冷凍された物語——ケナス・ロナーガン監督『マンチェスター・バイ・ザ・シー』

冷凍された物語——ケナス・ロナーガン監督『マンチェスター・バイ・ザ・シー』

 毎日ニュースや新聞ではおびただしい数の犯罪や事故や災害の報道がされていて、確実に当事者というのは存在しているはずなのに、都市に住むわたしたちは道を歩いて人々とすれ違うときその当事者たちの顔を見つけることはできない。もちろん彼らが胸に「犯人」とか「被害者」とか「遺族」とかいう名札をつけているわけでもなく、同じアパートのとなりの部屋に誰が住んでいるのかも知らないようなこの時代に、聞かれもしないのに自分から過去のことを語るわけもない。
 事故が起これば人々は現場に群がり、驚きや怒りや悲しみの声を上げる。けれどひとしきり感情を発散させたあと、人々はまた自分の生活へと戻ってゆく。いつまでも他人のことを気にかける暇などわたしたちにはないのだ。十分に消費されつくして味がなくなり、「もうあなたたちの出番は終わり」と、視野の外に追いやられてぽつんと取り残された当事者の前には、ただ苦しみを乗り越えるための長い日常という道が延々とつづいている。
 ケナス・ロナーガン監督は、そのように忘れ去られていったあとも確実に血を流し続けている当事者たちの存在を浮かび上がらせる。2000年の初監督作品『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』では幼い頃に両親を交通事故で失った傷をいまだに引きずる姉弟を、続いての2011年『マーガレット』では、自分のちょっとした過ちから老女を事故で死なせてしまった記憶から逃れられずに逡巡する女子高生の姿が描かれる。
 そして本作『マンチェスター・バイ・ザ・シー』では、自分の過失によって愛する子供たちを火事で亡くしてからというもの、誰に対しても心を一切開くことなく凍らせたまま生きている青年、リー・チャンドラーが主人公だ。

