詩「遺跡の裏で」

遺跡の裏で

                                       

ダラの運転するトゥクトゥクはすごく揺れる

わたしはどこかで止まってご飯を食べたいというが

ダラはそこで食べていいよというだけで止まってはくれない

今日の遺跡は街から離れたところにあるから時間を無駄にしたくないのだろう

スーパーで買ってきたトマトソースをパンに塗ろうとするが

瓶をあけた途端ソースがワンピースに飛び散ったので蓋を閉める

することもなく

平原を眺める

雲ひとつない

乾季のカンボジア

暑いはずなのに寒気がして

薄いカーディガンを体に巻きつける

うしろからやってきた満員のトゥクトゥクがわたしたちを追い越してゆく

昨日も見かけた欧米人の家族

赤い砂埃にサングラスを下ろす

この地域にはコンビニ並みに遺跡が乱立しているから

観光客たちはスタンプラリーのように次へ急ぐ

9世紀から15世紀まで 

新たな王が即位するたび

その権力を誇示するため競うように寺院が建設されたという

その後400年ものあいだ

存在を忘れられていた遺跡たちは

いまや年末年始も休む暇ない

         

風が吹くと

鳥肌が立つ

この国に入ってからどうも体調が良くなくて

昨日ダラに頼んで連れて行ってもらった

村の呪医(クルクメール)の診療所

腰布を巻いただけの長身痩躯のお爺さん

眼光鋭く

わたしは恐る恐るお供えの線香と煙草と紙幣を渡し

他の患者たちに熱心に見つめられるなか

唾を噴きかけられ

灰色の生温いどろどろの液体をお腹に塗られたあと

朝夕一口ずつ食べるよう植物の根っこのかけらのようなものを手渡された

内心イモリでも食わされたらどうしようと怯えていたから

ほっとしてありがとう(オークン)ありがとう、(オークン)といいながら診療所を後にした

なんだかその一部始終が幻だったように思えてきて

カバンのポケットに手を入れる

ここにある小さな固い感触から

昨日が幻ではなかったことを確かめる

         

なびくダラのシャツは汗でびっしょり濡れている

屋台の立ち並ぶ通り

落ちた食べものを漁る野良犬

道を退こうとしない群衆にダラがクラクションを鳴らす

わたしの顔をじっと見てくる住民たち

彼らはJapanese girl ともコンニチワとも你好(ニーハオ)とも言ってはこないし

目があっても笑わない

ほんの30年前まで内戦が行われていたこの土地

ここにいる人々の誰が加害者で誰が被害者なのか

サングラス越しにわたしも彼らを見つめ返すが

表情が読めない

「ありがとう」と大きな文字で書かれた横断幕の垂れさがった

新設のがらんとした校舎を通り過ぎる

昨日診療所で会ったダラの友人がいうには

校舎があっても教員不足で授業ができないのだという

階級や格差のない〈よりよい世界〉をつくるために

文明で腐敗しきった都市を根こそぎにし

国民の3分の1を消去した彼らは

どんな理想郷を思い描いていたのだろう

         

遠くでは牛たちが草をはんでいる

途中ガソリンスタンドに寄り

赤い髑髏の看板を過ぎて

密林地帯に入り

わたしたちはやっとたどり着く

森の中ひっそりと佇む廃墟

ゲリラたちがこのあたりに無数の地雷を埋めたから

長らく修復の手がつけられなかったのだという

わたしは無言でダラに手を振って別れ

両脇に屹立する蛇神の像のあいだ

長くのびる参道を歩く

ポストカードを売ろうと纏わりついてくる子供たち

水彩画を並べている画家の前を過ぎて

突き当たり

巨大な瓦礫の山と化した正門を見上げる

頂点から見下ろす太陽が眩しくて

こめかみが痛む

         

