お知らせ 朝日新聞に寄稿しました

5月8日(水)朝日新聞の夕刊文化面「あるきだす言葉たち」に新作を寄稿しました。わたしにしては珍しく血は出でこないし目玉も取れない話なのでご家庭でも安心して読めると思います。認知症に興味のある方はぜひぜひお手に取ってくださいませ。

ちなみに、新聞に載っける用にアンニュイなプロフィール写真をとってくれたのはseasunsaltのMayu Fujita氏。わたしの高校時代の軽音部の仲間で、部内きっての美声の持ち主です。高校時代はよく彼女の肩とか指に本気で噛み付いてじゃれていましたが、優しく諭されるだけでキレられたことは一度もありませんでした。そんな人徳者である彼女の作る曲は、メロディアスだけど甘すぎず浸りすぎず、少しずつ変化していくところがいい感じです。

↓こちらから楽曲ダウンロードも視聴もできるようなのでぜひぜひ聞いてみてください。ではでは。

“seasunsalt” is a musical project was founded by Mayu Fujita. based in Tokyo, Japan

 

 

 

 

お知らせ B&B「ドン・デリーロvsカズオ・イシグロ」のトークイベントにでまーす

来月、下北沢B&Bにて行われる「ドン・デリーロvsカズオ・イシグロ」のトークイベントにでちゃいます。わーお。ブックアンドビール。デリーロアンドイシグロアンドブックアンドビール。

 

 2019/2/06/WED
都甲幸治×日吉信貴×深沢レナ
「ドン・デリーロvsカズオ・イシグロ ~本当にノーベル文学賞にふさわしいのはどっちだ!?~」
『ポイント・オメガ』(水声社)刊行記念

詳細はこちらhttp://bookandbeer.com/event/20190206_po/

  • 出演 

    都甲幸治
    日吉信貴
    深沢レナ

  • 時間  

    20:00~22:00 (19:30開場)19:00〜21:00の間違いでした!

  • 場所 

    本屋B&B
    東京都世田谷区北沢2-5-2 ビッグベンB1F

  • 入場料  

    ■前売1,500yen + 1 drink order
    ■当日店頭2,000yen + 1 drink order

    イシグロとデリーロ。
    かたやノーベル賞受賞者、かたやノーベル賞候補者。
    このふたりの文学を闘わせたとき、いったい何が見えてくるのか?

    登壇者は、『ポイント・オメガ』の訳者であり、世界文学を語らせたら右に出る者はない(?)、都甲幸治さん。
    それを迎え撃つのは、イシグロの受賞後いち早く『カズオ・イシグロ入門』を上梓したイシグロ専門家の日吉信貴さん。
    そして、好評の詩集『痛くないかもしれません。』に続いて、『失われたものたちの国で』を刊行したばかりの奇才詩人・深沢レナさんがレフェリー(?)をつとめます。

    デリーロとイシグロの対決にはじまり、次回のノーベル文学賞の予想はもちろん、「村上春樹現象」も踏まえながら、これからの世界文学のゆくえを探ります。

 

・・・というわけですので、イシグロやデリーロにご興味のある方はぜひぜひお越しくださいませ。酒を片手に都甲さん&日吉さんのタメになる話をきいて、わたしといっしょにふむふむしましょう。

 

 

