は4月1日いっぱい。

 

わたしが書かせていただいたのは、Los Poems Diariosという、詩やエッセイ・短編・翻訳などのシリーズ#6。「毎日の詩」「日々の詩」という意味だそうで。洗濯バサミの写真がいい感じ。

Orcinus Orca Pressは、大学院のときの先輩で、翻訳家の川野太郎さんが主催されている自主出版レーベル。太郎さんにはわたしの愛娘(クラシックギター)を5年くらい預けっぱなしでしたが、この前すっかり大きくなってわたしの家へ帰ってきました。

 

わたしもプリントアウトして製本やってみました。手で何か創るのって楽しい〜!

ついでにこれを機にInstagramもはじめてみました。

いろいろ不安や悲しみのたまる日々ですが、みなさんもぜひ気分転換にちょっくらセブンイレブン行って、気軽に製本してみてくださいね。ちゃお。 

 

  

 

忘れられた「卵」への眼差し——Veganism:ヴィーガニズムについて

 

「Veganism:ヴィーガニズム」とは、動物への暴力に加担することを避け、動物を搾取することなく生きようとする考え方をいう。日本では「完全菜食主義」と訳されているが、正確には、動物の肉・乳・卵ほか、搾取と屠殺の産物である羊毛や皮革、毛皮などの購入・消費をしないことも含む。

その考え方はいまだ微力ではあるものの徐々に日本にも浸透してきて、わたし自身もヴィーガンであるということを最初の頃より周囲から受け入れられやすくなったと感じる。環境問題への意識が高まり、肉食と地球温暖化とに相関関係があるという事実が敷衍してきていることもあるからだろうか。身近なコンビニやチェーン店でも少しずつ大豆ミートや野菜を代替としたメニューが増えてきたし、最近だとお笑い芸人の中田敦彦もYoutube大学で紹介していて、ずいぶん状況が変わったなあと感心した。あいかわらず「Vegaphobia:ヴィーガフォビア(ヴィーガンを嫌悪する人たち)」の嘲笑は聞こえてくるが、一般的な人たちの間では「ヴィーガン=過激派」のようなイメージは以前より薄れてきたのではないかと思う。

 

わたしは数年前に肉を食べるのをやめた。厳密に言うならば「肉食をボイコットした」という表現の方が正しい。もともと肉を食べるという習慣自体に反対していたわけではなかったし、それまでは普通に動物性のものも食べていた。しかしネットで動物たちに関する記事が目に入ってくるようになるにつれ、わたしたちが「肉を食べる」というときに想起するあの牧歌的な「牛さん豚さん鶏さん」のイメージと、現在のわたしたちに消費されている動物の現状がいかにかけ離れているかを知ったのだった。それまで特売の肉のパックを何ら疑問なく買っていたわたしは、自分がその工業型畜産の暴力に無意識のうちに加担しているのだという事実に愕然とした。「これほど非人間的で非合理的な苦痛を動物に与えなくてはいけないのなら、この状況が改善するまでわたしは肉を食べなくていい」。それがわたしの肉食ボイコットのはじまりだった。

「高く硬い壁と、その壁にぶつかって砕ける卵があれば、わたしは常に卵の側に立つ」(*2)。その価値観は、実のところすでに多くの人が共有しているのではないかと思う。弱いものの味方でありたい。きっと誰だってそう思っているだろう。でも本当に問題なのは、どこに壁があってどこに卵があるのか、何が壁で何が卵なのか、自分が卵側なのか壁側なのか、その境界は得てして不明瞭で、そこに卵がいるという事実そのものが忘れられてしまっているということではないか。

肉を食べるのをやめて食のありかたを学んでいくうちに、わたしはしだいに魚介も食べるのもやめ、大好きだったチーズや牛乳を摂るのもやめ、動物性の素材を使った服や動物実験をしている恐れがある化粧品を使うのもやめ、いつのまにかすっかりヴィーガンになっていた。制約が多く禁欲的だといわれるヴィーガンになってみて感じるのは、意外にも自分がかつてないほど「ほっとしている」ことだ。それは健康状態が著しく改善して「ヴィーガン=不健康」という先入観を身をもって崩すことができたからだけでなく、つまるところ、大きなシステムに身を委ね見て見ぬふりをする罪悪感から解放され、自分で自分を損なわないですむようになったことが大きい。

「これでようやく安心してきみたちを見ていられる。ぼくはもう、きみたちを食べたりしないからね」。ベルリン水族館の照明の当たった水槽を見つめていたフランツ・カフカは、目の前を泳ぐ魚に突如として話しかけたという(*1)。このときカフカは厳格なベジタリアンとなった。カフカにとって魚とは忘れられた「卵」のひとつだったのだろう。

ヴィーガニズムを実践しようとすると、自分が口にするものすべての原材料をいちいち確認しなければならない。めんどくさく思えるかもしれない。たしかに相当めんどくさい。しかし、誰かを気遣うという行為は、そもそもめんどくさいものなのだ。自分が毎日何を食べているのかを確認するということは、自分がいったい何に加担しているのか、自分が何を傷つけているのか、自分が何の犠牲の上に生きているのかをミクロの単位から見つめ直し、自分の加害に責任をもつということである。悲鳴をあげる「卵」たちの声というのは、その存在にこちらから近づいていかないかぎりわたしたちの耳に聞こえてくることはない。

