ささやかに日常を彩る——イスマル・ラーグ監督『クロワッサンで朝食を』(2012年) (原題『Une Estonienne à Paris(パリのエストニア人女性)』)

 自分にとって大切な、かけがえのない人であるはずなのに、その人の寝顔を眺めながら、「どうかこのまま死んで欲しい」と願ってしまう。介護というものが人々にとって等しく辛いものであるのは、物理的や肉体的な負担と同じくらい、自分の心の奥底に渦巻く黒い感情と向き合うことを余儀なくさせられる精神的な負担も大きいからなのだろう。すっかり無力になってしまった姿、ぼけて別人になってしまった姿を見るたびに、かつての元気な姿を、かつてそこにあったはずの存在を、わたしたちは否応なしに想起してしまう。こんな姿を見るくらいならこのまま死んでくれたほうがいいと、ふと思ってしまってから、そんな風に思ってしまった自分のことを恥ずかしく感じる。あれだけお世話になったのに、自分を育ててくれた人なのに、安易に死を願うなんて自分はなんと恩知らずなのだろう、と。そして何も感じないように心の彩度を下げてから、その人が息をしているのを確認して、色彩を欠いた繰り返しの生活をまた続ける。

 

 エストニアの田舎町に住む中年女性アンヌは一人で認知症の母の世話をしている。アンヌの介護を支えるものはいない。娘と息子は遠くに住んでおり、12年前に離婚した元夫は酒飲みで未だにアンヌにつきまとい、彼女も彼を見殺しにはできず縁が切れないでいる。

 母の誕生日の夜、街でケーキを買ってきたアンヌはバスから降りたところで元夫に絡まれる。酔っ払って雪の積もった車道に寝転がってしまった彼を立たせ、腕を組んで支えて家に連れていったところが、玄関で無理やり犯されそうになる。なんとか彼を払いのけて階段をかけ上り部屋に入ろうとするものの、騒動に怯えてしまった母はドアに鍵をかけてアンヌを入れてくれない。怖がる母は目に涙をためて言う。「あんたは誰? 私の娘はティーナよ」。ろくでなしと結婚してしまったアンヌに失望した母は彼女をもはや娘として覚えていないのだ。そんな母をアンヌは優しく説得し、「ケーキを焼くわ」と抱きしめる。これが彼女の日常だ。疲れ切って感情を抑圧しているアンヌの顔は人生を諦めているかのように無表情で、実用一辺倒のくすんだ色の服が彼女をより老けさせている。

 ある夜、母の傍らで寝ていたアンヌは水を飲みにキッチンに立ったが、戻って母の寝息を確かめると呼吸していないことに気づく。母の手が硬くなっているのを確認し、ベッドに座り込んだアンヌの顔には、悲しみの表情も安堵の表情もはっきりとは読み取ることができない。

 母の葬儀の後、がらんどうのようになっていたアンヌの元に、以前所属していた介護の職場から仕事の依頼が舞い込む。パリに住むエストニア出身の老婦人の世話係だ。娘に電話して相談し、ぜひ引き受けるべきだと言われたアンヌは、重い記憶を捨てていくかのようにスーツケースに必要な荷物だけをまとめてパリに旅立つ。ささやかな期待を胸に夜の空港に降り立ったアンヌだが、雇い主である中年紳士ステファンと合流して車に乗るとそんな明るい気持ちもすぐにしぼんでしまう。パリに来るのが夢で学生時代には熱心にフランス語を学んだとアンヌが語っても、ステファンは考え事をしているようでろくに聞いていないからだ。アンヌは口をつぐみ、暗い窓の外を眺める。高級アパルトマンに着くとステファンは簡単に仕事の説明をし、寝室で寝ている老婦人に聞こえないようにアンヌにそっと告げる。老婦人のフリーダは「辛辣な皮肉屋」だが、振り回されないように、と。

