ささやかに日常を彩る——イスマル・ラーグ監督『クロワッサンで朝食を』(2012年) (原題『Une Estonienne à Paris(パリのエストニア人女性)』)

 自分にとって大切な、かけがえのない人であるはずなのに、その人の寝顔を眺めながら、「どうかこのまま死んで欲しい」と願ってしまう。介護というものが人々にとって等しく辛いものであるのは、物理的や肉体的な負担と同じくらい、自分の心の奥底に渦巻く黒い感情と向き合うことを余儀なくさせられる精神的な負担も大きいからなのだろう。すっかり無力になってしまった姿、ぼけて別人になってしまった姿を見るたびに、かつての元気な姿を、かつてそこにあったはずの存在を、わたしたちは否応なしに想起してしまう。こんな姿を見るくらいならこのまま死んでくれたほうがいいと、ふと思ってしまってから、そんな風に思ってしまった自分のことを恥ずかしく感じる。あれだけお世話になったのに、自分を育ててくれた人なのに、安易に死を願うなんて自分はなんと恩知らずなのだろう、と。そして何も感じないように心の彩度を下げてから、その人が息をしているのを確認して、色彩を欠いた繰り返しの生活をまた続ける。

 

 エストニアの田舎町に住む中年女性アンヌは一人で認知症の母の世話をしている。アンヌの介護を支えるものはいない。娘と息子は遠くに住んでおり、12年前に離婚した元夫は酒飲みで未だにアンヌにつきまとい、彼女も彼を見殺しにはできず縁が切れないでいる。

 母の誕生日の夜、街でケーキを買ってきたアンヌはバスから降りたところで元夫に絡まれる。酔っ払って雪の積もった車道に寝転がってしまった彼を立たせ、腕を組んで支えて家に連れていったところが、玄関で無理やり犯されそうになる。なんとか彼を払いのけて階段をかけ上り部屋に入ろうとするものの、騒動に怯えてしまった母はドアに鍵をかけてアンヌを入れてくれない。怖がる母は目に涙をためて言う。「あんたは誰? 私の娘はティーナよ」。ろくでなしと結婚してしまったアンヌに失望した母は彼女をもはや娘として覚えていないのだ。そんな母をアンヌは優しく説得し、「ケーキを焼くわ」と抱きしめる。これが彼女の日常だ。疲れ切って感情を抑圧しているアンヌの顔は人生を諦めているかのように無表情で、実用一辺倒のくすんだ色の服が彼女をより老けさせている。

 ある夜、母の傍らで寝ていたアンヌは水を飲みにキッチンに立ったが、戻って母の寝息を確かめると呼吸していないことに気づく。母の手が硬くなっているのを確認し、ベッドに座り込んだアンヌの顔には、悲しみの表情も安堵の表情もはっきりとは読み取ることができない。

 母の葬儀の後、がらんどうのようになっていたアンヌの元に、以前所属していた介護の職場から仕事の依頼が舞い込む。パリに住むエストニア出身の老婦人の世話係だ。娘に電話して相談し、ぜひ引き受けるべきだと言われたアンヌは、重い記憶を捨てていくかのようにスーツケースに必要な荷物だけをまとめてパリに旅立つ。ささやかな期待を胸に夜の空港に降り立ったアンヌだが、雇い主である中年紳士ステファンと合流して車に乗るとそんな明るい気持ちもすぐにしぼんでしまう。パリに来るのが夢で学生時代には熱心にフランス語を学んだとアンヌが語っても、ステファンは考え事をしているようでろくに聞いていないからだ。アンヌは口をつぐみ、暗い窓の外を眺める。高級アパルトマンに着くとステファンは簡単に仕事の説明をし、寝室で寝ている老婦人に聞こえないようにアンヌにそっと告げる。老婦人のフリーダは「辛辣な皮肉屋」だが、振り回されないように、と。

 アンヌはステファンのそのセリフの意味をすぐに知ることになる。フリーダはただの「病弱で孤独なエストニア女」ではなく、母語であるエストニア語を決して話さない誇り高きパリジェンヌなのだ。朝食にスーパーで買ってきたクロワッサンを見て「プラスチックを食べろと?」と嫌味を言われ、お茶をわざとこぼされ、「家政婦なんかいらない」とさっそく解雇を言い渡されるアンヌ。困った彼女はすぐ近くでカフェを経営しているステファンの元へ行って助けを求めるが、今まですでに何人もの家政婦が同じ目に遭っているのを見ている彼は必死にアンヌを説得する。彼はフリーダの家へアンヌを再び連れて帰る。ステファンの姿を見たフリーダは表情を変え、彼に甘えて腕を組み、家政婦ではなくてステファンに面倒を見てもらいたいと駄々をこねる。アンヌはフリーダの態度を見て、それまで彼らを親子のような間柄と思っていたがどうやら違うらしいことに感づく。案の定、ステファンに訊ねれば、彼はフリーダのかつての愛人なのだという。フリーダはエストニア出身だが人生のほとんどをパリで過ごしていて故郷には縁がなく、夫亡きあとも裕福な暮らしをしてはいるものの、子供もおらず天涯孤独の身なのだ。わがままで気まぐれなフリーダには友達もおらず、カフェの仕事で忙しいステファン自身も今ではフリーダをもてあましており、かといって以前睡眠薬を飲んで自殺を図られたことがあったのでほっとくわけにもいかず、家政婦としてアンヌが雇われた。今や彼女にはステファンとアンヌしかいない、というわけだ。