日陰へ進む

ガジュマルの枝に突き破られ

根っこに飲み込まれた塀

窓枠だけが残った壁を眺めながら

かつてそこにあったはずの完成形を思い浮かべる

王たちは知っていただろうか

自分たちのつくりあげたものがこんなふうに壊れてしまうなんて

隙間に入りこんだ小さな植物の種子に

やがて彼らのつくりあげたものが内側から壊されてしまうなんて

         

記念写真をとろうとしているイタリア人たちから離れ

中国人のツアー客の後ろについて

石の回廊にめぐらされた木の歩道を歩く

内戦で吹き飛ばされた外壁の残骸

蓮の花のレリーフ

階段を上って

中央部に行き

木道の手すりに寄りかかって

祠堂のあったはずの場所を眺めていると

邪魔

という声

不意の日本語に振り返る

日本人の男二人がわたしを見て

中国人は消えろ

と言う

卑猥な単語

笑い声

急に投げつけられた悪意に

わたしは動けないまま

日本へ引き戻される

あの国に置いてきたはずのどす黒い感情が

わたしのなかで新たに芽生え

枝葉を伸ばす

         

日の差し込まない十字回廊

わたしは彼らのすぐ後ろをついていき

勾配の急な階段を下りながら

足を振り上げ

蹴り飛ばす

階段から転げ落ち

呻き声をあげる肉体

わたしは落ちていた壁石の破片を持って

両眼を潰す

(腐ったものは除去しなくてはならない

なかなか死なないから

尖った方で

喉を何度も刺した

血がワンピースに飛び散る

わたしはやめない

これは必要なこと

誰にも支配されないために

〈よりよい世界〉をつくるために

わたしたちは正しかった

汚れた思想は排除して

すばらしい未来をつくろう

増えていく

いくら殺しても殺し足りないから

次々と刺した

人々の生命と安全を守るために

血にまみれたわたしたちの手

転がる陥没した頭蓋骨

わたしたちの足元にうず高く積もる

名を奪われたものたち

その上にそびえる

わたしたちの理想郷

純粋な世界に

         

彼らから離れて

わたしは座っている

崩れ落ちた瓦礫の上に

誰もくることのない

遺跡の裏で

遠くで誰かが歌をうたっている

なじみのない旋律

木洩れ日に揺られながら

わたしはあらゆるものが流れていくのを感じる

怒りやさみしさ

空腹が流れていくのを感じる

体を覆った冷気が

陽光に溶けていくのを感じる

とっくに忘れたはずの記憶が

湧き上がりまた薄れていくのを

いなくなってしまった人たちの顔が

現れそしてまた消えていくのを感じる

苔むした塀をよく見ると

鳥がフンをしているし

蜘蛛は巣をはっているし

蟻は列をなして歩いている

いずれこうやって朽ちてしまうのに

どうしてわたしたちは何かをつくらずにはいられないのだろう

ずっと繰り返してきたのだろう

新たなものがつくられ、完成し、そして崩壊していくのを

自然は口を挟むこともなく

何千年ものあいだ目にしてきたのだろう

         

聞こえてくる旋律をなぞるように

わたしは口ずさんでいる

歌うのはいつぶりだろう

誰に聞かれるためでもなく

誰のためにつくったのでもない

ただの歌

遺跡の裏側なんていう

誰のためにつくられたのでもない

誰に見られるためでもない

ただ存在しているだけの場所

それがわたしに一時の居場所を与えているように

ただ在るということが

誰かのほんの一瞬の救いにつながっているかもしれないと思うと

ただ歌を歌うという行為が

許されているような気がした

そうやって目を閉じて

深い呼吸をして

胸の中にある塊を解かしていくと

わたしと彼らの違いなどまったくなくて

同じところから生まれ同じところに帰っていく

彼らはわたしがそうであったかもしれない姿でしかなく

草も虫も犬も

遺跡も鳥のフンも

みんな結局は同じ

どうしてわたしは草ではないのか

どうしてわたしは犬でもなく

煙草の吸い殻でもなく

わたしという形をしているのか

わたしがこの形であるという現実が伝えようとしていること

長い時間がかかったけれど

なんとなくわかった気がした

         