風の国について

わたしたちは家というものをもちません

わたしたちは所有をしないのです

わたしたちは決まった名前ももたず

そのときそのとき自分にふさわしい名前をつけては捨てます

わたしたちは計画を立てて未来を支配しようとはしません

ただ風に身を委ねるのです

わたしたちは消えて無くなることはありません

死によってわたしたちは生まれるのです

わたしたちは生まれたとき身体(からだ)をもっていないから

世界中にちらばった自分の身体のかけらを探しにいきます

手、足、耳、鼻、尻尾、肺、心臓、声・・・

わたしたちの身体はわたしたちにみつけられるのを

延々と待ちつづけて世界の各地に身をひそめています

自分の身体を完成させることがわたしたちの唯一の目的

でもわたしたちのかたちは定められていないから

完成だと悟ったときがわたしたちの完成形です

完成のかたちはそれぞれ異なり

4本の足と4本の手と2つの頭でできているものもいれば

翼のあるひともいて

立っているだけのひともいて

1つの目だけで完結するものもいます

大事なのはただしいかたちになること

わたしたちはただしいかたちをみつけるために

風にのり

場所から場所へと渡ってゆきます

ただしい身体を手に入れるためにはただしく風を読むことが必要

風の息の強弱をききわけること

風の輪郭をみきわめること

それは五感ではなく

思考でもなく

わたしの風がわたしを呼んだときには

わたしのなかの風の子が小さく渦巻いて呼応するから

バランスを崩して風と風の隙間にはまってしまわないように

風の中心点にしっかりとつかまり宙に身をゆだねます

風は(くう)でしかないように思えるけれど

ちゃんとそこに柔らかく満ちているから

捉えようとはしないこと

そうやってわたしたちは偶然を渡り歩き

ひとつひとつ自分のからだを回収しにいくのです

ときどき間違ったからだを拾いそうになることもあります

大きな深淵を渡るときには気をつけなくてはいけない

大きな深淵には大きな風が吹いているから

深淵からの轟に怯えて

恐怖や虚無に包まれると

うっかり焦ってちがう身体をただしいと思ってしまうのです

間違った身体を拾ってしまったら

わたしたちは重さに耐えられず

落ちて地を生きなくてはいけなくなります

地を生きるには

空にむかって家を、建物を、歴史を、価値観を、未来を打ち立てなくてはなりません

地は構築の世界

強い風が吹けば波に簡単に流されてしまうのに

地上では懲りもせずなんどもなんども積み上げては壊されたと言って泣く

けれどほんとうは

風には善意も悪意もないのです

手に入れると同時に奪われるのはあたりまえのこと

浮かべば沈み

進めば戻り

終わればまた始まるのだから

わたしたちは落ちない限りあてどなく風との戯れをくりかえすだけです

風は

わたしたちに教えてくれます

わたしたちが完成したとき

わたしたちはそもそも風であったことを

わたしたちは風と何の変わりもないことを

あらゆるものに風がやどっていることを

かたちが異なっても結局は同じであることを

そして

わたしたちは風を通じてどこまででもいけることを

風と混ざり合って同一になり

風の織りなす織物の中に組み込まれたあと

わたしたちは内からすべてを失い

わたしたちは世界を再現するために

また一から身体を探しはじめるのです

死の国について

ずっとずっと暗い、深海の底のもっと底、人々の忘れられた記憶のはるか下、太古の昔から変わらずにある場所、そこはあなたたちと繋がっている、あなたたちの中と繋がっている、あなたたちのへその緒の先、それは海の底に繋がっている、あなたたちは無から生まれてくるわけではない、あなたたちは海の底からそちらへ移っただけ、子宮はあちらからの入り口、あなたたちはあちらからそちらへ移っただけ、わたしたちの大いなる母はその時わたしたちを産み付ける、わたしたち「死」の卵を産み付ける、あなたたちの体の中に、産み付けられたわたしたちは、あなたたちの呼吸をききながら、卵の殻の中でずっと息をひそめている、わたしたちはあなたたちの中にいる、あなたたちがこの世に生を受けた時からずっと、わたしたちはあなたたちの中にいる、あなたたちは知らないうちにわたしたちを温め、そしてわたしたちは孵化する、わたしたちはあなたたちの体を食べて育つ、あなたたちはわたしたちがあなたたちを食べていることに気がつかない、あなたたちはわたしたちが外にいるものだと思っているから、わたしたちが中にいることに気がつかない、わたしたちはあなたたちの体を食べて育つ、わたしたちはなるべくゆっくりあなたを食べる、わたしたちはあなたたちの体がないと存在できない、わたしたちは存続するためにあなたたちを食べるが、あなたたちが死んだ時わたしたちも消えてしまう、わたしたちはあなたたちに依存している、わたしたちはあなたたちに寄生して生きている、けれどわたしたちがあなたたちなしでは存在し得ないように、あなたたちだってわたしたちがいなければ存在できない、あなたたちはわたしたちがいることによって完成する、あなたたちはあなたたちだけで完結することはできない、わたしたちがあなたたちを完成させる、わたしたちはあなたたちを食べるが、わたしたちはあなたたちを殺したいわけじゃない、わたしたちはただ生きたいだけだ、あなたたちと同じように、わたしたちだって食べなくてはならない、あなたたちだって何かの体を食べるのだから、あなたたちも食べられるのはあたりまえのこと、わたしたちはあなたたちを食べる、あなたたちは少しずつ損なわれてゆく、わたしたちがあなたたちを食べる時、あなたたちは痛みを感じることもある、あなたたちはあなたたち自身に原因があるように思うが、本当はそれはわたしたちのせい、わたしたちがあなたたちの中にいるせい、わたしたちが伸びをすれば、あなたたちはため息をつく、わたしたちが大きく育てば、あなたたちはみるみる生気をなくす、わたしたちが活発に這い回れば、あなたたちは落ち込んで寝込んでしまう、わたしたちが満腹で幸福に満ち溢れれば、あなたたちは絶望して死のうとする、あなたたちとわたしたちは常に呼応しあっている、あなたたちはわたしたちと戦おうとするが、わたしたちの働きを弱めることはできても打ち負かすことはできない、あなたたちがわたしたちに勝てたことは一度もない、あなたたちは負けたと言う、わたしたちに負けたという、けれどわたしたちは敵ではない、あなたたちはわたしたちを忌み嫌う、あるいはあなたたちはわたしたちを見て見ぬふりをする、まれにあなたたちはわたしたちが中にいることに気づいたがゆえにあざやかになることもある、でもわたしたちははじめからあなたたちの一部である、わたしたちはあなたたちでもある、わたしたちはあなたたちの中で成長しやがて蛹になる、あなたたちの最後の瞬間わたしたちは羽化し、あなたたちの体から飛び立つが、飛び立つと同時にわたしたちは消滅する、わたしたちの一生はそれで終わり、わたしたちは一瞬の羽ばたきのために生きる、それまであなたたちの体の中にずっと閉じ込められている、わたしたちは閉じ込められている、そこは光のない、生ぬるくて狭く、息苦しい場所、わたしたちが汗を垂らすとあなたは思わず身震いするが、わたしたちはあなたたちを突き破ることはできない、わたしたちは時がくるまであなたたちを突き破ることはできない、わたしたちはそれまで自分だけの体を持つことができない、わたしたちはわたしたちだけの体がほしい、最後のあいだだけのほんの一瞬の自由を感じるために、わたしたちは待っている、あなたたちの中にひそんで、あなたたちに気づかれないように、わたしたちは残りの時間を数えている、その時がくるまで。

海の国について

 あなたは海を見たことがありますか? 世の中には一生海を見ることのないまま人生を終える人もいるのだと、聞いたことがあります。海というものを知らないまま死んでいくというのはどういう感じがするのでしょう。わたしが砂漠を知らないのと同じようなものなのでしょうか。海を知らない人と、雪国を知らない人と、都市を知らない人と、砂漠を知らないわたしと、いろいろなところから別々のことを知らない人たちが集まったら、みんなの欠如を集めて世界の地図が作れるかもしれませんね。

 なんていう空想は置いといて、とにかく海とわたしたちの話をしましょう。わたしは辛くなったときや、落ち着きたいときは、いつも一人で海を見にいきます。海を見ていると、自分が無条件で受け入れられているような気がするものです。きっと、わたしたちはみんな海から生まれてくるからでしょう。海には太古の昔からのすべての記憶が集まっていて、わたしたちは一人の人間として生まれて海から陸にあがってくるとき、海の記憶から一人分の記憶をすくって、自分の体という容れ物に入れてきます。そしてまた、自分の個人の記憶をともなって、海に記憶を戻します。海とははじまりの場所であり、終わりの場所でもあるのです。

 生まれてくるとき、わたしたちの体にはすでに一生分の記憶がそなわっているから、体は重くて地に足がついています。記憶にはさまざまな種類があるけれど、その大半は、言葉によって形づくられています。わたしたちは普段、言葉に置き換えることによって、驚くほど多くの記憶を保管しています。だから地上には言葉をもたない動物はいないのです。わたしたち人間は、生まれたばかりのころ体に言葉がぎっしりつまっているので、他人を見ればやたらと議論をふっかけたり、小難しい単語を使ってなにかと説明したがります。そういう赤ん坊たちを見て、大人や年長の子どもたちは、かわいいかわいい、と笑ってあやします。笑われると赤ん坊たちはムキになってますます声高にまくし立てるのですが、赤ん坊というのは言葉まみれなものなのです。しばらくは身体中から言葉が垂れ流しになるのは避けられないので、おむつをはかせておきます。おむつをはかせておいたところで赤ん坊は喋るのをやめはしませんが、世話がかかるのはほんの1〜2年のあいだだけで、3歳くらいになると、子どもたちはおむつはがしの練習をして、少しずつ言葉を制御できるようになり、早ければ5歳には、すでに自力で意味抜きしはじめる子も出てきます。