 一度は国に帰ろうとしたアンヌだが、ステファンの再三の説得を断れず、また、故郷に帰るのも嫌だったのだろう。アンヌは辛抱強くフリーダの要求に応じ、次第に信頼を得るようになる。そしてフリーダというパリに住む一人のエストニア人女性の生き方を知ろうとし、彼女の語る昔の男たちの話に耳を傾け、夜になるとこっそり書斎の写真や新聞記事の切り抜きを見て彼女の過去を想像する。たしかにフリーダは辛辣な皮肉屋ではあるが、まだ若い頃たった一人でパリにやってきて生き抜いた自由な価値観を持った女性なのだ。フリーダの生き様は年齢にもエストニアの伝統にも縛られていない。いくつになっても自分が女性であることを忘れず、来客がなくても化粧をしてシャネルのスーツに袖を通し、ベッドに寝る時は片側に寄って隣に男のためのスペースを空けておき、暇な時間には必ず本を読む。アンヌはそうした自分のスタイルを確立しているフリーダの生活や、毎晩仕事が終わったあと密かに楽しんでいた夜のパリのウィンドウショッピングから、今まで知ることのなかった新しい空気を徐々に肌に吸収していく。

 一方、アンヌが故郷で母を亡くしたばかりだということを聞いたフリーダも、孤独なアンヌにかつての自分の姿を重ねたのか、少しずつではあるがアンヌに心を開き、自分を大事にする生き方を教える。出かけることなく家の中に引きこもって寝る時も自分の体を自分で抱きしめるように強く腕を組んでいたフリーダの心は、アンヌの存在によって次第にほぐれてゆき、二人の関係性はお互いにドアの隙間から相手を盗み見るようなよそよそしいものから、向かい合いで座って爪にマニキュアを塗ってあげる/もらうような距離に近づいていく。

 ある日フリーダは、まだパリ見物をしていないというアンヌに、二人でおしゃれをしてステファンのカフェに行こうと提案する。フリーダにとっては久々の外出だ。アンヌはどれにしようかとベッドに服を並べて、赤いトップスを選び、鏡を見ながら口紅を塗る。フリーダはアンヌの仕上がりをチェックし、普段着のダウンではなく自分のバーバリーのトレンチコートを着せて、グリーンのストールを後ろ向きに巻いてやる。パリの晴れた街並みを二人で腕を組んで女子学生のように服やセックスの話をしながら歩くシーンは、冒頭のエストニアでアンヌが酔いつぶれた元夫の腕を持って雪道を歩いていたシーンとまるで対極にあり、「とてもきれいよ」とフリーダに褒められたアンヌの顔には笑顔がこぼれている。

 ところが、アンヌとフリーダの良好になった関係性を図らずも壊してしまうのは意外なことにステファンだ。ステファンのカフェに到着した二人は当然大いに歓迎されるのを期待していたが、彼は紳士的に対応するものの「僕にも人生がある。悪いが、君を中心には回らない」とフリーダに告げてさっさと店の奥に戻ってしまう。ステファンにとってフリーダは、かけがえのない存在であると同時に疎ましくもある「早く死んで欲しい」存在なのだ。ショックを受けて帰ったフリーダは寝込んで食べることもやめてしまい、心配したアンヌはステファンに「あなたにとって彼女は死人なのね」と言って怒る。それは彼女がかつて自分の母に対し密かに抱いていた感情であるが、そう思うことを自分に対して禁じていた彼女はステファンのあからさまな態度を受け入れられない。ステファンは言う。「確かに彼女を愛したし、カフェも持たせてもらった。だが、店のせいで一生束縛されなきゃならないのか?」