 ボストンで便利屋をしているリー・チャンドラーは、アパートの住人たちの要望に応じ、トイレのつまりだとか配管の水漏れだとかを修理している。愛想がなくいつも無表情で、喧嘩っ早くて挨拶もしないのでクレームも多いが、腕がいいので管理人からは往往にして許されている。
 リーは雪に覆われた半地下の質素な部屋に一人暮らしをしていて、誰に対しても、何に対しても、自分の中に踏み込ませないように壁をつくっている。仕事終わりに行ったバーでは、隣にいた若い女に話しかけられても拒絶し、自分のことをチラチラと見ていた男の客たちには言いがかりをつけて殴りつける。便利屋の客たちに言われるがままソファやらダンボールやら何から何まで次々とゴミ箱に捨てていく姿は、自分が手にしているものがなんであろうが大した違いはなく、何もかもを捨ててしまおうとしている彼の生き方そのもののようにもみえる。
 いつも通り淡々と雪かきの仕事をしていたリーのもとに、ある日一本の電話がかかってくる。故郷の港町マンチェスター・バイ・ザ・シーに住む兄ジョーが心臓発作で倒れたという知らせだった。特に驚くこともなく車で故郷へと向かい、病院で予想通りジョーの死を告げられたリーだが、ジョーの遺言の内容を知らされて激しい動揺を隠せなくなる。ジョーは、遺された一人息子パトリックの後見人としてリーを指名し、故郷に帰って一緒に暮らすようにと記していたのだった。呆然とするリーの脳裏には、ずっと凍らせていた記憶が否応なく蘇ってくる。妻と3人の幼い子供たち。散らかってはいるが暖かな部屋。仲間達と深夜遅くまで騒いでいたビリヤード。子供達のために薪木をくべてやった暖炉。立て忘れた暖炉のスクリーン。酒を買いにいこうと出かけた夜の道。戻ってきたら燃え上がっていた自宅。泣き叫びながら子供達を助けに行こうとしている妻。彼女を止める消防隊員。そして一部始終をただ見ているしかできなかった無力な自分。
 あまりにも重すぎる過去の匂いが充満しているこの街に戻って住むことなど到底できないと思うリーは、パトリックの後見人になってほしいという兄の遺言を受け入れることができない。リーはかつて自分の犯してしまった過ちを警察や法律が罰しなかった代わりに、自らボストンの牢獄のような柵のついた部屋にこもっていまだに自分で自分を罰し続けているのだ。便利屋として他人の家を直すことはできてもリーは自分の壊れた心を直すことができずにいる。死んだ兄はそんな風にいつまでも心を閉じたままのリーを心配し、故郷に戻ることで立ち直ってほしいと思ったのだろうが、リーの心はかたくなにこの街の記憶を拒絶し、仕方なくパトリックと暮らし始めてからも、街に面した部屋の窓を不意に殴り割ったりする。まるで自分に後ろ指を指すこの街そのものを破壊するかのように。
 そんなリーと対極にある存在として描かれるのが甥っ子のパトリックだ。アイスホッケーの選手として活躍している高校生のパトリックは、多くの友人に囲まれ、ガールフレンドをかけもちし、へたくそなバンドをやっていて、父を亡くしても皆に支えられてなんとか元気にしている。この小さな街で思い切り青春を謳歌しているパトリックは、自分の後見人になることを嫌がっているリーに不満を抱き、いつも誰に対しても無愛想なその態度を解せないでいる。
 リーとパトリックの違いが象徴的に描かれる場面がある。ふたりはそれぞれジョーの亡骸を見に行くが、冷凍されて白く乾いた兄の遺体をじっと眺めてハグをし、その顔にキスをするリーとは対照的に、パトリックは父の凍らされた姿を十秒と見ていられず足早に遺体安置所を出る。自分の心を過去のまま凍らせているリーが冷凍された死体に何ら違和感を抱かない一方で、今という生を謳歌するパトリックが時間を停止させる「冷凍」というものに過剰に拒否反応を起こすことは当然のことだろう。冬のあいだは墓地に雪が積もっていて埋葬することができないから、春になって雪解けするまで死体を冷凍保存しておこうとするリーに対し、パトリックは父を凍らせておくなんて絶対に嫌だと反対し、自分の要望が聞き入れられないと、しまいに自宅の冷蔵庫にあった冷凍チキンを見てパニック発作を起こすまでになる。
 リーはパトリックがなぜそこまで冷凍保存を拒否するのか、なぜ冷凍チキンなんかを見てパニック発作を起こしているのかまったく理解できないし、パトリックはなぜリーが誰に対しても心を開かず敵対的なのか、なぜ自分の後見人となって一緒にこの街で暮らすことをそんなに嫌がるのかを理解することができない。二人は別に嫌いあっているわけではない。むしろ相手を思って心配しあっているのに、互いの心のなかをのぞきこむことのできないまま、違うタイミングでドアを開け閉めするようにすれ違ってばかりいる。
 そんな硬直した二人の関係性を溶解するきっかけとなったのがジョーの遺した船だ。その船はまだジョーが生きており、パトリックがほんの子供で、リーも家族と暮らして幸福だった頃に三人でよく釣りにでかけた船だった。はじめは、モーターが壊れているし維持費がかかってしまうから売ってしまおうとしたリーだが、ふとした思いつきでモーターを直すことに成功する。直った船にガールフレンドを乗せて運転するパトリックのうしろ姿をそっと見守るリーの顔には久しぶりの笑みがこぼれる。
 こうして船の心臓ともいうべき壊れたモーターが動きはじめたことによって、リーの止まっていた心にもゆるやかな変化が訪れる。リーの頑なに固まった心を最も動かしたのは、ばったり出くわした元妻からの赦しの言葉だった。リーは慌てて逃げるようにその場を去るが、バーに行って酔っ払った末に他の客に殴りかかって怪我をし、連れていかれた友人夫婦に介抱されながら、何も語ることなくただただ黙って涙を流す。そうして怪我をして戻ってきたリーを見ても、もはやパトリックは以前のように「バカじゃないの」とは言わない。リーがリビングで寝ているあいだに、ふとリーの部屋に入ったパトリックは、ベッド脇のテーブルに3つの写真が置かれているのを見る。それは何にも興味がなく、何もかも捨ててしまおうとするリーが、唯一大切にしているものだった。写真の中身はわたしたち観客に映されることはない。リーの心を覗き見ることができるのは甥のパトリックだけの特権なのだろう。リーの傷の深さを垣間見たパトリックはしばらくその写真に釘付けになったまま動けなくなる。なぜリーがこれほどまで他人に対して心を開くことをできないのかを悟ったパトリックは、黙ったままリーのもとにいき、何か必要なものはないか、とやさしく声をかける。
 この映画では春が近づくにつれて街に降り積もった雪が溶けていく過程と、リーの凍った心が少しずつ溶けていく過程が並行して描かれている。雪が大気に触れれば少しずつ溶けていくように、凍りついた心も人と触れあえば徐々に溶けてゆくものだ。
 といっても、その溶け方は、ほんのささやかなものだ。結局リーはパトリックの後見人になることを正式に辞退し、ボストンのアパートへと一人帰ることにする。リーはパトリックに言う。「乗り越えられない」。それは一見あまりにも救いのない言葉のように思えて、実のところ、それこそが救いの言葉ではないだろうか。たしかに物語のあらすじだけみれば「最後まで過去から立ち直ることができなかった失敗物語」でしかないかもしれない。けれどジョーの埋葬の後、2人並んで歩きながら、リーはボストンの今の部屋を出てパトリックが泊まりにこれるよう広い部屋に引っ越すつもりだという計画を恥ずかしそうに告げる(そしてこの時パトリックは冷凍のアイスを食べている)。リーの心はわずかではあるが確実に溶けはじめているのだ。落ちていたボールを拾って投げやりに放るリーと、そのボールを拾って無邪気に何度も投げ返すパトリックの姿は、かつてジョーと3人で船に乗って遊んでいた頃のあたたかさを彷彿とさせる。
 ロナーガン監督は、大きな痛みを負った人間の背中をむりやり押して「幸せ」になることを強要したりしない。早く立ち直らなくてもいいのだと、もう少し自分のペースでゆっくり心を溶かしていってもいいのだと、あえて凍ったままでいることを許すその眼差しによってはじめて溶け始める心というものもあるのだ。そういう意味では、都市というのは「冷凍」にうってつけの場所だ。黙っていること、匿名であること、誰にも干渉されないことが許され、記憶を封印し、重い過去すら無色にすることができる場所。都市にはきっと、凍ったまま語られることのない物語が、誰に知られることもなく毎日すれちがっているのだろう。