駐車場に戻ると

ドライバーたちがトゥクトゥクにハンモックを吊るして昼寝している

奥の方で座って待っていたダラが

わたしに気づいて小さく手を上げる

次はどこにいく? と聞くダラに

宿に帰る とわたしは告げる

ダラはただ頷いてエンジンのキーを回す

         

揺れるトゥクトゥク

わたしはバッグのポケットからかけらを取り出し

小さく齧ってみる

口の中に苦い味が広がる

そしてまたお守りみたいにそっとしまう

         

         

         

         

         

         

(2021.7)

         

海を聴く

海を聴く

     

                               深沢レナ

     

ここのところ雨続きだったけれど

今日は運良く快晴で

約束の時間よりも早く駅についてしまったから

日陰に腰掛けて本を開く

磯のにおい

緑の車両が何本か通りすぎ

軽く汗がにじんできて

顔を上げると

踏切の向こうの郵便ポストの隣に

帽子をかぶった彼女が立っているのがみえる

わたしは立ち上がり

こちら側から手を振る

あちら側から彼女が手を振り返す

遮断機が上がる

    

焼き物屋や土産屋の並ぶ商店街の

突き当たりには波が光っている

湘南にくるのは何年ぶりだろう

以前夫だったひとと

この辺りで一緒に住んでいたのに

彼の顔もここの景色もほとんど覚えていない

連休だからか海岸は家族連れで賑わっていて

カニを捕まえようと親子が走り回っているのをみていると

緊急事態宣言が出ているだなんて

どこか遠くの国の話みたいにおもえる

    

この国の海は濁っているだろうと

あまり期待していなかったけれど

それなりに水は透き通っていて

わたしたちは靴を脱いで

おそるおそる足を踏み入れる

おもっていたほど冷たくなくて

もったりとした砂が心地よくて

二人ならんで足で泥をかきあげながら

ぽつりぽつりと話をする

仕事のこと

本のこと

家族のこと

会わなくなってしまった共通の友人のこと

いつかまた会ったらもうすこしわかりあえるかもしれないね

二〇年後くらいに と彼女がいって

だいぶ先だねと とわたしは笑う

二〇年なんてあっというまだよ

そうかもしれない

    

十一年前にも

学校の近くの川辺にいって

こうやって二人ならんで水面をみながら喋っていた

そのとき語っていた夢を彼女は叶えて

そのとき語っていた夢をわたしは追うのをやめた

でもそのおかげでずいぶんラクになったから

あれは夢ではなくて呪いだったのだろう

ときどき後ろをふりかえって

靴がそこに在ることをたしかめる

白いサンダルのとなりにならぶ灰色のスニーカー

波にさらわれる

少し手前に

    

前にね

島に行って

海に潜ろうとしたとき

その島のひとに教えてもらった

海に潜るときには受け入れるんだって

自分はいつでも食べられていいんだと

そうすれば一体になって

海の音を聴くことができるんだって

はじめはちょっと怖いとおもったけど

きっと

あたりまえのことなんだよね

わたしたちだって奪っているんだから

あたりまえのこと

彼女は裸足でゆっくりと泥をかきあげ

流れおちた水が渦をつくる

わたしたちの冷えたあしもとには

二つの大きな濁った穴ができている

    

上空では

鳶たちが鳴きながら

ゆるやかな円を描いている

スピーカーのラジオからは

今日の死者数がよみあげられる

すこしずつ海の青が濃くなって

遠くの半島にあかりがつきだす

強い風が吹いて

ああ生きてる と彼女がいう

わたしは風に奪われながら

彼女のとなりで海を聴く

    

    

    

    

     

     

    

お知らせ 『ほんのひとさじvol.17』に寄稿しました

 