 意味抜き、といってもあなたには馴染みがないかもしれませんね。文字通り、体から意味を抜くということなのですが、はじめは不必要な言葉から抜き始めることが多いです。せっかくなので、ちょっとわたしがやってみせましょうか。……たとえば、そうですね。では「誤謬」という言葉を抜いてみましょう。わたしの右手の人差し指を見ていてください。だんだんと、こうやって、指先から雫が出てきます。これが誤謬の雫です。この雫がわたしから完全に出ていったら、わたしの中には誤謬という言葉がなくなり、今後一切その単語を使えなくなり、その意味するところも理解できなくなります。……そろそろでしょうか。このくらいですね。このように一単語であれば、だいたいビー玉くらいの大きさになったら十分です。これでわたしの体からは意味が一つ抜かれたことになります。

 わたしたちの体からは、そのときそのとき、なくすに相応しい言葉が自然と流れ落ちてゆきます。わたしたちは年をとるごとに言葉をなくしていくのです。言葉とは思っている以上に重いものです。言葉をなくすにつれてわたしたちの体は徐々に軽くなり、そのうち宙に浮かぶようになります。わたしはまだ、このように少し浮遊しただけで留まることができていますが、もう何年かたてば、次第にわたしは文章を構築することもできなくなり、わたしが発する言葉は「怖い」「痛い」「好き」といった感覚や感情を表すものばかりとなり、他人に呼びかけたり答えたりすることすらできなくなり、やがて言葉というものをもっていたことも忘れ、この体は止まることなく上昇しつづけるでしょう。そうやって人は少しずつ天にのぼってゆくのです。わたしはまだそんな上の世界を見たことがないので本当のところはどうかわかりませんが、空高く、天の方では、言葉をもたない人間と動物たちが入り混じって暮らしているのだといいます。そこには価値判断がなく、過去と未来といった時間概念もなく、今が何年の何日なのかも知らずに、ただその日その瞬間を生きるためだけにのんびり生きているそうですが、それが生命の本来の姿なのでしょう。わたしたちはあるべき姿に還るのです。そして最後には、わたしたちは言葉以外のありとあらゆる記憶、最愛の人の顔も忘れ、自分たちが自分たちであることすら忘れ、何の意味ももたないまっさらな存在となります。重力から解放され、体の動かし方もわからなくなり、体それ自体もほどけ、すべてが小さな水滴となって散らばり、他から集まってきた様々な命の水滴たちとともに、雲をつくって、いずれ雨になるのです。

 よく他の国の人たちには、記憶が抜け落ちてしまうことは悲しくないのか、と聞かれます。なぜ、それが悲しいことなのでしょう? 人を忘れ、人に忘れられることが? 大切な人にわたしのことを忘れられたとしても、大切な人がどんどん無垢で無邪気になっていくのを見ることは、素晴らしいことではないですか? わたしたちはどんどん透明になってゆきます。忘れることはむしろ喜ばしいことです。何かを失うということを、どうしてそこまで悲しまなくてはならないのでしょう? 生まれたてで言葉に満ちていたとき、わたしは満たされているはずなのに、空っぽみたいでした。逆に言葉を失ってゆくにつれて、わたしは空っぽになっていくはずなのに、わたしの体が世界で満ちてゆくような、わたしと世界とが直接繋がってゆくような、そんな気がしてきます。失うということは、あくまで一面的な見方にすぎず、本当のところは、豊かになっているのかもしれません。

 聞いたところによると、ある国の人たちは、わたしたちとは逆に記憶を形にして残しておこうとするそうです。わたしたちからすれば、記憶という尊いものを、ただ一人の体のうちや、物の中に固定して閉じ込めてしまうことのほうが悲しいことです。そうして閉じ込めてしまえば、わたしたちはその記憶を広く共有できなくなってしまうのではないでしょうか。わたしたちから抜け落ちた記憶、さきほどお見せしたまるい雫は、小さいけれども確かな重みを持っていて、浮かぶことなく地面に落ち、高いところから低いところへと流れ、最終的には海に辿りつきます。海は常に、もっとも低いところにいて、上から下へとやってくるものたちを等しく受け入れてくれます。海には、すべての人々から抜け落ちた記憶が混ざりあっています。人々の記憶からは、あらたな命が生まれてきます。そして命はまた記憶を海に返す。わたしたちは延々とこれを繰り返します。そうすることによってわたしたちは大切な記憶、多くの人にとって忘れがたい大きな出来事から、他の人から見ればささいでどうでもいいような小さな思い出まで、隔てることなく、捨ててしまうこともなく、わたしのうちに閉ざして枯らしてしまうことなく、いつまでもみずみずしいまますべての人の中に生かしておくことができます。それにそもそも、わたしたちがこうして自分の記憶として大事にしている思い出も、もしかしたら何千年も昔の誰かの雫なのかもしれない。何千年も前の人の記憶も、つい何日か前の記憶も入り混じって時間も距離もなくして同列にある。そう思うとわたしたちは、自分という存在がただ一人のものではなく、すべての人によって成り立っているのだと思えます。わたしたちだけではとてもか弱く心細い生き物ですが、海と繋がることでわたしたちは歴史の一部分となり、わたしたちという小さな点が広大な存在となることができます。自分とは自分の外側に無限に広がっているのだと、何も怖がる必要などないのだと思うと、わたしたちは記憶をなくしながら、安心して天にのぼっていくことができるのです。

氷の国について

 氷の国はここよりはるか北の端にある魔女に支配された国です。

 国といっても実際のところはせいぜい小さな街といった広さで、雪山の谷のほんのわずかな平地にこじんまりと位置しています。千年も昔から休むことなく雪が降り続け、一年を通してほとんど景色が変化しないため、わたしたちの国は外の国の人々から「不変の街」と呼ばれているそうです。家々は雪で押しつぶされないように細長い三角の形をしていて、それが平地に螺旋を描くように、一軒一軒同じ間隔で並んでいます。そして中心には、国のすみずみまで見渡せるほど高い一本の塔が建っており、その塔の一番上に魔女が住んでいるのです。