 落ち込んだフリーダを励まそうとアンヌは一人思案して、フリーダのかつての友人であるパリに住むエストニア人たちを家に連れてくるが、アンヌのせっかくの努力は裏目に出てしまう。フリーダは彼らを招かれざる客だと言い、友人たちも「50年前、妻のいる男と寝ただけ」のフリーダを「エストニアの魂を失った」と批判する。逆上したフリーダは客人たちを追い返し、アンヌに対しても余計なお節介をしたと怒り、「どうせあんたは一生、エストニアの田舎者よ」「母親の代役はごめんよ」と毒舌を撒き散らす。言われたアンヌも堪忍袋の尾が切れ、「あなたがこんなに孤独なのは自分のせいよ。死にたいなら窓から飛び降りれば?」と捨て台詞をはき、荷物をまとめてフリーダの家を出ていく。

 アパルトマンを飛び出てアンヌが向かったのはステファンの元だった。彼はカフェの2階の個室にいて、アンヌはノックをして彼の部屋に入っていく。ネクタイを外して休んでいたステファンは彼女を優しく招き入れて言う。「この間、君の言ったことは正しい。僕は彼女の死を待ってる」。アンヌは答える。「分かるわ。私も母の死を待ってた」。大切な人の死を望むという、心の奥底にしまってなるべく見ないようにしていた感情を二人は告白し合い、互いの重荷を理解し、そうすることによって自分を許し合う。言葉を発するごとに距離が縮まり、背景に映る窓枠の中に二人の姿が小さく収まって、柔らかで親密な光が二人をまるごと許すように包むこの場面は、作品を通して最も優しい瞬間だ。

 よく見ていると、さりげなくステファンはたびたび隠れて酒を口にしているのだが、彼はわたしたちにアンヌの酒乱の元夫を彷彿とさせる存在でありながら、両者は確実に違う存在であることがここで強調される。待っててと言ったにもかかわらず元夫に無理やりドアを押し開けられたエストニアでのシーンに対し、ここではアンヌからステファンの部屋に赴いて招き入れられ、部屋に入ってもアンヌが自分でドアを閉める。アンヌの意思を無視して思い通りにしようとしていた元夫の姿は、今ではアンヌを一人の独立した女性として尊重するステファンによって置き換えられているのであり、そしてアンヌ自身ももう、娘に電話する癖からいつのまにか脱し、フリーダの暴言にもはっきり言い返すことで自分自身を粗末に扱わず、他人にも粗末に扱わせない女性と変化しているのだ。

 それまでは随所でアンヌが乗り物に乗っている姿が映されていた。冒頭のバスに揺られながら窓の外の景色を虚ろに眺める姿からはじまり、パリに着いて飛行機から意気揚々と降りたったにも関わらずその後すぐステファンの運転する車の助手席で気まずそうに黙ってしまう姿、フリーダに家を追い出されてパリを散歩している最中に乗った地下鉄でうっかり降り損ねてしまった姿。バスでも車でも地下鉄でも、アンヌはなんとなく心細そうな、居心地悪そうな表情を浮かべていて、その姿はどこにいても彼女が異邦人でしかないかのような、自分の家ですら鍵をかけて締め出されてしまって、どこにもあたたかく受け入れてもらえる場所のない、いつも他人に振り回されてきた彼女の人生そのものを表しているかのようだった。

 ステファンの部屋を出たあとに映されるのは、行き先の決まった乗り物に不安げに揺られているところではなく、アンヌが自分の足で歩いている姿だ。膝の見えるワンピースを着て、ストラップのついた高いヒールの靴のままスーツケースを片手にパリの街を颯爽と歩く彼女は、すれ違う男性が振り返るほど魅力的で、いくら彼女が「国へ帰る」つもりでいても、いまや彼女の存在はすっかりパリに馴染んでしまっていることが見ているわたしたちにとって明らかだ。しかしだからといってアンヌは第二のフリーダとなっているのではない。パリ見物の途中でアンヌは、以前フリーダに褒められたヒールの靴を脱いで、エストニアから持ってきたブーツに履き替え、黒いコートの上にいつものフード付きダウンを着て、エッフェル塔を見上げながら熱々のクロワッサンを頬張る。フリーダにパリの影響を与えてもらいながらも、アンナはエストニア人としての自分を保ち続けている。それは同じ金髪の移民であると同時に、エストニアを否定するフリーダとはまた違った、アンヌならではの「パリのエストニア人女性」としての生き方だ。

 一晩パリの街を満喫したアンヌはフリーダの元へ最後の挨拶をしにいく。アンヌを失ってしまったのではないかと落ち込んでいたフリーダは、彼女が戻ってきたものだと安堵し、当初は「ここは私の家」と言い張っていた自分のアパルトマンに「ここはあなたの家よ」と言って迎え入れる。そこには感動のキスもハグもない。ただドアを開けて、名前を呼んで、優しく部屋に受け入れるだけだ。アンヌは帰ってきたわけじゃないと言おうとして、奥の部屋へと戻っていくフリーダの後ろ姿をじっと見つめて、改めて、自分が本当はどこにいたいのかを悟る。