書肆侃侃房から出ている、KanKanPress『ほんのひとさじvol.17』に、新作「ひび」を寄稿しました。

特集は「あける」ですが、わたしはあけてません。割れた鏡って捨てるのめんどくさいんですよね。粗大ゴミなのか危険物なのかわかんないし。そんな全国共通のゴミの分別のお悩みにお答えしました。

全国の書店にて、テイクフリーですのでぜひぜひ。

 くまちゃん・・・

詩と批評のあいだⅠ悲しき妄想 ———ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』(岸本佐知子訳)

Ⅰ 悲しき妄想 ———ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』(岸本佐知子訳)

 
 
 ミランダ・ジュライが膨らませる妄想は、風船のように檻の間を抜けて高く高く昇ってゆく。そしていつのまにか膨らみすぎたそれは、ふとした他人との軋轢で弾け、落下し、ゆっくりと沈んでゆく。死にゆくクジラのように。

***

 ここにいるわたしたちはみんなちょっぴり変だ。変だ、っていうと語弊があるかもしれないから、わたしたちはみんな閉じ込められているって言った方がいいのかも。例えばわたしは自宅の周りの世界に閉じ込められていて、二十七歩進んだところで足が止まる。家から出られないわけではないから、広場恐怖症ではなくて、恐怖はいつも家を出て二十七歩め、ちょうどネズの木のあたりで襲ってくる。ほかにもいろいろ。別のわたしは子供の頃から、同じ夢を繰り返し見る。いわゆる反復夢と呼ばれるやつ。その夢のなかでは何もかもが崩れ去って、わたしは下敷きになっている。がれきに埋もれて窒息する夢。それで地元のNPO団体に勤めて近所の地震防災グループを引率してるわけだけど、もうずっと恋人なんかいなくて、ときどき電話をかけてくる妹には電話ごしに性的虐待を受けていて、でも妹から性的虐待というのも変だから、何か他に言葉があるのだろう。セックスレスみたいな現代人ならでは的な閉じ込められ方をしているわたしもいる。わたしは、夜、ベッドで彼氏の横に寝て、自分のあそこに信号を送ってみるけれど、まるでケーブルに加入していないテレビでケーブル・チャンネルを観ようとしているみたいな気分になる。だからセックスの代わりにときどき”おっぱい飲み“をする。”おっぱい飲み“というのは仏教とか色へのこだわりと似たようなものでもあり、全然ちがうことのようでもある。というより、おっぱい飲みはそういうのとはそもそもカテゴリーがちがう。他にそのカテゴリーに属しているものとしては、
 わたしたちの中の言葉にならない、理由のよくわからない怒り。
それと——
 自分には”次の段階“というものがあって、そこへ行かなければならないという感じ。