 わたしたちは十三歳の誕生日を迎えると、それまで着ていた分厚い毛皮を脱ぎ捨て、成人の儀として真夜中に一人で塔まで趣き、魔女に自分の心臓を授けに行きます。重い鉄の扉を押し開け、大理石でできた螺旋階段を一番上までのぼっていっていくと、ひとつだけ大きな部屋があって、その部屋のなかに魔女がいます。魔女は誰がいつ成人するか正確に把握しているので、すでに準備をして訪問を待っています。魔女は入ってきた若者の胸に両手を突っ込み、心臓を生きたまま掴んで抜き取るのです。あなたは生きた心臓をご覧になったことはありますか? わたしたちのそれは炎の形で、赤く燃えたぎっていて、持ち主の鼓動のリズムに合わせてずっと揺れています。それから魔女は抜き取った心臓を棚に収めます。部屋の壁には床から天井まで隙間なく棚が並んでいて、すべての段にこの国の大人の心臓がずらりと保管されており、それぞれに違った速度、強弱で各々の命を揺らしているのです。

 こうして一度心臓を魔女に託してしまうと、死ぬときまで自分の元へ返ってくることはありません。一生魔女に占有されます。わたしたちはよく子供たちに「悪いことをすると大人になったとき魔女に心臓を喰われてしまうよ」と言って脅しますが、その言い伝えはもとはこのしきたりからきているのでしょう。

 心臓を失ったわたしたちの体は徐々に霜がついていき、やがて体の先から凍ってゆきます。ですが凍ってもわたしたちは寒さを苦痛に感じることはありません。心臓を預けるということはつまり、心を失くすということです。わたしたちにはもはや感情が残されていないので、どんな寒さも苦痛ではなくなります。それに心臓の炎がなければわたしたち自身が熱を持たなくなりますから、当然寒さも感じなくなります。寒さとはあたたかいものがあってはじめて知覚されるのです。

 氷の肉体を持つわたしたちは年をとるということがありません。いつまでも十三歳の、白く、きれいな体のままであり続けるのです。そうしてわたしたちは変わらぬ体で生き続けたのち、あるとき突然、眠りから覚めなくなります。それは本当に唐突に訪れるので誰にも予測がつきません。眠り続けているとそのうち魔女が街に降りてくるのですが、そうなるともう助かる見込みはありません。死期が近づくと心臓の炎が弱くなるので、魔女は人の死を察知することができるのです。魔女は瀕死の心臓を抱えて、その持ち主の家を訪れてノックをし、部屋に入って、ベッドに横たわっている持ち主の胸に心臓を戻します。その瞬間、心臓はもう一度激しく燃えあがり、その人の胸もぐっと盛りあがります。この最期のたった数分のあいだに、その人は心を取り戻し、一生でもっとも美しく幸福だった感情の記憶を味わいます。感情が味わい尽くされると、やがて心臓の炎が弱くなり、小さくなって消え、肉体は芯まで凍って、二度と目を覚まさなくなるのです。

 氷の国は魔女に支配されている国だと紹介しましたから、あなたは「なんて前近代的な国なんだろう」と思われたかもしれませんね。だとしたら、それは誤解です。わたしたちの国はこのように心臓を魔女に託すことによって高度な発展をとげてきました。高度な発展というのは外見だけの、見かけだましのことではありません。真なる発展とは、高い建造物だとか、大きな工場だとか、強大な軍事力だとかいった表層的なものではなく、内なる精神をろ過して、不純なもののない、透き通ったものにすることを指すのです。たとえば、わかりやすい例で申しますと、わたしたちの国では犯罪は起こりません。誰かの上に立ちたい、他人よりも優れていたいと愚かな思いを抱くこともなく、誰かを妬ましく思うこともないから人を攻撃することがありません。自分は少しでも楽をして他人に負担を押し付けたい、苦しみから逃れたい、と怠惰になることもありませんから、階級差もなく、食べ物も生活必需品もみんなで平等に分け合っています。わたしたちは怒りや憎しみに身をまかせることもなく、無意味に傷つけあったり、余計なことで悲しんだりすることもありません。この世にはあまりにもささいなことで心を乱されることが多すぎます。そんななかわたしたちは生涯にわたって自分の感情というものを持たないですむのです。あらゆる争い、世界中で生じたどんな大きな争いも、はじめは小さな不安や不信がきっかけに起こります。人々は、そういった弱さから悪につけこまれるのです。感情がなければ、弱さにつけこまれることもない。間違った指導者に扇情されることもない。わたしたちの国には、悪の入り込む一ミリの隙間もありません。心を攪拌され、濁ったものにされずにすむこのシステムを、わたしたちは千年以上も前から維持してきたのです。

 かつてはこの国でも感情は個人が所有していたといいます。しかし感情とはケガレです。生まれたときには誰もが透き通って美しいのに、空気が食べ物を徐々に腐らせるように、感情というものは見えないうちにわたしたち存在を取り返しがつかないほど汚していき、いつのまにか自分たちではコントロールできないほど大きな渦を生み出します。わたしたちはそのような煩わしい感情の作用のすべてを魔女に任せているのです。魔女は毎晩、塔のなかで一人、燃えたぎるわたしたちの心臓に身を焼かれます。そうやって魔女はわたしたちが感じているはずの感情を代わりに消化してくれるのです。燃えたぎる心臓は魔女の体を包み、彼女の精神を焼き尽くそうとします。魔女は自分の魂が焼き尽くされないように抵抗しもがき苦しみます。生きながら身を焼かれる苦痛から激しい悲鳴をあげます。ときに自分の体を塔の内側の壁に打ちつける音も聞こえます。魔女がそのように犠牲になって余計な感情を燃焼させて取り除いておいてくれるから、わたしたちは死ぬ際に最高に純度の高い、幸福の結晶だけを感じることができます。

 つまるところ、魔女とは人々の感情の濁りを浄化するための装置なのです。そうはいっても魔女も生身の人間ですから、炎に焼き尽くされれば燃えかすになってしまいます。消えて終わりです。悲鳴が聞こえなくなったときが魔女の消滅の合図です。そうなると新しい魔女に交換しなければなりません。新たな魔女は大人たちのなかから、客観的かつ公正な選挙によって速やかに選ばれます。人々には感情がありませんから、魔女と決められた人は素直に塔にのぼっていきます。そしてまた同じように今度はその人が人々の心臓を引き受け、新たな魔女となります。魔女の仕事は過酷なものなので、ときおり逃げようとするものもあらわれます。だからわたしたちは魔女がこっそり逃げ出すことがないようにいつも見張っています。それゆえわたしたちの家は螺旋状に連なって塔を囲んでいるのです。