児童文学おもろー① 愛と愛の欠如をめぐる物語–J・K・ローリング「ハリー・ポッター」シリーズ

 

愛と愛の欠如をめぐる物語——J・K・ローリング「ハリー・ポッター」シリーズ

 

深沢レナ

 

 

「ハリー・ポッター」という名前を聞いたことのない人はおそらくほとんどいないであろうが、実際、ハリー・ポッターシリーズの原作「賢者の石」から「死の秘宝」までの全7巻を読破したという人は、実はそう多くないのではないだろうか?

わたしの周りでよく聞くのは、①好きだったけど途中でやめた(特に5巻あたりから急激に話がヘビーになっていくからついていけなかった)、②好きではないけどとりあえず読んではいたものの上下分冊になりはじめた4巻からしんどくなってやめた、③映画でみたから結末は知ってるけど小説はぜんぜん読んでない、④有名すぎてなんかもはや読む気になれない、などなど、だ。

かくいうわたしも小学生時代にやってきたハリー・ポッターブームの波にノリノリで乗りながらも、いつのまにか読まなくなって棚の上の方におしやり、埃をかぶっていたそれを「これ邪魔だから捨てていい?」と親に言われるままBookoffに売られてしまった子供の一人だったのだが、「あー将来すっごい暇ができたらハリー・ポッター大人買い&大人読みとかしてみたいなー」なんていうささやかな夢を抱いていたところ、先日やっと叶える機会が訪れて、いざ、全巻一気読みしてみたら、これが予想をはるか超えて、めちゃめちゃ面白い。と、いうことを、結構いろんな人に話してみたのだけれど「今更ハリー・ポッター? ははは」と鼻で笑われてばかりなので、なんとかその魅力を伝えてみようと思う。