 アンヌはステファンのそのセリフの意味をすぐに知ることになる。フリーダはただの「病弱で孤独なエストニア女」ではなく、母語であるエストニア語を決して話さない誇り高きパリジェンヌなのだ。朝食にスーパーで買ってきたクロワッサンを見て「プラスチックを食べろと?」と嫌味を言われ、お茶をわざとこぼされ、「家政婦なんかいらない」とさっそく解雇を言い渡されるアンヌ。困った彼女はすぐ近くでカフェを経営しているステファンの元へ行って助けを求めるが、今まですでに何人もの家政婦が同じ目に遭っているのを見ている彼は必死にアンヌを説得する。彼はフリーダの家へアンヌを再び連れて帰る。ステファンの姿を見たフリーダは表情を変え、彼に甘えて腕を組み、家政婦ではなくてステファンに面倒を見てもらいたいと駄々をこねる。アンヌはフリーダの態度を見て、それまで彼らを親子のような間柄と思っていたがどうやら違うらしいことに感づく。案の定、ステファンに訊ねれば、彼はフリーダのかつての愛人なのだという。フリーダはエストニア出身だが人生のほとんどをパリで過ごしていて故郷には縁がなく、夫亡きあとも裕福な暮らしをしてはいるものの、子供もおらず天涯孤独の身なのだ。わがままで気まぐれなフリーダには友達もおらず、カフェの仕事で忙しいステファン自身も今ではフリーダをもてあましており、かといって以前睡眠薬を飲んで自殺を図られたことがあったのでほっとくわけにもいかず、家政婦としてアンヌが雇われた。今や彼女にはステファンとアンヌしかいない、というわけだ。

 一度は国に帰ろうとしたアンヌだが、ステファンの再三の説得を断れず、また、故郷に帰るのも嫌だったのだろう。アンヌは辛抱強くフリーダの要求に応じ、次第に信頼を得るようになる。そしてフリーダというパリに住む一人のエストニア人女性の生き方を知ろうとし、彼女の語る昔の男たちの話に耳を傾け、夜になるとこっそり書斎の写真や新聞記事の切り抜きを見て彼女の過去を想像する。たしかにフリーダは辛辣な皮肉屋ではあるが、まだ若い頃たった一人でパリにやってきて生き抜いた自由な価値観を持った女性なのだ。フリーダの生き様は年齢にもエストニアの伝統にも縛られていない。いくつになっても自分が女性であることを忘れず、来客がなくても化粧をしてシャネルのスーツに袖を通し、ベッドに寝る時は片側に寄って隣に男のためのスペースを空けておき、暇な時間には必ず本を読む。アンヌはそうした自分のスタイルを確立しているフリーダの生活や、毎晩仕事が終わったあと密かに楽しんでいた夜のパリのウィンドウショッピングから、今まで知ることのなかった新しい空気を徐々に肌に吸収していく。

 一方、アンヌが故郷で母を亡くしたばかりだということを聞いたフリーダも、孤独なアンヌにかつての自分の姿を重ねたのか、少しずつではあるがアンヌに心を開き、自分を大事にする生き方を教える。出かけることなく家の中に引きこもって寝る時も自分の体を自分で抱きしめるように強く腕を組んでいたフリーダの心は、アンヌの存在によって次第にほぐれてゆき、二人の関係性はお互いにドアの隙間から相手を盗み見るようなよそよそしいものから、向かい合いで座って爪にマニキュアを塗ってあげる/もらうような距離に近づいていく。

 ある日フリーダは、まだパリ見物をしていないというアンヌに、二人でおしゃれをしてステファンのカフェに行こうと提案する。フリーダにとっては久々の外出だ。アンヌはどれにしようかとベッドに服を並べて、赤いトップスを選び、鏡を見ながら口紅を塗る。フリーダはアンヌの仕上がりをチェックし、普段着のダウンではなく自分のバーバリーのトレンチコートを着せて、グリーンのストールを後ろ向きに巻いてやる。パリの晴れた街並みを二人で腕を組んで女子学生のように服やセックスの話をしながら歩くシーンは、冒頭のエストニアでアンヌが酔いつぶれた元夫の腕を持って雪道を歩いていたシーンとまるで対極にあり、「とてもきれいよ」とフリーダに褒められたアンヌの顔には笑顔がこぼれている。