 静謐に満ちたこの氷の国では、毎日魔女が熱さにもがき苦しむ声だけがその都度響きを変えて鳴り渡っています。ときにそれは山からの吹雪の音と混ざりあい、不思議な和音を生むこともあります。わたしたちは魔女の苦しみの声を聞きながら、いつも変わらず食事をし、編み物をし、穏やかな眠りにつきます。もちろん今の魔女が消えればわたしが次の日から魔女となって全員分の苦痛を背負わなければならなくなる可能性もあります。だとしても、わたしが感情を感じるのはまだ先のこと。今はただ自分の家の窓から、塔のなかで燃えさかる炎のあかりを眺めていればよいのです。

 ええ、そうでしょうか? わたしたちは残酷でしょうか? 魔女が苦しむ声を聞きながら暮らすのが? 僭越ながら、最後に自分の意見を言わせていただくとすれば、食事中は聞きたくないからといってわざと音を閉ざしたり、今はそういう気分ではないからといって聞こえないふりをすることの方が、魔女にとってはこの上ない侮辱なのではないでしょうか? わたしたちはわたしたち皆で魔女を苦しめているという自覚をもっており、魔女の悲鳴を絶えず聞いてあげることでわたしたちなりの責任を果たしているのです。わたしたちは魔女の存在を常に意識し、その苦しみに敬意を払っています。ただし心で理解するということはできませんが。しかし、魔女とはいつの時代でも、どの場所でもそういうものだったのではないでしょうか? 誰にも共感されることなく、果てしなく続く孤独のなか、時代のすべての痛みを一身に引き受けるからこそ、魔女は変わることなく魔女と呼ばれているのでしょう。

鏡の国について

 わたくしはたくさんの子供たちを育てるために、この国をつくりました。その子供たちは、わたくし自身が、お腹を痛めて産んだのではありません。血の繋がりこそありませんが、わたくしは子供たち全員を平等に愛しております。わたくしたちは家族なのです。子供たちにはわたくしのことが見えないし、声も聞こえないし、直接触ることもできませんが、わたくしはこの国全体を覆う深い霧の上から、いつでも彼らを見守っています。彼らのほうでも、ときおりわたくしの存在をふと感じて、わたくしに向かって祈ったり、話しかけたりしてくれます。

 わたくしが連れてくるのは、住む家がなかったり、食べるものがなかったり、大切な人間に拒否され、望まれず、愛されずに捨てられてしまった子供たちです。他の国から、そういう子供たちをこっそり連れてくるのです。わたくしが彼らを連れていってしまっても、幸い、気に留める人はおりません。気づいたとしても、厄介払いができたと喜んだり、ただの神隠しだと思って、深追いすることはないでしょう。それほどまでに、彼らはいてもいなくても、どちらでも構わないような存在として、粗末に扱われていますから。

 彼らをこの国に移すときには、ワクチンを注射してやります。と言いますのは、彼らはそれまで恵まれない人生を送ってきたために、放っておくと過去の辛いことを思い出し、何かを壊そうとしたり、自暴自棄になってしまうことがあります。そこでワクチンが必要になるのですが、このワクチンには「意味」が含まれているので、打ったとたんに、子供たちはしゅんとして、大人しくなります。意味のワクチンを打たれると、子供たちは、あらゆるものに意味を見出さずにはいられなくなります。自分の人生の意味について考えだし、自分の不幸だった境遇にも、何かしらの意味があるはずだと思うようになります。もちろん、意味などというものは、幻想に過ぎません。そんなものはあるはずはないのです。意味を打つということは、酷なように見えるかもしれませんが、とても、とても重要なことなのです。あなたにうかがいますが、のけものにされ、乱暴に扱われ、虐げられ、忘れられてきた子供たちと、お話しされたことはありますか? 「かわいそうな子供たち」は、残念なことに、必ずしも可愛げのある、弱々しい存在であるとは限らない、むしろ、大抵において、憎たらしい、不愉快な存在なのです。取り返しのつかないほど深い傷、取り除くできないほど強い不安を、身のうちに抱え込んでいる子供たちは、爆弾と同じ、危険物です。他人を見れば、すぐに不信感を覚え、話しかけてもろくに答えず、裏切られると思うと噛みつき、ささいなことで癇癪を起こし、大切な人を傷つけ、そしてまた自分を傷つけます。不安とは毒なのです。不安を持ったものは、他人の中の不安を逆立て、不快感を生み出し、忌み嫌われ、負の連鎖を引き起こします。だからこそ、人は、不安を抱えた子供を捨てるのです。普通の人は、愛らしい子供しか欲しがりません。けれども、たとえどんな理由であっても、捨ててもよい命などないのです。生命は生命です。しかし、毒をもった存在は、野放しにしては生きていけません。わたくしは、ありもしない意味を与えることによって、逆説的ではありますが、彼らの安全を守るのです。

 ワクチンの接種を終えると、わたくしは、彼らを空いている個室に入れてあげます。どの部屋も同じ正6角形をしており、蜂の巣のように、縦横びっしりと無駄なく並んでいます。上から見ると、とても美しいものです。個室にはそれぞれ、机と椅子とベットを一つずつと、十分な食料を入れてあります。これらの家具も食料も、わたくしが他の国から持ってきたものです。盗んだのではございませんよ。廃棄物として処分される一歩手前のものを、救済してきたのです。廃棄物とはいえ、まったく問題なく使えます。今では資源など、自分たちの手で新たに作り出したりしなくとも、探せば掃いて捨てるほど余っているのですから、それらを集めてくれば、飢えた子供たち全員を十分まかなえるのです。それから、そう、絶対に入れ忘れてはならないのは、回し車です。一人一台、部屋の中に、必ず回し車を与えてやります。食べるものと、安全に暮らせるところは、もちろん必要不可欠なのですが、子供たちが自立できるように、労働も与えてあげなくてはなりませんからね。部屋に入れられた子供たちは、何に対しても意味を見出さずにはいられないため、誰に言われるでもなく、回し車にのって走り始めます。子供たちは、実にまじめに回し車を走りますよ。自分の体を動かして、汗を流すことは、素晴らしいことですね。自分は働いているのだという自負は、人間の心を健全にします。走ってさえいれば、日々の無為を埋めることができ、自分には価値があるというような、つかの間の自己肯定感が得られるのでしょう。