 わたしたちは朝、目をさますと、あああたし/俺、この世界にひとりぼっちで生きてるんだと思い出して、そのたびに愕然となる。そうしたらなんだかもう急に死んじゃいそうな気分になって、目を固くつぶって、息を吸うのをやめて、バスタブにもぐりこむ。わたしたちはものすごく長い時間水の中にもぐっていられるけど、それはバスタブの中だけのこと。オリンピックの種目に、お風呂のお湯の中で息を長く止める競技ってないのかな、と思う。もしそんな競技があれば、わたしたちはきっとメダルを取れるだろう。オリンピックでメダルを取れば、わたしたちが知っているすべての人たちがわたしたちのことを見直してくれるかもしれない。たとえば家族カウンセリングを受けてた時、わたしがひそかに恋していたカウンセラーのエド。彼は掛け値なしにすばらしかった。前はわたしの話なんてちっとも聞いてくれなかったけど、メダルさえ取ればちゃんと話をきいてくれるようになるかもしれない。エドはわたしに言う。君の話が聞きたいんだ。わたしはひとりで話して話して話したおすだろう。話し終わるとエドが言う、まったくきみは天才だ、それに比べて他の連中はみんなアンポンタンだよ。そして彼は、前からずっと君のことが好きだったと言い、彼がわたしの服を脱がせてわたしも彼の服を脱がせて、そうして二人は末永くしっかりと抱き合うかもしれない。エドだけじゃない。ウィリアムだって愛してくれるかも。英国王室のウィリアム王子。もしも太陽系の地図のようなものがあって、星の一つひとつが人間で、人と人との距離を表しているとしたら、わたしの星からいちばん遠く離れた着くのに何光年かかるかわからない彼方にある星がウィリアムだ。
 作戦1および2。わたしはまずパブにいく。あちらではバーのことをそう呼ぶのだ。わたしはカウンターに腰かけ、飲み物を注文し、それから”糸を巻き“はじめる。”糸を巻く“というのは、両手にかけた糸を巻きとるみたいに、聞いている人々をぐいぐい引き込んでいくような、そんなお話をすること。わたしは話術でカウンター中の人たちを引き込んでいく。あるところまでいくとわたしは言う、「そこでわたしはもう一度ドアをノックしてこう叫んだの——」するとカウンター中の人たちが声を合わせて言う。「入れてください! 入れてください!」そうすればきっと、友達やボディガードと一緒にきていたウィリアム王子が何の騒ぎだろうと気になりだすにちがいない。彼はいぶかしげな笑みを浮かべて、わたしの方に近づいてくる。それでもわたしは話し続ける。糸を巻く手を休めない。二人の距離はどんどん近くなってくる。そしてわたしの前に進み出たウィリアムは、周囲の声に合わせ、国民を代表して、わたしの胸に、地元のNPO団体に勤めて近所の地震防災グループを引率してる46歳の女の胸にむかっていうだろう。「入れてください、入れてください!」。
 嬉しくて天にも昇る気持ちだ。喜びの塊が膨らみすぎてむちゃくちゃに暴れだしたいような気分。わたしたちは昔からこういうとき変なことをよくやった。たとえばわたしはドアに鍵をかけ、鏡に向かって発作みたいに奇っ怪な動作をつぎつぎやり、自分に向かって狂ったように手を振って、顔をゆがめてブキミで不細工な表情を作る。それはワタシというものの突然の大噴火だ。科学的な用語で言うところの〈最初で最後の打ち上げ花火〉というやつ。カシオのキーボードでF♯と真ん中のCのキーを押しながらイエスと叫んで、わたしたちは人間の枠からはみ出してしまいそうになる。わたしたちの体はぐんぐん上昇して木々を突き抜け、雲の中に入り、宇宙に飛び出して天の川を二つに切り裂き、星も塵も突っ切る。今までなんでこんな簡単なことを怖がっていたんだろう。こんなふうにどんどん想像に空気をいれていけば、世界ってこんなに軽くって、檻から打ち上げられて宙に浮くことができるのに。豚だって空を飛べちゃうかも。いや、豚はちょっと言いすぎた。でも、たとえばそこにプールなんかなくたって、わたしという存在がいるだけできっときっとアパートの床に水があふれてきて、すっごい年よりのエリザベスとケルダとジャックジャックにバタフライまで教えて、立派な水泳コーチにだってなれるのだ。
 人はみんな、人を好きにならないことにあまりに慣れすぎている。だからちょっとした手助けが必要だけど、粘土の表面に筋をつけて、他の粘土がくっつきやすくするみたいにすれば、ずっとずっと誰かに知ってもらいたかったことを話せる友だちが近くにできるかもしれない。わたしは子供の頃から、プロの歌手と友だちになりたいと思っていた。ジャズ・シンガーとか。ジャズ・シンガーで、運転が荒っぽいけどすごく上手、みたいな。本当はそんな親友がほしかった。それか、わたしのことが大好きで尊敬してくれる友だち。今の友だちはみんなわたしのことをウザいと思ってる。わたしたちが人からウザがられる要因は、おもに三つある。