 ところが、アンヌとフリーダの良好になった関係性を図らずも壊してしまうのは意外なことにステファンだ。ステファンのカフェに到着した二人は当然大いに歓迎されるのを期待していたが、彼は紳士的に対応するものの「僕にも人生がある。悪いが、君を中心には回らない」とフリーダに告げてさっさと店の奥に戻ってしまう。ステファンにとってフリーダは、かけがえのない存在であると同時に疎ましくもある「早く死んで欲しい」存在なのだ。ショックを受けて帰ったフリーダは寝込んで食べることもやめてしまい、心配したアンヌはステファンに「あなたにとって彼女は死人なのね」と言って怒る。それは彼女がかつて自分の母に対し密かに抱いていた感情であるが、そう思うことを自分に対して禁じていた彼女はステファンのあからさまな態度を受け入れられない。ステファンは言う。「確かに彼女を愛したし、カフェも持たせてもらった。だが、店のせいで一生束縛されなきゃならないのか?」

 落ち込んだフリーダを励まそうとアンヌは一人思案して、フリーダのかつての友人であるパリに住むエストニア人たちを家に連れてくるが、アンヌのせっかくの努力は裏目に出てしまう。フリーダは彼らを招かれざる客だと言い、友人たちも「50年前、妻のいる男と寝ただけ」のフリーダを「エストニアの魂を失った」と批判する。逆上したフリーダは客人たちを追い返し、アンヌに対しても余計なお節介をしたと怒り、「どうせあんたは一生、エストニアの田舎者よ」「母親の代役はごめんよ」と毒舌を撒き散らす。言われたアンヌも堪忍袋の尾が切れ、「あなたがこんなに孤独なのは自分のせいよ。死にたいなら窓から飛び降りれば?」と捨て台詞をはき、荷物をまとめてフリーダの家を出ていく。

 アパルトマンを飛び出てアンヌが向かったのはステファンの元だった。彼はカフェの2階の個室にいて、アンヌはノックをして彼の部屋に入っていく。ネクタイを外して休んでいたステファンは彼女を優しく招き入れて言う。「この間、君の言ったことは正しい。僕は彼女の死を待ってる」。アンヌは答える。「分かるわ。私も母の死を待ってた」。大切な人の死を望むという、心の奥底にしまってなるべく見ないようにしていた感情を二人は告白し合い、互いの重荷を理解し、そうすることによって自分を許し合う。言葉を発するごとに距離が縮まり、背景に映る窓枠の中に二人の姿が小さく収まって、柔らかで親密な光が二人をまるごと許すように包むこの場面は、作品を通して最も優しい瞬間だ。

 よく見ていると、さりげなくステファンはたびたび隠れて酒を口にしているのだが、彼はわたしたちにアンヌの酒乱の元夫を彷彿とさせる存在でありながら、両者は確実に違う存在であることがここで強調される。待っててと言ったにもかかわらず元夫に無理やりドアを押し開けられたエストニアでのシーンに対し、ここではアンヌからステファンの部屋に赴いて招き入れられ、部屋に入ってもアンヌが自分でドアを閉める。アンヌの意思を無視して思い通りにしようとしていた元夫の姿は、今ではアンヌを一人の独立した女性として尊重するステファンによって置き換えられているのであり、そしてアンヌ自身ももう、娘に電話する癖からいつのまにか脱し、フリーダの暴言にもはっきり言い返すことで自分自身を粗末に扱わず、他人にも粗末に扱わせない女性と変化しているのだ。

 それまでは随所でアンヌが乗り物に乗っている姿が映されていた。冒頭のバスに揺られながら窓の外の景色を虚ろに眺める姿からはじまり、パリに着いて飛行機から意気揚々と降りたったにも関わらずその後すぐステファンの運転する車の助手席で気まずそうに黙ってしまう姿、フリーダに家を追い出されてパリを散歩している最中に乗った地下鉄でうっかり降り損ねてしまった姿。バスでも車でも地下鉄でも、アンヌはなんとなく心細そうな、居心地悪そうな表情を浮かべていて、その姿はどこにいても彼女が異邦人でしかないかのような、自分の家ですら鍵をかけて締め出されてしまって、どこにもあたたかく受け入れてもらえる場所のない、いつも他人に振り回されてきた彼女の人生そのものを表しているかのようだった。