今回読んでみてわかったのだが、4巻・5巻から読むのをやめる人が多いというのはおそらくあたりまえのことで、1巻から3巻までと4巻以降はまるで別作品といってもいいほどタッチが違う。闇の帝王ヴォルデモートに両親を殺された少年ハリー・ポッターが仲間とともに敵に立ち向かう! という勧善懲悪な物語の大筋は最初から最後まで一貫しているものの、3巻までは、現実のこちら側の世界では叔父叔母夫婦に虐待されている男の子ハリーが、魔法学校にいって大活躍するけれど、夏休みになると結局またさえない現実に戻って来る、という一種の異界探訪譚として構成されていた。ところが4巻ではそれまで大体ハリーに付き従っていた語りの視点が、まったくの別の場所にいるまったく見知らぬ人物に置かれて幕を開ける。未知の他者から始められるこの巻の冒頭は、その後の物語の方向性を示唆的に表している。ハリーという主人公中心に成り立っていた堅固で守られた世界が崩れ始めていくのだ。ハリーは親友のロンとの間に微妙な距離感が生まれてすれ違い、友人ハーマイオニーは「屋敷しもべ妖精」たちの待遇改善運動を独自に始める。登場人物もこのあたりから一気に増え、海外にある魔法学校の生徒たちが対抗試合にやってきたり、魔法省とよばれる政府の人々やジャーナリストといったホグワーツ魔法学校の外側の人々が登場し、ついでにハリーが恋にめばえたりして、物語は急に社会化されていく。

そしてなにより3巻までの「まあなんだかんだいってハリーたちには魔法界最強のダンブルドア校長がついてるから大丈夫でしょ」という根拠のない安心感が、4巻の最後でセドリックという好青年の無意味で残酷なだけの死によってがらがらと崩れ落ち、ハリーたちと同時に読んでいるわたしたちも不安に陥れられていく。絶対に自分を守ってくれる誰よりも強い存在であったダンブルドア校長が老いて弱っていくのを見て外的な守りが弱くなっていくのと同時に、ハリーはまた内的にも確固たる基盤が揺らいでいくのを感じる。また、正義の人間だと思っていた亡き父親ジェームズが、弱い者を暇つぶしにいじめるような傲慢で鼻持ちならない奴だったことを知って動揺する。外的にも内的にも「父なるもの」を失ったハリーは、父の生き方そのものをなぞるのではなくて、自分独自の道を打ち立てることを余儀なくされるのだ。5巻以降は名付け親のシリウスをはじめハリーは愛すべき人物を次々に失っていくわけだが、読んでいるわたしたちもハリーと同じようにその喪失の痛みを抱えなくてはならない。しかし成長するとはそういうことなのだ。

はっきりいってしまえば、ハリー・ポッターシリーズは単に魔法ファンタジーを扱っただけの児童文学ではなく、独裁者の盛衰について書かれた戦争文学であり、さまざまな愛のかたちとそこから生まれる差異を描いた恋愛文学であり、究極的には現実のパロディ文学である。『指輪物語』のJ・R・R・トールキンや『ゲド戦記』のアーシュラ・ル・グウィンが、知識を体系的に構築することで「中つ国」や「アースシー」という独自の世界を現実の外部に確立していったのとは対照的に、ハリー・ポッターシリーズの作者J・K・ローリングは、あくまで魔法界を人間界(マグル界)のパロディとして描いており魔法界にあるものはほとんどすべて人間界のものと交換可能なものになっている(なにしろ魔法界への入り口はキングズ・クロス駅の9と4分の3番線なのだ)。ローリングにとって重要なのは魔法界といった舞台を綿密に作り上げることではなく、そこに生きる人々の姿を描くことなのだろう(死人やゴーストもいるが)。おそらく自身の教師経験を生かして描かれた魔法学校の生徒や教師や、そこの住人たちは生き生きとしてそれぞれ「ちびまる子」ばりのキャラクター性を有しているし、毒舌記事ばかり書く記者、生徒をいじめる管理人なんていう嫌な人物にも「こーいうやついるよなー」とニヤニヤさせられる。多くの読者が「魔法省」だとか「日刊予言者新聞」だとか「クィディッチ・ワールドカップ」なんていう単語にクスッとさせせられたものだろう。しかしローリングの用いるパロディは決して表面的なものだけに収まることなく、わたしたちのなかに潜む深い闇をじわりじわりとあぶり出す。例えば「人狼」であるルーピン先生への登場人物たちの偏見や嫌悪はまるで「病」へのそれであるし、森の番人ハグリッドが「半巨人」であると知ったときの人々の反応は現実における人種差別と変わらない。「第一次魔法戦争」「第二次魔法戦争」というネーミングはもはや説明不要だ。闇の帝王が復活したにもかかわらず自分の地位を守るためにその事実を認めず、虚偽の報道ばかり行った魔法省大臣やメディアのあり方は太平洋戦争中の大本営発表そのものであり、また、純粋な魔法使いの一族に生まれたのか人間(マグル)との間に生まれたのかどうかを「純血」「混血」と区別し、マグル生まれがいるだけでその血統は「汚染」されていると考える純血主義は、「アーリア人」「ユダヤ人」を明確に区別したナチズムのアーリア人至上主義と全く同じものである。そしてここで描かれているよりもひどい大量虐殺が現実に行われていたのだということを思い出す時、わたしたちはもはやローリングのパロディに笑えなくなってくる。