 留守電を折り返さない。
 謙遜のしかたが嘘くさい。
 右の二つのことを異常に気にしすぎるあまり、一緒にいる人たちを不快な気分にさせる。

 自分を包んでいるウザさのオーラを取り払って、一からやり直したら、ソーイングクラス初級コースの教室で、わたしが後ろの席からそのふわふわの頭を見つめてたエレンだって、急に振り返って、わたしに向かって指を開いて手を差し出してくれるだろう。そうしてわたしはその手をつかんで、朝出る前にキッチンは片付けたけど机の周りだけわざとちょっと乱雑にしておいた自分のアパートに連れてきて、グラスに濃縮還元のオレンジジュースを注いで、そこに本物のオレンジジュースを丸ごと一個入れるという裏技を披露するだろう。彼女が目を丸くして感心したら、暮らしの知恵よ、なんていうつまんない謙遜を言うのはやめて、きっときっとわたしは、あなたがここにいてくれるから人生は楽しいの、あなたがいなくなってしまったら、またしんどい人生に戻ってしまうの、と素直に言えるだろう。そしてまるでお誕生日みたいな一日を過ごして、二人の初めての誕生日、プレゼントは自分たちで、わたしとあなたはそれを何度も何度も開けてはしゃぐだろう。互いの靴をはきっこしてわたしの靴は彼女ののほとんど倍ちかくあって、でもそれもいい感じで、靴だけでなく、足も、体の他のいろんな部分も、何もかもサイズがまるでちがう。脚と脚をくっつけると、それもまた信じられないくらいに大きさが違っていて、わたしたちの好奇心はバラみたいに花開き、もっともっと知りたくなるだろう。お互いの不可知な部分を何もかも、わたしたちはどれほど似ているか、どれほどちがっているのか、本当にちがうんだろうか、もしかしたら誰もちがってなんかいないんじゃないか。稲妻をひらめかせ、暗い海の底に光を届かせ、そしてもう一つの世界を、そこに息づいているこの世のものとは思えない色や模様をした何億という生命の形を、ほんの一瞬でも見ることができるだろう。わたしたちはお腹とお腹を合わせ、唇と唇を合わせ、それもやっぱりちがう大きさで、そして何よりあたたかくって、わたしたちは動きを止め、見つめあうだろう。
 けれど、目と目を見つめあうのはとてつもなく危険なことだ。人はどれくらい長いあいだ人を見つめていられるものだろう。いつかは筆をインク壺に戻してインクを足すように、また自分のことを考えなければならなくなる。わたしたちは結局ばらばらの他人なんだ。わたしたちは普段、道行く人々がわたしの車のことをどう思っているかなんて考えてるけど、でも誰もわたしたちの車なんか見ていない。みんな自分の内側を見つめている。誰もが自分や自分の車のことを考え、自分の忙しさと睦み合っているだけだ。どっちみち誰も自分のこと以外には大して関心がないのだ。みんな、相手が自分や自分の知っている誰かを殺そうとしていないかどうかだけ確かめて、そうでないとわかるとまた自分の話に戻ってしまう——自分との関係でついに殻を破れそうな気がするとか何とか。この世界には人間の数だけの物語が存在していて、わたしなんて他の人の物語においては脇役でしかなく、それと同じで、他人なんてわたしたちの物語においては脇役でしかないんだから。
 見つめあっていたわたしたちは、どちらからともなく目をそらす。それからまた一瞬、わたしは彼女を見、彼女がわたしを見る。のがれようのない現実が、急に目の前にあらわになる。あれほど恋い焦がれた彼女だって、長い目で見ればわたしの人生においてべつに特別な存在じゃないんじゃないか、という気がしてくる。そこいらの娘。ウィリアムだって、もといた何光年先の星に戻っていくかもしれない。わたしたちは自分の物語から出ていくことも、相手を変えることもできないのだ。イエス(F♯)、イエス(真ん中のC)。だからわたしたちは、手の届く範囲にいる相手を適当にこしらえて、レストランに連れて行ってもらっても、横目でもっと若いかわいい男の子を眺めながら、わざと味にケチをつけて、わざと期待を一から十まで裏切るようなことをして、誰かに何かをしてあげながらその誰かを傷つけてやろうとする。わたしたちみんなが、何も必要としない何かになれたらいいのに。
 かくしてわたしとエレンはだんだん多くを語らなくなる。くっつきあっていた体を離し、うっかり転んだだけ、とでもいうようにお尻をぽんぽんと手ではらう。彼女はわたしの家を出て行き、わたしたちの大前提が足元で揺らぎはじめて、頭の中では、逃げて、という叫び声がする。でもだめだ。世界がなだれを打って崩れおちてくる。電気をつけると、目に見えない何かがあとかたもなく消え去って、後にはただ、埃だらけの、百万年くらい掃除してなさそうなリノリウムの床があらわになる。ジャックジャックたちが腕をばんばん叩きつけて泳いでいたそこはプールなんかじゃなくて、空高く打ち上げられた豚は落ちたままどこにも姿が見えなくって、英国の王子はテレビの向こう側でクールなスーツを着て映ってる。ウィリアム。ウィリアムって誰? エレンって誰だっけ?
 空想は膨らみすぎて宙で破裂して、フルートの音が急降下するみたいに百年分落下して、その無様な残骸を目にしたわたしたちは、鳴り止まない留守番電話を聞きながら、クロスをつかんでその場でテレビを拭きはじめる。オレンジジュースを飲みすぎたみたいな感じがする。ジュースの酸で、胃が、胃だけでなく体じゅうが、ぼろぼろに溶けてしまいそうで、座ったままじっと動かなくなる。動くと人間の形が崩れて、中から空気が洩れ出しそうだったから。でもわたしたちはいてもいられないくらい悲しくなって、ふいに膝の力が抜けて、床にへたりこみ、英語で泣き、フランス語で泣き、あらゆる言語で泣く。涙は世界共通の言語、エスペラントだから。