 ステファンの部屋を出たあとに映されるのは、行き先の決まった乗り物に不安げに揺られているところではなく、アンヌが自分の足で歩いている姿だ。膝の見えるワンピースを着て、ストラップのついた高いヒールの靴のままスーツケースを片手にパリの街を颯爽と歩く彼女は、すれ違う男性が振り返るほど魅力的で、いくら彼女が「国へ帰る」つもりでいても、いまや彼女の存在はすっかりパリに馴染んでしまっていることが見ているわたしたちにとって明らかだ。しかしだからといってアンヌは第二のフリーダとなっているのではない。パリ見物の途中でアンヌは、以前フリーダに褒められたヒールの靴を脱いで、エストニアから持ってきたブーツに履き替え、黒いコートの上にいつものフード付きダウンを着て、エッフェル塔を見上げながら熱々のクロワッサンを頬張る。フリーダにパリの影響を与えてもらいながらも、アンナはエストニア人としての自分を保ち続けている。それは同じ金髪の移民であると同時に、エストニアを否定するフリーダとはまた違った、アンヌならではの「パリのエストニア人女性」としての生き方だ。

 一晩パリの街を満喫したアンヌはフリーダの元へ最後の挨拶をしにいく。アンヌを失ってしまったのではないかと落ち込んでいたフリーダは、彼女が戻ってきたものだと安堵し、当初は「ここは私の家」と言い張っていた自分のアパルトマンに「ここはあなたの家よ」と言って迎え入れる。そこには感動のキスもハグもない。ただドアを開けて、名前を呼んで、優しく部屋に受け入れるだけだ。アンヌは帰ってきたわけじゃないと言おうとして、奥の部屋へと戻っていくフリーダの後ろ姿をじっと見つめて、改めて、自分が本当はどこにいたいのかを悟る。

 

 まだアンヌがパリにやってきたばかりの頃、以前自殺未遂をしたのはステファンが原因かとフリーダに直接訊ねる場面がある。彼がこんなに尽くしているのはあなたを愛しているからなのに、と。それに対し、フリーダは「そんなに単純じゃないの」とだけ答える。この映画ではフリーダの死んだ夫のことも故郷の母や兄のことも、アンヌの姉妹や二人の子供のことも、ステファンの元恋人のことも、一瞬だけ語られることはあっても詳しく説明されることはない。わたしたちはどれだけ言葉を費やしたところで他人の人生や内面を完璧に知ることなど不可能で、わたしたちにできることといえば、その人の写真や私物を見て勝手に過去を想像することくらいのものだ。だがそれほど複雑で、決して理解しえないからこそ、わたしたちはある人の一部分を憎みながら、ある部分を愛するということが可能になる。その人の死を願ってしまうほど疎ましく思うと同時に、その人を愛おしく思うことは必ずしも矛盾しない。

 アンヌがフリーダの元に戻ってきたからといって根本的には何一つ解決してなどいない。きっとフリーダは死ぬまでわがままな「怪物」であり続け、アンヌとステファンは怪物の寝息を確かめ続けるのだろう。けれども朝食をいつもの決まりきったものからまったく新しいメニューに変えてみたり、あるいはちょっと近くのカフェに行くのに、いつも着ていたコートを脱いでそれまで着てみたことのないダウンに腕を通してみたりするだけで、わたしたちは諦めに満ちた日常をわずかに彩ることができる。自分を許すとは、そんなささやかな逸脱からはじまるのだ。

 

 

お知らせ 朝日新聞に寄稿しました

5月8日(水)朝日新聞の夕刊文化面「あるきだす言葉たち」に新作を寄稿しました。わたしにしては珍しく血は出でこないし目玉も取れない話なのでご家庭でも安心して読めると思います。認知症に興味のある方はぜひぜひお手に取ってくださいませ。

ちなみに、新聞に載っける用にアンニュイなプロフィール写真をとってくれたのはseasunsaltのMayu Fujita氏。わたしの高校時代の軽音部の仲間で、部内きっての美声の持ち主です。高校時代はよく彼女の肩とか指に本気で噛み付いてじゃれていましたが、優しく諭されるだけでキレられたことは一度もありませんでした。そんな人徳者である彼女の作る曲は、メロディアスだけど甘すぎず浸りすぎず、少しずつ変化していくところがいい感じです。