 

 まだアンヌがパリにやってきたばかりの頃、以前自殺未遂をしたのはステファンが原因かとフリーダに直接訊ねる場面がある。彼がこんなに尽くしているのはあなたを愛しているからなのに、と。それに対し、フリーダは「そんなに単純じゃないの」とだけ答える。この映画ではフリーダの死んだ夫のことも故郷の母や兄のことも、アンヌの姉妹や二人の子供のことも、ステファンの元恋人のことも、一瞬だけ語られることはあっても詳しく説明されることはない。わたしたちはどれだけ言葉を費やしたところで他人の人生や内面を完璧に知ることなど不可能で、わたしたちにできることといえば、その人の写真や私物を見て勝手に過去を想像することくらいのものだ。だがそれほど複雑で、決して理解しえないからこそ、わたしたちはある人の一部分を憎みながら、ある部分を愛するということが可能になる。その人の死を願ってしまうほど疎ましく思うと同時に、その人を愛おしく思うことは必ずしも矛盾しない。

 アンヌがフリーダの元に戻ってきたからといって根本的には何一つ解決してなどいない。きっとフリーダは死ぬまでわがままな「怪物」であり続け、アンヌとステファンは怪物の寝息を確かめ続けるのだろう。けれども朝食をいつもの決まりきったものからまったく新しいメニューに変えてみたり、あるいはちょっと近くのカフェに行くのに、いつも着ていたコートを脱いでそれまで着てみたことのないダウンに腕を通してみたりするだけで、わたしたちは諦めに満ちた日常をわずかに彩ることができる。自分を許すとは、そんなささやかな逸脱からはじまるのだ。

 

 

冷凍された物語——ケナス・ロナーガン監督『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(2016年)

 毎日ニュースや新聞ではおびただしい数の犯罪や事故や災害の報道がされていて、確実に当事者というのは存在しているはずなのに、都市に住むわたしたちは道を歩いて人々とすれ違うときその当事者たちの顔を見つけることはできない。もちろん彼らが胸に「犯人」とか「被害者」とか「遺族」とかいう名札をつけているわけでもなく、同じアパートのとなりの部屋に誰が住んでいるのかも知らないようなこの時代に、聞かれもしないのに自分から過去のことを語るわけもない。

 事故が起きれば人々は現場に群がり、驚きや怒りや悲しみの声を上げる。けれどひとしきり感情を発散させたあと、人々はまた自分の生活へと戻ってゆく。いつまでも他人のことを気にかける暇などわたしたちにはないのだ。十分に消費されつくして味がなくなり、「もうあなたたちの出番は終わり」と、視野の外に追いやられてぽつんと取り残された当事者の前には、ただ苦しみを乗り越えるための長い日常という道が延々とつづいている。

 その関係はまるで映画と観客そのもののようにも思える。その人の人生で一番味の濃い部分だけを切り取り、「物語」の形に整えて、観客の目の前に差し出して消費させる。それが映画という娯楽の孕む構造であるならば、ケナス・ロナーガン監督は、人々に忘れ去られたあとも確実に血を流し続けている当事者たちの存在にまなざしを向けることによって、映画の構造そのものを揺り動かそうとする。2000年の初監督作品『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』では幼い頃に両親を交通事故で失った傷をいまだに引きずる姉弟を、続いての2011年『マーガレット』では、自分のちょっとした過ちから老女を事故で死なせてしまった記憶から逃れられずに逡巡する女子高生の姿が描かれていた。

 そして本作『マンチェスター・バイ・ザ・シー』では、ある事故の後、誰に対しても心を一切開くことなく凍らせたまま生きている青年、リー・チャンドラーが主人公だ。

 

 

 ボストンで便利屋をしているリー・チャンドラーは、アパートの住人たちの要望に応じ、トイレのつまりだとか配管の水漏れだとかを修理している。愛想がなくいつも無表情で、喧嘩っ早くて挨拶もしないのでクレームも多いが、腕がいいので管理人からは往往にして許されている。

 リーは雪に覆われた半地下の質素な部屋に一人暮らしをしていて、誰に対しても、何に対しても、自分の中に踏み込ませないように壁をつくっている。仕事終わりに行ったバーでは、隣にいた若い女に話しかけられても拒絶し、自分のことをチラチラと見ていた男の客たちには言いがかりをつけて殴りつける。便利屋の客たちに言われるがままソファやらダンボールやら何から何まで次々とゴミ箱に捨てていく姿は、自分が手にしているものがなんであろうが大した違いはなく、何もかもを捨ててしまおうとしている彼の生き方そのもののようにもみえる。