壁の前で押しつぶされそうになっているものたちすべてに手を差し伸べることは不可能だと思う。それでも手を差し伸べるか差し伸べないかの選択は、あくまでわたしたちの意思に委ねられている。ヴィーガンにならなくともできることはたくさんある。使っている卵を平飼いの卵にしてみる、肉の代わりに大豆ミートにしてみる、牛乳の代わりに植物性のミルクを使ってみる、クリスマスにチキンを食べない、週1日肉を食べない日を設ける(*3)、正しい知識を学ぶ。まずはそこからはじめてみてほしい。

 

認定NPO法人アニマルライツセンター

 

*1 ジョナサン・サフラン・フォア著、黒川由美訳『イーティング・アニマル——アメリカ工場式畜産の難題(ジレンマ)』より参照。ちなみに水族館も本当はアウト。水槽に動物を監禁することは、ストレス、病気、死亡という大きな代償を伴う。

*2 2009年エルサレム賞受賞時村上春樹のスピーチより試訳。

*3 「Meet Free Monday」。ポール・マッカートニーが地球環境保護などの目的で「月曜日は肉食をやめよう」と提唱しているキャンペーン。

お知らせ 朝日新聞に寄稿しました

5月8日(水)朝日新聞の夕刊文化面「あるきだす言葉たち」に新作を寄稿しました。わたしにしては珍しく血は出でこないし目玉も取れない話なのでご家庭でも安心して読めると思います。認知症に興味のある方はぜひぜひお手に取ってくださいませ。

ちなみに、新聞に載っける用にアンニュイなプロフィール写真をとってくれたのはseasunsaltのMayu Fujita氏。わたしの高校時代の軽音部の仲間で、部内きっての美声の持ち主です。高校時代はよく彼女の肩とか指に本気で噛み付いてじゃれていましたが、優しく諭されるだけでキレられたことは一度もありませんでした。そんな人徳者である彼女の作る曲は、メロディアスだけど甘すぎず浸りすぎず、少しずつ変化していくところがいい感じです。

↓こちらから楽曲ダウンロードも視聴もできるようなのでぜひぜひ聞いてみてください。ではでは。

“seasunsalt” is a musical project was founded by Mayu Fujita. based in Tokyo, Japan

 

 

 

 

お知らせ B&B「ドン・デリーロvsカズオ・イシグロ」のトークイベントにでまーす

来月、下北沢B&Bにて行われる「ドン・デリーロvsカズオ・イシグロ」のトークイベントにでちゃいます。わーお。ブックアンドビール。デリーロアンドイシグロアンドブックアンドビール。

 

 2019/2/06/WED
都甲幸治×日吉信貴×深沢レナ
「ドン・デリーロvsカズオ・イシグロ ~本当にノーベル文学賞にふさわしいのはどっちだ!?~」
『ポイント・オメガ』(水声社)刊行記念

詳細はこちらhttp://bookandbeer.com/event/20190206_po/

  • 出演 

    都甲幸治
    日吉信貴
    深沢レナ

  • 時間  

    20:00~22:00 (19:30開場)19:00〜21:00の間違いでした!

  • 場所 

    本屋B&B
    東京都世田谷区北沢2-5-2 ビッグベンB1F

  • 入場料  

    ■前売1,500yen + 1 drink order
    ■当日店頭2,000yen + 1 drink order

    イシグロとデリーロ。
    かたやノーベル賞受賞者、かたやノーベル賞候補者。
    このふたりの文学を闘わせたとき、いったい何が見えてくるのか?

    登壇者は、『ポイント・オメガ』の訳者であり、世界文学を語らせたら右に出る者はない(?)、都甲幸治さん。
    それを迎え撃つのは、イシグロの受賞後いち早く『カズオ・イシグロ入門』を上梓したイシグロ専門家の日吉信貴さん。
    そして、好評の詩集『痛くないかもしれません。』に続いて、『失われたものたちの国で』を刊行したばかりの奇才詩人・深沢レナさんがレフェリー(?)をつとめます。

    デリーロとイシグロの対決にはじまり、次回のノーベル文学賞の予想はもちろん、「村上春樹現象」も踏まえながら、これからの世界文学のゆくえを探ります。

 

・・・というわけですので、イシグロやデリーロにご興味のある方はぜひぜひお越しくださいませ。酒を片手に都甲さん&日吉さんのタメになる話をきいて、わたしといっしょにふむふむしましょう。

 

 

お知らせ 第二作品集『失われたものたちの国で』(書肆侃侃房)刊行!

第二作品集『失われたものたちの国で』(書肆侃侃房)が12月18日より刊行となります!

【帯文】
切れば血が出そうな言葉で綴られた
でも 希望の匂いがする本。
(柴田元幸)

 

*書肆侃侃房のページはこちら

*amazonはこちら

 

前作ではやたら切りまくっていましたが、今作では何から何まで埋めまくってます。とりあえず埋めちゃおう。そんな夢と希望にみちあふれた作品集です。

装画は文芸同人誌『プラトンとプランクトン』の表紙でおなじみの柳田久実さん。ブッダの絵なので買ったらきっとご利益があります。

地上で生きていくのに疲れたとき、何もかも流したくなってしまったとき、そんなときにはぜひぜひ『失われたものたちの国で』をお手にとってみてください。ちゃお!