 顔を洗って、バスルームのバスタブの中にお湯を入れて、わたしはその中にもぐりこむ。そこは粉っぽくて、暖かくしんとしている。わたしはものすごく長い時間水の中にもぐっていられるけど、それはバスタブの中だけのこと。オリンピックの種目に、お風呂のお湯の中で息を長く止める競技ってないんだろうか、と思う。もしそんな競技があれば、わたしはきっとメダルを取れるだろう。オリンピックでメダルを取れば、わたしが知っているすべての人たちがわたしを見直してくれるかもしれない。でも、お風呂のお湯の中で息を長く止める競技なんてオリンピックの種目にはないから、わたしはメダルもとれないし、見直しもなし。あと十五分スタンバってても、何も起こらなかったら、わたしはバスルームのドアを開け、諦めて独りぼっちの現実に帰ろうと思う。ネズの木までの二十七歩の狭い狭い現実に。あと十五分。わたしの体から少しずつ空気が漏れでている。頭がふうっと軽くなり、わたしは自分の体が溶けるイメージを思い描く。わたしはゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、バスタブの底に沈んでゆく。十四分。クジラは死ぬと、まる一日かけて海の底に沈んでゆくらしい。他の魚たちが見守るなかを、巨大な像のように、ビルのように、でもゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと。十三分。わたしは意識を集中し、その奥にある本物のクジラに、死にゆくクジラに、思いを届かせようとする。そしてささやく、あなたは悪くない。十二分。意識の奥、夢の底、何もかも崩れ去った世界で、わたしはがれきの下敷きになって、待ち受ける死に向かって少しずつ沈んでゆく。十一分。わたしはがれきの下を這いつくばりながら、突然思い出す。この苦しみ、この死、これがあたりまえのことなのだと。これが生きるということなのだ。人生とはこんなふうに壊れたもので、他のことを期待するほうがどうかしていたのだ、と。
 最後の八分。わたしはそのドアを見つめている。食い入るように。救いをもとめるように。息を一つするごとに、時計が一分進むごとに、今にも何かが開きそうだった。一。二。三。四。五。六。七。八。