 いつも通り淡々と雪かきの仕事をしていたリーのもとに、ある日一本の電話がかかってくる。故郷の港町マンチェスター・バイ・ザ・シーに住む兄ジョーが心臓発作で倒れたという知らせだった。特に驚くこともなく車で故郷へと向かい、病院で予想通りジョーの死を告げられたリーだが、ジョーの遺言の内容を知らされて激しい動揺を隠せなくなる。ジョーは、遺された一人息子パトリックの後見人としてリーを指名し、故郷に帰って一緒に暮らすようにと記していたのだった。呆然とするリーの脳裏には、ずっと凍らせていた記憶が否応なく蘇ってくる。妻と3人の幼い子供たち。散らかってはいるが暖かな部屋。仲間達と深夜遅くまで騒いでいたビリヤード。子供達のために薪木をくべてやった暖炉。立て忘れた暖炉のスクリーン。酒を買いにいこうと出かけた夜の道。戻ってきたら燃え上がっていた自宅。泣き叫びながら子供達を助けに行こうとしている妻。彼女を止める消防隊員。そして一部始終をただ見ているしかできなかった無力な自分。

 あまりにも重すぎる過去の匂いが充満しているこの街に戻って住むことなど到底できないと思うリーは、パトリックの後見人になってほしいという兄の遺言を受け入れることができない。リーはかつて自分の犯してしまった過ちを警察や法律が罰しなかった代わりに、自らボストンの牢獄のような柵のついた部屋にこもっていまだに自分で自分を罰し続けているのだ。便利屋として他人の家を直すことはできてもリーは自分の壊れた心を直すことができずにいる。死んだ兄はそんな風にいつまでも心を閉じたままのリーを心配し、故郷に戻ることで立ち直ってほしいと思ったのだろうが、リーの心はかたくなにこの街の記憶を拒絶し、仕方なくパトリックと暮らし始めてからも、街に面した部屋の窓を不意に殴り割ったりする。まるで自分に後ろ指を指すこの街そのものを破壊するかのように。

 そんなリーと対極にある存在として描かれるのが甥っ子のパトリックだ。アイスホッケーの選手として活躍している高校生のパトリックは、多くの友人に囲まれ、ガールフレンドをかけもちし、へたくそなバンドをやっていて、父を亡くしても皆に支えられてなんとか元気にしている。この小さな街で思い切り青春を謳歌しているパトリックは、自分の後見人になることを嫌がっているリーに不満を抱き、いつも誰に対しても無愛想なその態度を解せないでいる。

 リーとパトリックの違いが象徴的に描かれる場面がある。ふたりはそれぞれジョーの亡骸を見に行くが、冷凍されて白く乾いた兄の遺体をじっと眺めてハグをし、その顔にキスをするリーとは対照的に、パトリックは父の凍らされた姿を十秒と見ていられず足早に遺体安置所を出る。自分の心を過去のまま凍らせているリーが冷凍された死体に何ら違和感を抱かない一方で、今という生を謳歌するパトリックが時間を停止させる「冷凍」というものに過剰に拒否反応を起こすことは当然のことだろう。冬のあいだは墓地に雪が積もっていて埋葬することができないから、春になって雪解けするまで死体を冷凍保存しておこうとするリーに対し、パトリックは父を凍らせておくなんて絶対に嫌だと反対し、自分の要望が聞き入れられないと、しまいに自宅の冷蔵庫にあった冷凍チキンを見てパニック発作を起こすまでになる。

 リーはパトリックがなぜそこまで冷凍保存を拒否するのか、なぜ冷凍チキンなんかを見てパニック発作を起こしているのかまったく理解できないし、パトリックはなぜリーが誰に対しても心を開かず敵対的なのか、なぜ自分の後見人となって一緒にこの街で暮らすことをそんなに嫌がるのかを理解することができない。二人は別に嫌いあっているわけではない。むしろ相手を思って心配しあっているのに、互いの心のなかをのぞきこむことのできないまま、違うタイミングでドアを開け閉めするようにすれ違ってばかりいる。

 そんな硬直した二人の関係性を溶解するきっかけとなったのがジョーの遺した船だ。その船はまだジョーが生きており、パトリックがほんの子供で、リーも家族と暮らして幸福だった頃に三人でよく釣りにでかけた船だった。はじめは、モーターが壊れているし維持費がかかってしまうから売ってしまおうとしたリーだが、ふとした思いつきでモーターを直すことに成功する。直った船にガールフレンドを乗せて運転するパトリックのうしろ姿をそっと見守るリーの顔には久しぶりの笑みがこぼれる。