↓こちらから楽曲ダウンロードも視聴もできるようなのでぜひぜひ聞いてみてください。ではでは。

“seasunsalt” is a musical project was founded by Mayu Fujita. based in Tokyo, Japan

 

 

 

 

お知らせ B&B「ドン・デリーロvsカズオ・イシグロ」のトークイベントにでまーす

来月、下北沢B&Bにて行われる「ドン・デリーロvsカズオ・イシグロ」のトークイベントにでちゃいます。わーお。ブックアンドビール。デリーロアンドイシグロアンドブックアンドビール。

 

 2019/2/06/WED
都甲幸治×日吉信貴×深沢レナ
「ドン・デリーロvsカズオ・イシグロ ~本当にノーベル文学賞にふさわしいのはどっちだ!?~」
『ポイント・オメガ』(水声社)刊行記念

詳細はこちらhttp://bookandbeer.com/event/20190206_po/

  • 出演 

    都甲幸治
    日吉信貴
    深沢レナ

  • 時間  

    20:00~22:00 (19:30開場)19:00〜21:00の間違いでした!

  • 場所 

    本屋B&B
    東京都世田谷区北沢2-5-2 ビッグベンB1F

  • 入場料  

    ■前売1,500yen + 1 drink order
    ■当日店頭2,000yen + 1 drink order

    イシグロとデリーロ。
    かたやノーベル賞受賞者、かたやノーベル賞候補者。
    このふたりの文学を闘わせたとき、いったい何が見えてくるのか?

    登壇者は、『ポイント・オメガ』の訳者であり、世界文学を語らせたら右に出る者はない(?)、都甲幸治さん。
    それを迎え撃つのは、イシグロの受賞後いち早く『カズオ・イシグロ入門』を上梓したイシグロ専門家の日吉信貴さん。
    そして、好評の詩集『痛くないかもしれません。』に続いて、『失われたものたちの国で』を刊行したばかりの奇才詩人・深沢レナさんがレフェリー(?)をつとめます。

    デリーロとイシグロの対決にはじまり、次回のノーベル文学賞の予想はもちろん、「村上春樹現象」も踏まえながら、これからの世界文学のゆくえを探ります。

 

・・・というわけですので、イシグロやデリーロにご興味のある方はぜひぜひお越しくださいませ。酒を片手に都甲さん&日吉さんのタメになる話をきいて、わたしといっしょにふむふむしましょう。

 

 

お知らせ 第二作品集『失われたものたちの国で』(書肆侃侃房)刊行!

第二作品集『失われたものたちの国で』(書肆侃侃房)が12月18日より刊行となります!

【帯文】
切れば血が出そうな言葉で綴られた
でも 希望の匂いがする本。
(柴田元幸)

 

*書肆侃侃房のページはこちら

*amazonはこちら

 

前作ではやたら切りまくっていましたが、今作では何から何まで埋めまくってます。とりあえず埋めちゃおう。そんな夢と希望にみちあふれた作品集です。

装画は文芸同人誌『プラトンとプランクトン』の表紙でおなじみの柳田久実さん。ブッダの絵なので買ったらきっとご利益があります。

地上で生きていくのに疲れたとき、何もかも流したくなってしまったとき、そんなときにはぜひぜひ『失われたものたちの国で』をお手にとってみてください。ちゃお!

 

 

詩と批評のあいだⅩ からっぽの棺桶を埋めること——ジョナサン・サフラン・フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(近藤隆文訳)

Ⅹ からっぽの棺桶を埋めること——ジョナサン・サフラン・フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(近藤隆文訳)

 