なんて、そんなことを書くとなんだかより一層重苦しいものとして敬遠されてしまうかもしれないが、ローリングは何よりも「愛」を描く作家だ。話が進み、戦いが熾烈になっていくなかでも登場人物たちの恋愛模様が常に描かれ、最終巻にいたっては、危険な情勢にもかかわらず、結婚式という晴れやかなイベントが行なわれているのは面白い。それほどまでに「愛」というものの存在が重要視される中で、(一見そんな風にはまったく見えないのだが)もっとも愛に生きた人として描かれているのは、ねっとりとした存在感をはなっていたスネイプ先生だ。ハリーを忌み嫌うスネイプの心の奥底に隠されていたハリーの母リリーへの一途な愛を知って思わず涙してしまった読者は少なくないのではないだろうか。幼い時からリリーに思いをはせながらも報われることのなかった彼の生き様を最後に知ったとき、ハリー・ポッターという日向を生きる少年の成長物語であったこの小説は反転し、セブルス・スネイプという日陰を生きた少年の悲恋を描いた物語が新たに浮かび上がってくるのである。

また当然のことながら愛は憎しみとも表裏一体である。スネイプはリリーを愛すると同時に、リリーを奪ったジェームズを恨み、ジェームズに外見のそっくりなハリーを憎む。憎しみは憎しみを生み、ジェームズやハリーを愛するシリウスはスネイプを憎む。ハリーを愛するがゆえにできるだけ一緒に過ごしたいと願うシリウスは、まだ若い子供達を守りたいと願い無謀な行動を慎むべきと考えるロンの母親モリーと対立する。そのように味方同士の中においてすら、人々のさまざまな愛のあり方が対立を生み出し、衝突を引き起こしていく複雑な物語のなかで、ただ一人ヴォルデモートだけが愛というものを全く有さない。彼が人間ではなく骨董品という物に執着するのはそのためだ。彼にはそうした愛をめぐって生じる「誤差」がないためシステマティックに計画を進めて圧倒的な力を有することができたわけだが、誤差を軽視したヴォルデモートは誤差によって仕返しを受ける。身を挺してハリーを守った母リリー、息子を助けたいがゆえにハリーを見逃したナルシッサ・マルフォイ、屋敷しもべ妖精に愛情を抱いていたためにヴォルデモードを裏切ったレギュラス・ブラック、息子を殺された怒りから仇を打ったモリー、そうした誤差の積み重なりによって闇の帝王は滅ぼされてゆく。いうなれば、この作品は「愛」と「愛の欠如」の戦いを描いた物語なのだ。

そして親の世代が残した憎しみという遺産をハリーは自分の中で浄化させていく。三十代になったハリーが、自らの子供に「セブルス」というスネイプのファーストネームをつけていることが発覚する最終章は感動的だ。こうしてジェームズやシリウスとスネイプ、グリフィンドールとスリザリンという相対立していた要素は、長い年月を経てたくさんの犠牲を払ったのちに、かろうじて和解を遂げることになる。憎むべき対象を自らの影として切り離すのではなく、自らの中にとりこむことによって、ハリーは全体性を獲得し、次の世代にその希望を託すのだ。

 

と、ここまでとにかくベタ褒めしてきたが、わたしが首を傾げた点が一つ。

7巻の最後、リンボのようなところでハリーが死んだダンブルドアと話す場面がある。このときヴォルデモートの傷ついた無力な醜い魂がそばに転がっているのだが、ダンブルドアもハリーもこの哀れな魂を助けることはない。ダンブルドアは言う。「きみには、どうしてやることもできん」。親に捨てられ誰にも愛されることなくそして誰のことも愛する事ができずに悪の権化と化したヴォルデモートには本当に救いの道はなかったのだろうか? おそらく宮崎駿の描くキャラクターなら、この醜い生き物に「あんた、しっかりしなさいよ!」とかいって、励まして連れて帰って一緒に暮らし始めてしまうことだろう。