 こうして船の心臓ともいうべき壊れたモーターが動きはじめたことによって、リーの止まっていた心にもゆるやかな変化が訪れる。リーの頑なに固まった心を最も動かしたのは、ばったり出くわした元妻からの赦しの言葉だった。リーは慌てて逃げるようにその場を去るが、バーに行って酔っ払った末に他の客に殴りかかって怪我をし、連れていかれた友人夫婦に介抱されながら、何も語ることなくただただ黙って涙を流す。そうして怪我をして戻ってきたリーを見ても、もはやパトリックは以前のように「バカじゃないの」とは言わない。リーがリビングで寝ているあいだに、ふとリーの部屋に入ったパトリックは、ベッド脇のテーブルに3つの写真が置かれているのを見る。それは何にも興味がなく、何もかも捨ててしまおうとするリーが、唯一大切にしているものだった。写真の中身はわたしたち観客に映されることはない。リーの心を覗き見ることができるのは甥のパトリックだけの特権なのだろう。パトリックはリーの傷の深さを垣間見て、その写真に釘付けになったまましばらく動けなくなる。部屋を出たパトリックは、黙ったままリーのもとにいき、何か必要なものはないか、と声をかける。

 この映画では春が近づくにつれて街に降り積もった雪が溶けていく過程と、リーの凍った心が少しずつ溶けていく過程が並行して描かれている。雪が大気に触れれば少しずつ溶けていくように、凍りついた心も小さな触れ合いによって徐々に溶けてゆくものだ。

 といっても、その溶け方はほんのささやかなものだ。結局リーはパトリックの後見人になることを正式に辞退し、ボストンのアパートへと一人帰ることにする。リーはパトリックに言う。「乗り越えられない」。それは一見あまりにも救いのない言葉のように思えて、実のところ、それこそが救いの言葉ではないだろうか。たしかに物語のあらすじだけみれば「最後まで過去から立ち直ることができなかった失敗物語」でしかないかもしれない。けれどジョーの埋葬の後、2人並んで歩きながら、リーはボストンの今の部屋を出てパトリックが泊まりにこれるよう広い部屋に引っ越すつもりだという計画を恥ずかしそうに告げる(そしてこの時パトリックは「冷凍」されたアイスを食べている)。リーの心はわずかではあるが確実に溶けはじめているのだ。落ちていたボールを拾って投げやりに放るリーと、そのボールを拾って無邪気に何度も投げ返すパトリックの姿は、かつてジョーと3人で船に乗って遊んでいた頃のあたたかさを彷彿とさせる。

 ロナーガン監督は、大きな痛みを負った人間の背中をむりやり押して「幸せ」になることを強要したりしない。早く立ち直らなくてもいいのだと、もう少し自分のペースでゆっくり心を溶かしていってもいいのだと、あえて凍ったままでいることを許すその眼差しによってはじめて溶け始める心というものもあるのだ。そういう意味では、都市というのは「冷凍」にうってつけの場所だ。黙っていること、匿名であること、誰にも干渉されないことが許され、記憶を封印し、重い過去すら無色にすることができる場所。都市にはきっと、凍ったまま語られることのない物語が、誰に知られることもなく毎日すれちがっているのだろう。

 

 

児童文学おもろー① 愛と愛の欠如をめぐる物語–J・K・ローリング「ハリー・ポッター」シリーズ

 

愛と愛の欠如をめぐる物語——J・K・ローリング「ハリー・ポッター」シリーズ

 

「ハリー・ポッター」という名前を聞いたことのない人はおそらくほとんどいないであろうが、実際、ハリー・ポッターシリーズの原作「賢者の石」から「死の秘宝」までの全7巻を読破したという人は、実はそう多くないのではないだろうか?

わたしの周りでよく聞くのは、①好きだったけど途中でやめた(特に5巻あたりから急激に話がヘビーになっていくからついていけなかった)、②好きではないけどとりあえず読んではいたものの上下分冊になりはじめた4巻からしんどくなってやめた、③映画でみたから結末は知ってるけど小説はぜんぜん読んでない、④有名すぎてなんかもはや読む気になれない、などなど、だ。

かくいうわたしも小学生時代にやってきたハリー・ポッターブームの波にノリノリで乗りながらも、いつのまにか読まなくなって棚の上の方におしやり、埃をかぶっていたそれを「これ邪魔だから捨てていい?」と親に言われるままBookoffに売られてしまった子供の一人だったのだが、「あー将来すっごい暇ができたらハリー・ポッター大人買い&大人読みとかしてみたいなー」なんていうささやかな夢を抱いていたところ、先日やっと叶える機会が訪れて、いざ、全巻一気読みしてみたら、これが予想をはるか超えて、めちゃめちゃ面白い。と、いうことを、結構いろんな人に話してみたのだけれど「今更ハリー・ポッター?」と鼻で笑われてばかりなので、なんとかその魅力を伝えてみようと思う。