 彼らの正6角形の部屋は、全ての面が鏡でできています。ですから、この中に入れられると、反射し合った鏡の中に延々と自分の姿が続いているように見える仕組みとなっております。どこまでいっても、自分、自分、自分の世界です。当然、隣の部屋は見えません。子供たちは分断され、疎外されています。そうすると、不思議なことに、子供たちには自分の姿しか見えていないはずなのに、たえず自分が誰かに見張られているような感覚に陥るのです。その上、いつでも誰かが回し車で走っているので、カタカタという音が、ずっと周囲から聞こえてきます。他の人が走っているのに、自分だけ休んでいることに対して、罪の意識を抱き、じっとしていることに耐えられず、休息もそこそこに、また彼らは走り始めます。みんながやっているのだから自分もやらなくてはならない、と思うのです。そして、鏡に映った、汗を流して走る自分の姿を見て、子供たちは満足感を覚えます。

 壁に鏡を用いることには、さまざまな理由がありますが、その大きな目的の一つは、子供たちが外に出てしまうことを防ぐということです。二度と傷つけられたくないと切に願っている子供たちが、他人と触れ合うことで人を傷つけ、人に傷つけられることを防止するのです。鏡の世界というのは、不思議なものです。外の世界があるべきところに、内の世界が映っており、もはや向こう側はなく、世界がそこから閉じられてしまったかのように思えます。一歩外に踏み出せば、簡単に外側に触れることができるのに、鏡の内側にいると、外側があるという当然の認識すらなくすのです。彼らには、自分こそが全て。けれどもその自分が、鏡の中に無限に分裂しているので、どれが本当の自分の姿なのか自信が持てなくなっています。過剰な自己への意識は、自己存在への不安を増長させます。おまけに、この国では、子供たちの抱える強すぎる不安が、大気中に流れ出して、空にはいつでも濃い霧がかかっているので、昼と夜の区別もなく、時間の区切りがありません。時間と空間の感覚が麻痺してしまった彼らは、ただ、今この瞬間の虚無から逃れようとするばかりです。そうして、自分がここに存在していることを確認するために、自分が自分であることを表現するために、彼らは意味を求めて回し車を走ります。彼らはどれほど時間を費やしたか、知ることもないまま、成長し、歳をとり、老いてゆきます。走れなくなるほど老いても、彼らは、回し車にのるのをやめません。でも、大丈夫です。何歳になったとしても、この国にいるかぎり、わたくしの子供であることには変わりありません。

 あなたは不思議に思われるのですね。この回し車を走らせることに、いったい何の目的があるのか、と。目的など何もございません。この回し車は、走ることによって何かを作り出すことが目的なのではなく、走るという目的を作ることだけを目的としているのです。彼らの労働には、何の成果も伴いません。労働すること自体が重要なのです。ですから、意地悪な言い方をするならば、彼らは無のために一生走り続けているようなものなのですが、彼らは、自分たちが、この世に生まれてきた以上、何らかの役目を果たすべきであり、そのために自分は走っていると思い込んでいます。彼らはワクチンを打たれているがゆえに、すぐに意味を求める。たとえそれが嘘であっても、彼らは構わないのです。わたくしは、彼らのささやかな人生に、まるで意味があるかのように、錯覚させてあげています。彼らはあまりにも弱く、ありのまま空白を生きることに耐えることができません。どこに進むべきかわからないまま、自らの目の前に延々とつづく時間を、回し車を走るという行為で、わたくしは満たしてあげているのです。

 あくまで、わたくしのしていることは、まったき「愛の行い」なのですよ。わたくしは、忘れられ、嫌われ、かえりみられることのない子供たち、飢えて、住むところも、誰も頼る人もいない子供たち、そういう彼らのために、心から奉仕し、無償で仕えているのです。わたくしは、彼らを助けることによって、見返りも、成果も求めておりません。とても、とても傷ついて、痛みを持った心に、何らかの意味を与えてあげること、それがわたくしの務めなのです。わたくしは、そんな子供たちに救いの手を差し伸べています。ですから、わたくしは、あなたにもお願いしたいのです。どうか、打ち捨てられた子供たちに、やさしい手を差し伸べてください。そして、その子をわたくしのところに連れてきてください。わたくしが、その子を育て、愛し、死ぬまでお世話をいたしますから。

水車の国について

 笑い男については古くから言い伝えがあって、僕たちも小さな頃から大人たちによって聞かされていました。何年かに一度村に笑い男がやってくる、笑い男は人ではないから絶対に口をきいてはならない、笑い男と喋った子供は連れ去られてしまう、と。けれど大人たちは僕たちにそう注意するわりに、笑い男というものが一体どういうものなのかについては多くを語ろうとせず、ただひたすら笑い男と喋ってはいけないと釘を刺すだけでした。だから結局そんな注意をしたって、子供たちは好奇心を抱くことはあっても本気で警戒することはなくなってしまっているような気がします。僕自身も笑い男というものについては何一つわかっていないのですが、僕が経験し知り得た限りのことをあなたにお話しておこうと思います。

 僕たちは小さな名もない国の水車のある村に暮らしています。村での生活は質素で、単調で、かつ過酷です。来る日も来る日も朝早くから暗くなるまで粉を曳き、穀物置場へと上り下りし、薪を割り、冬は雪かきをし、穀物にかじりつこうと隙を狙うねずみたちを追い払う。美しくのどかな村に見えますが、内実は重労働ばかりで僕たちの体は腰も肩も腕や足もいつも痛んでいるのです。村には子供と大人の区別なんかなく、僕も物心ついたときにはすでに労働者の仲間入りをしていました。