やかんはどうだろう? 湯気が出たら注ぐところが開いたり閉まったりして口になって、きれいなメロディを口笛で吹いたり、シェイクスピアをやったり、いっしょに大笑いしてくれたりするのは?
小型マイクはどうだろう? みんながそれを飲みこむと、心臓の音が小さいスピーカーから出る仕組みになっていて、そのスピーカーをオーバーオールの前ポケットに入れておけるとしたら? 夜、スケートボードで通りを走ると、みんなの心臓の音が聞こえて、みんなにはこっちの音が聞こえるなんて、ちょっと潜水艦のソナーっぽい。
あと、急いで脱出しないといけないことはよくあるのに、人間には翼がない、というか、とにかくまだ生えてないから、鳥のえさをつけたシャツというのはどうだろう?
地球の大きさはずっと同じなのに、死んだ人の数は増えつづけているのって、すごくヘンじゃない? それでいつか人を埋める場所がなくなるだなんて? 去年の九歳の誕生日に、おばあちゃんは『ナショナル・ジオグラフィック』の、おばあちゃんの呼び方でいうと『ジ・ナショナル・ジオグラフィック』の定期購読を申しこんでくれた。『ナショナル・ジオグラフィック』で読んでグッときた話によると、いま生きている人は人類の全歴史上に死んだ人より多いそうだ。
だったら、死んだ人用の超高層ビルを下に向かって建てるのはどうだろう? 生きている人用に上に建てた超高層ビルの下側につくればいい。そしたら地下一〇〇階に人を埋めることができて、まるっきり死んだ世界が生きた世界の下にできる。ときどき考えるのだけど、エレベーターが止まったままで超高層ビルが上がったり下がったりしたらヘンじゃないかな。それで九五階に行きたかったら、95のボタンをおすと九五階がこっちにやってくる。それにこれはものすごく便利で、九五階にいるとき飛行機が下の階にぶつかっても、ビルが地上に連れていってくれるから、その日は鳥のえさシャツを家に忘れてきたとしたって、みんな安全だ。
それはそうと。
ニューヨークにはブラックという名前の人が四七二人いて、住所の数は二一六個だけど、これは当然ブラックさんたちのなかにはいっしょに住んでいる人がいるからだ。というのも、パパのクローゼットに残されてた花びんのなかにはカギの入った封筒があって、その封筒にはブラックって書かれていたから、土曜日と日曜日を使ってブラックという名前の人たち全員を見つけることにした。そのカギに合うカギ穴を見つけることこそ、究極のレゾン・デートル—––ほかの全レゾンのおおもとのレゾン—––になったんだ。

 

メッセージ1。九月十一日 火曜日 午前八時五二分 誰かいるか? もしもし? パパだ。そこにいるなら、出てくれ。オフィスにかけてみたが、誰も出ない。聞いてくれ、ちょっとした事故があった。こっちは大丈夫だ。この場所から動かす消防を待つよう言われている。きっとうまくいく。状況がもう少しわかったらまた電話する。大丈夫だと知らせたかっただけだから、心配しないように。またすぐ電話する。

 

うわさに聞くビーバーみたいに発明してばかりでやめられないのも、がっかりの数をかぞえるのをやめられないのも、知らない人たちに手紙を書き始めるようになったことも、それと自分にあざをつくっちゃうのも、とにかく靴が重すぎるからで、というのは、人は一度死んだらずっと死んでいて、何も感じないし、夢を見ることもないって信じてたからだ。だってそれが本当のことで、パパは本当のことを愛していたからだし、本当のことというのは、パパがもう死んでること。
ニューヨークにいるラストネームがブラックの人全員に会うと決めたのも、どちらかというと取るに足らないとしたって、何かではあるし、何かしなきゃならないのは、泳がないと死んでしまうというサメと同じだ。でもパパのカギのカギ穴がうまく見つかったら、発明するのをやめられるかもしれなくて、だからパパがどんなふうに死んだか知る必要があるし、そしたらどんな死に方をしたか発明しなくてもよくなるから。パパの死に方が、どうやって死んだかがはっきりわかったら、何人かの人みたいに、階と階のとちゅうで停まったエレベーターのなかで死んだなんて発明しなくていいし、ポーランド語のサイトのビデオで見た人みたいにビルの外壁をはっておりようとしたとか、ウィンドウズ・オン・ザ・ワールドにいた人たちが実際にやったみたいにテーブルクロスをパラシュートのかわりにしたとか想像しなくていい。ほんとにいろんな死に方があったし、とにかくパパのがどれだったか知らなきゃならないんだ。

 