今回読んでみてわかったのだが、4巻・5巻から読むのをやめる人が多いというのはおそらくあたりまえのことで、1巻から3巻までと4巻以降はまるで別作品といってもいいほどタッチが違う。闇の帝王ヴォルデモートに両親を殺された少年ハリー・ポッターが仲間とともに敵に立ち向かう! という勧善懲悪な物語の大筋は最初から最後まで一貫しているものの、3巻までは、現実のこちら側の世界では叔父叔母夫婦に虐待されている男の子ハリーが、魔法学校にいって大活躍するけれど、夏休みになると結局またさえない現実に戻って来る、という一種の異界探訪譚として構成されていた。ところが4巻ではそれまで大体ハリーに付き従っていた語りの視点が、まったくの別の場所にいるまったく見知らぬ人物に置かれて幕を開ける。未知の他者から始められるこの巻の冒頭は、その後の物語の方向性を示唆的に表している。ハリーという主人公中心に成り立っていた堅固で守られた世界が崩れ始めていくのだ。ハリーは親友のロンとの間に微妙な距離感が生まれてすれ違い、友人ハーマイオニーは「屋敷しもべ妖精」たちの待遇改善運動を独自に始める。登場人物もこのあたりから一気に増え、海外にある魔法学校の生徒たちが対抗試合にやってきたり、魔法省とよばれる政府の人々やジャーナリストといったホグワーツ魔法学校の外側の人々が登場し、ついでにハリーが恋にめばえたりして、物語は急に社会化されていく。

そしてなにより3巻までの「まあなんだかんだいってハリーたちには魔法界最強のダンブルドア校長がついてるから大丈夫でしょ」という根拠のない安心感が、4巻の最後でセドリックという好青年の無意味で残酷なだけの死によってがらがらと崩れ落ち、ハリーたちと同時に読んでいるわたしたちも不安に陥れられていく。絶対に自分を守ってくれる誰よりも強い存在であったダンブルドア校長が老いて弱っていくのを見て外的な守りが弱くなっていくのと同時に、ハリーはまた内的にも確固たる基盤が揺らいでいくのを感じる。また、正義の人間だと思っていた亡き父親ジェームズが、弱い者を暇つぶしにいじめるような傲慢で鼻持ちならない奴だったことを知って動揺する。外的にも内的にも「父なるもの」を失ったハリーは、父の生き方そのものをなぞるのではなくて、自分独自の道を打ち立てることを余儀なくされるのだ。5巻以降は名付け親のシリウスをはじめハリーは愛すべき人物を次々に失っていくわけだが、読んでいるわたしたちもハリーと同じようにその喪失の痛みを抱えなくてはならない。しかし成長するとはそういうことなのだ。

はっきりいってしまえば、ハリー・ポッターシリーズは単に魔法ファンタジーを扱っただけの児童文学ではなく、独裁者の盛衰について書かれた戦争文学であり、さまざまな愛のかたちとそこから生まれる差異を描いた恋愛文学であり、究極的には現実のパロディ文学である。『指輪物語』のJ・R・R・トールキンや『ゲド戦記』のアーシュラ・ル・グウィンが、知識を体系的に構築することで「中つ国」や「アースシー」という独自の世界を現実の外部に確立していったのとは対照的に、ハリー・ポッターシリーズの作者J・K・ローリングは、あくまで魔法界を人間界(マグル界)のパロディとして描いており魔法界にあるものはほとんどすべて人間界のものと交換可能なものになっている(なにしろ魔法界への入り口はキングズ・クロス駅の9と4分の3番線なのだ)。ローリングにとって重要なのは魔法界といった舞台を綿密に作り上げることではなく、そこに生きる人々の姿を描くことなのだろう(死人やゴーストもいるが)。おそらく自身の教師経験を生かして描かれた魔法学校の生徒や教師や、そこの住人たちは生き生きとしてそれぞれ「ちびまる子」ばりのキャラクター性を有しているし、毒舌記事ばかり書く記者、生徒をいじめる管理人なんていう嫌な人物にも「こーいうやついるよなー」とニヤニヤさせられる。多くの読者が「魔法省」だとか「日刊予言者新聞」だとか「クィディッチ・ワールドカップ」なんていう単語にクスッとさせせられたものだろう。しかしローリングの用いるパロディは決して表面的なものだけに収まることなく、わたしたちのなかに潜む深い闇をじわりじわりとあぶり出す。例えば「人狼」であるルーピン先生への登場人物たちの偏見や嫌悪はまるで「病」へのそれであるし、森の番人ハグリッドが「半巨人」であると知ったときの人々の反応は現実における人種差別と変わらない。「第一次魔法戦争」「第二次魔法戦争」というネーミングはもはや説明不要だ。闇の帝王が復活したにもかかわらず自分の地位を守るためにその事実を認めず、虚偽の報道ばかり行った魔法省大臣やメディアのあり方は太平洋戦争中の大本営発表そのものであり、また、純粋な魔法使いの一族に生まれたのか人間(マグル)との間に生まれたのかどうかを「純血」「混血」と区別し、マグル生まれがいるだけでその血統は「汚染」されていると考える純血主義は、「アーリア人」「ユダヤ人」を明確に区別したナチズムのアーリア人至上主義と全く同じものである。そしてここで描かれているよりもひどい大量虐殺が現実に行われていたのだということを思い出す時、わたしたちはもはやローリングのパロディに笑えなくなってくる。