 ある日、いつも通り粉置き場につもった粉を掃いていた僕は、粉にむせて咳がとまらなくなってしまったので窓を開けて休んでいました。その時ふと、街の方から見覚えのない人影が村に向かってやってくるのが見えました。白と黒の奇妙な帽子をかぶり、顔を白く塗り、真っ赤な口紅で大きく笑った口を囲い、男なのか女なのかわからない奇妙な人物。僕は笑い男の外見について何も教えられていなかったにも関わらず、その人物を見ると瞬時に「笑い男だ」と確信しました。僕は急いで大人たちを呼びに行こうとしたのですが、頭ではそのつもりでいたのにどうしても足が動きません。なぜか急に、笑い男のことは大人たちに教えない方がいいように思えてきたのです。しばらくすると笑い男は消えたようにいなくなっていました。その日の夜、友人たちと集まったときに、笑い男を見たということを恐る恐る告げると、同じ体験をしたのは僕ばかりではなく、友人たちもみんな一人でいたときに笑い男を見たのにも関わらず、大人のところに行こうとすると急にその気が失せてしまった、とのことでした。結局、僕たちは笑い男のことは子供たちだけの秘密にしておこうということに決めました。こうして笑い男はだんだんと僕たちに近づいて来るようになったのです。ドアを閉めていたはずなのに粉置き場にいるときにすぐ後ろに立っていたり、水車小屋の裏で遊んでいるときにじっとこちらを見ていたり。笑い男はきまって子供が一人でいるか子供たちだけでいるときにしか姿をみせません。もしかしたら子供しか姿を見ることができないのかもしれません。

 笑い男はこれといって悪いことをするわけではないんです。ただ僕たちの近くにこっそりとやってきて、驚いて声をあげようとする僕たちを制し、いきなり手品を披露するのです。おどけたように両手を開いて何のタネもしかけもないことをみせてから、何もなかったはずの手のひらから風船を取り出して僕たちに渡す。そして同じく何もなかったはずの空中から紡ぐように奇妙な形の笛を取り出して奇妙な旋律を吹く。すると風船は笛の音に合わせて形を変えながら踊り出す。風船は曲が終わるまで踊り続け、笑い男が笛を吹くのをやめると同時にはじけて、その中から、色も形もさまざまな一口大の「物語」の粒が現れる。僕たちが驚いていると笑い男は笑顔を浮かべたまま、どうぞどうぞと言うように物語を僕たちに手渡して、口に入れるよう促してきました。笑い男はすべてを大げさな身振り手振りで表現するだけで声を発するということがありません。どうやら笑い男は口がきけないようでした。だから僕たちは油断してしまうのかもしれない。口をききさえしなければ大丈夫だ、と。そしてまた手品見たさと、何より物語食べたさに、僕たちはいつしか恐怖を忘れて笑い男に会うことを心待ちにするようになっていました。

 村での暮らしは貧しくて食事も簡素なものばかりだったから、いつもお腹を空かせていた僕たちにとって、笑い男からもらった物語を食べるのはとても豪華で贅沢なひとときに感じられました。鮮やかな包装紙に包まれた物語を口にほおって、その不思議な味わいを一滴も漏らさないように感じ尽くし、溶けてしまうのが惜しいと思いながらなるべく溶かさないようにそっと舌で転がして、残った包装紙は丁寧に広げてまっすぐに伸ばし、大人たちにばれないように自分の寝室に隠してためておく。毎日毎日終わりの見えない単調な仕事の中で、今日は笑い男からどんな物語をもらえるだろうということだけが僕たちのささやかな楽しみになっていたのです。

 けれどもそうやって物語を食べているうちに、それまで感じたことのない薄暗い感情が僕たちの中にかすかに芽生えてきました。それは笑い男の出現と同じくらい突然に、だがしかし、時間とともにくっきりと存在をあらわにしていきました。いつもの食事は味がなくて物足りないように感じ、そのうち口に入れるのもうんざりしてきて、気づけば食事の代わりに物語ばかりを食べていました。でもそれだけでは腹がもちません。僕たちは物語をもらうために自ら笑い男に近づいていくようになりました。おまけに、僕たちは徐々に仕事もする気が起こらなくなってきました。それまでは村の仕事は大変ではあるけれど当然やるべきこととして受け入れていたのに、次第にさまざまな疑問が浮かび上がり、なぜ毎日こんなに働かなくてはならないのか、こんなに毎日粉を挽いたところでいったい何の意味があるというのか、自分はこの閉鎖的な村で一生を終えてしまうのだろうか、などと考え、この村で生きること自体がばかばかしく感じられてきて、いっそこの村を出て外の世界を生きてみたいと思うようになってきたのです。そうした気持ちから子供たちは少しずつ大人たちに反発するようになり、仕事をさぼって大人たちに殴られては、より一層、この村に縛りつけられている自分たちの運命に対して怒りを燃やすのでした。

 笑い男がやってきてから65日が経ったとき、ある事件が起こりました。子供の一人が親からひどい折檻を受けて肋骨を折られたのです。このことによって子供たち全員の大人たちへの怒りは頂点に達し、何としてもこの村を出て行く、明日にでも子供たち全員連れ立って出ていってやると心に決め、笑い男に手伝ってもらって大人たちを手品で騙してこっそり出て行こうという作戦を立てました。そのことをお願いするために僕たちははじめて笑い男に喋りかけました。笑い男は返事をするかわりにいつも通り笑っているだけでした。

 次の朝はやく目を覚ますと、村が恐ろしいほどに静まりかえっていることに気づきました。どうやら村中の水車が止まっているようなのです。真冬でもないのに水車が止まるなんてことはありえません。不思議に思って足音を忍ばせて寝室を出てみると、床に血だらけのちぎれた手足が点々と落ちていました。廊下を進んでゆくと、食堂のテーブルの上に頭部がありました。両親でした。僕は悲鳴をあげました。と同時に隣の家からも悲鳴が聞こえました。隣の隣の家からも、その隣の家からも、向かいの家からも、村中の子供たちが叫んでいるのが聞こえました。どこの家の大人たちも、子供のいない大人たちも、村中の大人全員が血だらけの肉のかたまりとなり、まるで膨らみすぎて内側から思い切りはじけてしまったみたいに内臓ごとあたりに散らばっていたのです。僕たちは作戦のことなどすっかり忘れて、お母さんお父さん、と口々に泣きわめき、動くことのない自分の保護者のあわれな残骸にすがりつこうとして、でもばらばらになった体のどの部位にすがりつけばいいのかわからなくて躊躇していました。が、その瞬間、自分の足が意思に反して勝手に歩き出し家の外に出て広場に向かってしまいました。もちろん広場の真ん中には笑い男がいて、あの奇妙な笛を吹いていました。