エッセイ「下着泥棒対策あれこれ」

  下着泥棒対策あれこれ

 ついこの間下着泥棒の被害にあった。
 わたしはアパートの一階にひとり暮らしをしていて、生乾きの臭いがとても嫌いなので洗濯物はすべて外に干していたのだけれど、よくバイト先の店長だとか友人だとかに「え? 外に干してるの? 大丈夫?」といわれてはいたのだが、平和ボケしていたわたしは、下着泥棒ってのは都市伝説みたいなもので、わざわざ他人の下着を盗むような物好きなんてネッシーレベルの未確認生物だと思っていたから、実際に自分があってみてはじめて、あ、実在するんだ、と知った。
 とりあえず、ベランダが荒らされていたので警察を呼んでみたのだが、なるほど、二次被害とはこういうものなのか。やってきたのは男性警官三人で、家の外で話をしているのにとにかく下着下着下着下着下着と連呼され、これでは近所に「わたし下着取られました」と宣伝しているようなものだ。恥ずかしい。それからどういう下着なのかを彼らに説明しなくちゃいけない。非常に恥ずかしい。しまいには「下着を外に干しちゃダメでしょ」と叱られ、ええー、んあー、はあー、と返事をしたがなんだか腑に落ちないまま、帰っていく彼らを見送ったのだった。
 と、いうことを次の日女友達に話したら、「それって財布盗られたら財布持ち歩くのが悪いっていってるのと同じじゃん!」と激昂してくれたのだが、なるほど、うまいことをいう。確かにそうだよな。なんで女だからってパンツ外に干しちゃいけないんだ。外に干す権利はわたしにだってあるはずだ。わたしだって自由に天日干ししたい! 我々にパンツを干す権利を! わたしたちは昼間のファミリーレストランでチキンに突き刺したフォークを天に掲げながら、パンツ天日干し自由権を求めて怒りに燃えていたのだった。
 まあしかし、パンツ天日干し自由権をわたしたち女性が得るには、これからきっと数十年の時が必要となるだろう。なので、今自分でできる現実な対策としていくつか具体案を考えてみた。はい、一つめ。
・男物のパンツを履く
 これはなかなか即効性があっていいかもしれない。実際、前々から男物のパンツはゆるくて快適そうだと思っていた。けれど、これではなんだか何かに負けたような気がしなくもないので次の案、どうぞ。
・ベランダに卒塔婆を立てておく
 これもすぐに実践できるいい案だ。卒塔婆が立っているようなおどろおどろしいベランダからパンツを盗る気にはならないのではないだろうか。憑いてそうだし。しかし、下着泥棒は撃退できても何か別のものを召喚してしまいそうだという点が難点。では次。
・犯人のおばあちゃんのパンツも一緒に干しておく
 うん、かなりいい。おばあちゃんというのは人類の涙腺に対し最大級の破壊力を持つ。おばあちゃんのパンツを見ただけで、犯人はまるでおばあちゃんに監視されているような錯覚を起こし良心が痛み犯行を断念するだろう。けれどもこれを実行するには、わたしがまず犯人のおばあちゃんから下着を盗んでこなくてはならないのが弱みだ。次。
・つげ義春の不条理マンガをパンツにシルクスクリーンして犯人の性的意欲を削ぐ
 著作権違反。
・ベランダの窓一面にパンツのだまし絵を描いて犯人を錯乱させる
 賃貸契約違反。
・パンツ履かない
 却下。
 なんていろいろ考えていたのだが、もういっそのこと引っ越してしまおうかと悩んでいる。現在、浴室乾燥機のついている物件を探し中。

(『something25』より)