なんて、そんなことを書くとなんだかより一層重苦しいものとして敬遠されてしまうかもしれないが、ローリングは何よりも「愛」を描く作家だ。話が進み、戦いが熾烈になっていくなかでも登場人物たちの恋愛模様が常に描かれ、最終巻にいたっては、危険な情勢にもかかわらず、結婚式という晴れやかなイベントが行なわれているのは面白い。それほどまでに「愛」というものの存在が重要視される中で、(一見そんな風にはまったく見えないのだが)もっとも愛に生きた人として描かれているのは、ねっとりとした存在感をはなっていたスネイプ先生だ。ハリーを忌み嫌うスネイプの心の奥底に隠されていたハリーの母リリーへの一途な愛を知って思わず涙してしまった読者は少なくないのではないだろうか。幼い時からリリーに思いをはせながらも報われることのなかった彼の生き様を最後に知ったとき、ハリー・ポッターという日向を生きる少年の成長物語であったこの小説は反転し、セブルス・スネイプという日陰を生きた少年の悲恋を描いた物語が新たに浮かび上がってくるのである。

また当然のことながら愛は憎しみとも表裏一体である。スネイプはリリーを愛すると同時に、リリーを奪ったジェームズを恨み、ジェームズに外見のそっくりなハリーを憎む。憎しみは憎しみを生み、ジェームズやハリーを愛するシリウスはスネイプを憎む。ハリーを愛するがゆえにできるだけ一緒に過ごしたいと願うシリウスは、まだ若い子供達を守りたいと願い無謀な行動を慎むべきと考えるロンの母親モリーと対立する。そのように味方同士の中においてすら、人々のさまざまな愛のあり方が対立を生み出し、衝突を引き起こしていく複雑な物語のなかで、ただ一人ヴォルデモートだけが愛というものを全く有さない。彼が人間ではなく骨董品という物に執着するのはそのためだ。彼にはそうした愛をめぐって生じる「誤差」がないためシステマティックに計画を進めて圧倒的な力を有することができたわけだが、誤差を軽視したヴォルデモートは誤差によって仕返しを受ける。身を挺してハリーを守った母リリー、息子を助けたいがゆえにハリーを見逃したナルシッサ・マルフォイ、屋敷しもべ妖精に愛情を抱いていたためにヴォルデモードを裏切ったレギュラス・ブラック、息子を殺された怒りから仇を打ったモリー、そうした誤差の積み重なりによって闇の帝王は滅ぼされてゆく。いうなれば、この作品は「愛」と「愛の欠如」の戦いを描いた物語なのだ。

そして親の世代が残した憎しみという遺産をハリーは自分の中で浄化させていく。三十代になったハリーが、自らの子供に「セブルス」というスネイプのファーストネームをつけていることが発覚する最終章は感動的だ。こうしてジェームズやシリウスとスネイプ、グリフィンドールとスリザリンという相対立していた要素は、長い年月を経てたくさんの犠牲を払ったのちに、かろうじて和解を遂げることになる。憎むべき対象を自らの影として切り離すのではなく、自らの中にとりこむことによって、ハリーは全体性を獲得し、次の世代にその希望を託すのだ。

 

と、ここまでとにかくベタ褒めしてきたが、わたしが首を傾げた点が一つ。

7巻の最後、リンボのようなところでハリーが死んだダンブルドアと話す場面がある。このときヴォルデモートの傷ついた無力な醜い魂がそばに転がっているのだが、ダンブルドアもハリーもこの哀れな魂を助けることはない。ダンブルドアは言う。「きみには、どうしてやることもできん」。親に捨てられ誰にも愛されることなくそして誰のことも愛する事ができずに悪の権化と化したヴォルデモートには本当に救いの道はなかったのだろうか? おそらく宮崎駿の描くキャラクターなら、この醜い生き物に「あんた、しっかりしなさいよ!」とかいって、励まして連れて帰って一緒に暮らし始めてしまうことだろう。