 そうして笛を吹く笑い男を先頭に、僕たち130人の子供たちは泣きながら列をなし、村を出て山をぞろぞろと歩きました。止まりたいと思っても、帰りたいと思っても、僕たちは自分の体を思う通りに動かすことができません。僕たちは歩きながら、あんなに憎んでいたはずの大人たちが死んでしまったことに対して、うまく現実を受け入れられず、希望通り村を出られたはずなのに喜べず、どうしてこんなことになってしまったのか、何がいけなかったのか、別に僕たちは殺すつもりはなかったのに、こっそり村を出るだけでよかったのに、笑い男が勝手なことをしてしまったのだ、だから大人たちを死なせてしまったのは僕たちのせいではない、僕たちは悪くないんだ、と思い込もうとしました。そもそも笑い男が物語なんかを僕たちに無理やり食べさせたのがいけなかったのではないか、物語のせいで僕たちは村を出たくなったのだ、それもこれも全部笑い男のせいだ、それまで僕たちはごく平和に暮らしていたのに笑い男がやってきたせいで何もかもおかしくなってしまったのだ、と思うことにし、こいつさえいなければ僕たちは元に戻れるはずだと、ひょこひょこと軽い足取りで先頭をとる笑い男の背中にこの上ない憎悪を抱くのでした。

 一日中休むことなく歩き続け、夜になって山の中のひらけた一帯にたどりつくと、やっと、笑い男は笛を吹くのをやめました。僕たちは疲れて座りこみ、小さな子供の中にはすすり泣いているものもいました。笑い男は僕たちをほおって木に登って枝の上でいびきをかいて寝始めましたが、その寝方はあまりにも無防備で隙だらけで、まるで「どうぞ襲ってください」と言わんばかりでした。僕たち年長の子供たちは、鼻ちょうちんを出してぐっすり眠っている笑い男に一斉に襲いかかり、縄で片足をぐるぐる巻きにして、木に結んで笑い男を逆さに吊るし上げました。僕たちは幼いものから年長のものまで揃って悲しみと怒りの叫びをあげながら、丸腰の笑い男に片っ端から石を投げつけ、枝で殴りつけ、汚い罵倒の言葉を吐きつけました。でもどんなに強く殴っても罵っても、笑い男の顔はいつも通り笑ったままで、そうすると僕たちはますます笑い男が憎たらしくなってきてさらに激しく暴力をふるいました。相手を痛めつけてやりたいということだけを考え、どうやったら一番痛いだろうかと思案し、石が笑い男の顔のど真ん中にあたるとみんな歓声をあげる。今考えれば、なんとおそろしいことをしていたのだろうと思うのですが、そのときの僕たちは、大人たちを殺した笑い男を処刑することが絶対的な正義であり、自分たちは神に変わって正しい行いをしているのだという快感のようなものに取り憑かれてしまっていたようなのです。そのときの僕たちは僕たちではなくなってしまったみたいでした。

 笑い男がまったく反抗しないことをいいことに僕たちは一晩中笑い男を吊るし上げました。泣いていた僕たちはいつのまにか笑いながら笑い男に暴力をふるい、笑っていた笑い男はいつのまにか笑うのをやめていました。そして誰かが「何か聞こえてくる」と言い、ふとみんなが動くのをやめると、笑い男がかすかに嗚咽をもらしていました。僕たちが笑い男の声を聞いたのはそれが最初で最後でした。僕たちの熱は急に冷め、呆然とその姿を眺めているうちに、笑い男の体はしぼんでいって、どんどん小さくなり、しまいに手のひらの大きさくらいまでになると、まったく動かなくなりました。それは空気の抜けた風船になっていたのでした。

 僕たちは自分たちが笑い男を殺してしまったのか、殺してはいないのか、僕たちが殺したものはいったいなんだったのか何もわからないまま、互いに口をきくこともなく黙って山を降りていきました。そして家に戻ると死んだはずの大人たちが生きていて、「仕事をさぼったな」と言って僕たちをしこたま叱りました。僕たちは驚いて何も言えないまま、自分の心の内になんともいえない不快感が渦巻くのを感じました。仕事をしながらも、夜ベッドに横になりながらも、僕たちは勘違いしていたのではないか、僕たちは間違いを犯してしまったのではないかという果てしない問いに苛まれました。僕たちはどこから間違えてしまったのか、笑い男は大人たちを殺してはいなかったではないか、ではあの血だらけの死体はなんだったのか、幻覚だったのか、ならば笑い男の死体も幻覚だったのかもしれない、そもそも笑い男という存在自体が幻だったのかもしれない、そうなると僕たちは何も殺してはいないのかもしれない、僕たちは何も悪くなかったのかもしれない、そうだ僕たちは悪くなかったのだ、と自分に言い聞かせれば聞かせるほど、僕たちの耳の内側には笑い男の嗚咽がへばりつき、脳裏には夜の闇にくっきりと見える宙吊りになった笑い男の白い顔が浮かび、僕たちの体じゅうに笑い男を暴行したときの快感が生々しく再生されてくるのでした。

 それから僕たちはもう二度と色とりどりの物語のことも考えることなく、村を出たいと思うこともなく、大人たちに素直にしたがって村の仕事に精を出すようになりました。それは別にこの村の暮らしに意義を見出したからではなく、単純に笑い男のことを思い出したくなかったからです。少なくとも働いている間は余計なことを考えずにすむし、疲れていればすぐに寝ることができる。そうして誰も二度と村の外に出ないまま、あっというまに僕たちはこうして大人になってしまいました。

 僕のお話した笑い男のこの話は、僕個人の話であると同時にこの村自体の話でもあります。村の人々はずっと単調な暮らしをしていて、ときどき笑い男がやってくる。笑い男が来てから65日目には決まって子供が折檻される事件が起こり、次の朝には決まって130人の子供たちが笑い男に連れ去られる。どうやら昔から何度も決まって同じことを繰り返しているらしいのですが、笑い男がいったいなんのためにこの村にやってくるのか、どこからやってくるのか、僕たちに何をもたらそうとしているのか、笑い男とは何だったのか、いまだにわかりません。人々は笑い男のことを話したがらないので、僕が知り得た情報はこれしかありません。ふとしたことから笑い男の記憶は、僕らの心の虚ろな穴からひょっこり顔を覗かせて、自分たちに流れる野蛮な血の匂いを嗅がせてくるので、僕たちのあいだでは笑い男の話はタブーとなっているのです。僕たちは、かつて大人たちからそうされていたように、自分の子供たちには、笑い男と喋ってはいけないよ、と言うしかないのです。