メッセージ2。九月十一日 火曜日 午前九時十二分。 また私だ。おまえがいるのか? もしもし? すまない。少しずつ。煙が出てきてる。おまえがいてくれたらと思ってたんだ。そこに。うちに。何があったかおまえがもう知っているかはわからない。ただ。私は。こっちは大丈夫だと知ってもらいたかった。万事。順調。だと。これを聞いたら、おばあちゃんに電話してほしい。私は大丈夫だと伝えてほしい。

 

お墓に着いてからっぽの棺桶が沈められると、   あなたは動物みたいな声を出した。
あなたのおとうさんのお墓にシャベルで土がかけられた。
わたしの息子のからっぽの棺桶に。  そこには何も入っていないのに。
同じ映像が何度もくりかえされる。
ビルに突っ込む飛行機。
落ちていく体。
ビルに突っこむ飛行機。
ビルに突っこむ飛行機。
崩れ落ちるビル。
ある朝、目を覚ますとわたしの真ん中にぽっかり穴があいているのがわかりました。
スカーフを編みながら、わたしの思いはあちこちさまよいます。   それはドレスデンへ、わたしの思いは父の外套の袖を上っていく。   父の腕はとても太くて強かった。   わたしが生きているかぎり守ってくれると信じていました。
あの日、父は天井の下に閉じこめられていました。   体にかかった漆喰が赤くなっていった。
父は言いました、すべては感じられない。
わたしは天井を父からどかそうとした。
父は言いました、メガネを見つけてくれないか?
わたしは探すわと父に告げました。
それまで父が泣くのは見たことがなかった。
父は言いました、メガネがあれば私も力になれる。
わたしは父に言いました、わたしが助けるから。
父は言いました、メガネを見つけてくれ。
みんなが逃げろと叫んでいました。   残った天井がいまにも落ちてきそうでした。
わたしは父と一緒にいたかった。
でも父が自分を置いていくよう望むのはわかっていた。
わたしは父に告げました、パパ、もう置いていかなきゃならない。
すると父は何か言いました。
それが父が最後にわたしに言ったことでした。
わたしはそれを思い出せない。
夢のなかで、涙が父の頬を上がって目のなかに戻った。
わたしは客間に行って書くふりをしました。   スペースキーを何度も何度も何度も押しました。
鳥たちがもうひとつの部屋でさえずる。
わたしの人生の物語はスペースばかりだった。
からっぽの棺桶。
落ちていく体。
わたしの声はすべてわたしの内にしまいこまれた。

 

メッセージ3。九月十一日 火曜日 午前九時三一分 もしもし? もしもし? もしもし?

 

沈黙はガンのように私たちを襲う、その時、私は最後まで言うことができなかった、彼女の名前が出てこなくて、もう一度言おうとしても出てこず、彼女は私のなかに閉じ込められたままだった、おかしい、もどかしい、哀れだ、悲しいと思い、ポケットからペンを取り出して「アンナ」とナプキンに書いた、二日後にも同じことが起き、その翌日にもまたあって、私が話したいのは彼女のことだけなのに、それは何度もくりかえされた、次に私が失った単語は「と(アンド)」だった、たぶん彼女の名前に似ていたからだろう、こんな簡単な言葉を、こんな大事な言葉を失った、私が考えることの意味はまるで木の葉が木から川に落ちるように私から離れて漂いはじめた、声に出して言えた最後の単語は「私(アイ)」、やがて私は私も失い、完全に無言になった。私たちの周りではありとあらゆるものが落ちていった、黒い雨、投下された爆弾、破れた天井、急降下する飛行機、あっけなく崩れ落ちるビル、落ちていく紙、机、体、あの子の父親であり、私の息子であるおまえ、父が最後に言ったことは妻の記憶から抜け落ち、私の唇からは言葉が、「私」が、「と」が、「アンナ」が、落ちて二度と戻ってこなかった、私は自分が上昇しているのか下降しているのかわからない、私たちは暴力的に失わされるばかりだ、私は考えに考えて考える、父を失うこと、恋人を失うこと、姉を失うこと、夫を失うこと、娘を失うこと、息子を失うこと、親を見殺しにすること、家族を捨てること、おまえをなくすこと、広島で、ドレスデンで、ニューヨークで、私たちは失い、残された私たちは空白を通じてかろうじてつながり合っているのだろうか、失くすということ、失ってはならないものを失うということ、死体の入っていない棺桶を土の中に埋めたとして、私たちはいったい何に向かって祈るのか? 私たちは空白を抱え、封筒の中身はないまま、私は決して渡すことのない手紙を延々と書き続け、妻は編みおわることのないスカーフを編み続ける、そしてそれは何に向かって? 私が書きに書くのと同じように、あの子は話しに話すのだ、言葉があの子を流れ落ち、あの子の悲しみの底を見つけようとする、言葉から言葉へと移動してやまない、饒舌であることは失語であることと等しく、「ある」ことはほとんど「なし」のようなもの、あの子は電話をしまいこんで心を隠し、妻はスペースキーを押してばかりいる、私たちはうまく語ることのできない者同士、私は言葉を失い、妻は声を失い、あの子は沈黙を失った。語れない空白を補うためにはどうしたらよいのだろう、私たちは収集する、ナップザックが、スーツケースのジッパーが閉まらなくなるほど満杯に、写真を、タイポグラフィーを、暗号を、数字を、動物を、発明を、ニューヨークじゅうのブラックを訪れてあのカギに合うカギ穴を探すこと、あの子は探すのをやめない、私は考えるのをやめられない、考えに考えて考える、私たちは空白を埋めようと彷徨うが、結局決して埋めることができないまま空白の周縁をいつまでもなぞり続けているだけなのだろうか、考えることは私に何をしてくれたのか?

 

メッセージ4。九月十一日 火曜日 午前九時四六分 パパだ。もしもし? 聞こえるか? おまえがそこにいるのか? 出てくれ。頼む! 出てくれ。こっちはテーブルの下にいるんだ。もしもし? すまない。濡れたナプキンが顔にかかってるんだ。もしもし? いや。もうひとつのでやってくれ。もしもし? すまない。みんな、おかしくなってきてる。ヘリコプターが旋回していて。そっちのでやってくれ。ああ、そっちだ。これからみんな屋上に上ると思う。頼むから、出てくれ。おまえがいるのか?

 

夢のなかで、春が夏のあとに来て、秋が冬のあとに来て、冬が春のあとに来た。
夢のなかで、絵描きたちが緑色を黄と青に分けた。
茶色を虹に。
子どもたちが塗り絵帳からクレヨンで色を抜き取り、子どもに先立たれたおかあさんたちが黒い服をはさみで繕った。
時間はわたしが乗りたかった列車から振られる手のようにすぎていった。
わたしがすべてを失うまえの日の夜はいつもと同じような夜でした。
アンナとわたしはとても遅くまで一緒に起きていました。  わたしたちは笑いました。  子ども時代の家の屋根の下にあるベッドのなかの若い姉妹。  窓を叩く風。
壊されちゃいけないものがほかにあるかしら?
夢のなかで、つぶれた天井がすべて頭の上で元どおりになりました。  火は爆弾のなかに戻り、爆弾が上がっていって飛行機のおなかに入り、プロペラは逆にまわりました。ドレスデンじゅうの時計の秒針と同じように、ただもっと速く。夢のなかでは、みんながこれから起こることであやまり、息をすってろうそくに火をつけた。
わたしたちは、わたしたちの上にあるものの話はしなかった。  天井みたいにのしかかっているものの話は。
何年かが一瞬と一瞬のあいだの隙間を通りすぎていきました。
わたしの夢の終わりで、イヴがリンゴを元の枝につけ直した。  その木は土のなかに戻っていった。  苗になって、それが種になった。
神様が地と水を、空と水を、水と水を、晩と朝を、ありとなしをひとつにした。
神様は言った、光あれ。
すると闇があった。
わたしは鳥籠を窓際に持ってきました。
窓を開けて、鳥籠を開けました。

 

メッセージ5。九月十一日 火曜日 午前一〇時〇四分。パ  パだ。もしも   パだよ。ひょっとして
れか聞こえ    これは私が
もしもし?   こえるかい?  みんなで
屋上へ   万事    だいじょぶ   順調    すぐぬ
すまない     聞こえる    だいぶ
なったら、    おぼえておいて——

 

私の心は日々刻々と、ばらばらどころか粉々に打ち砕かれていく、私は自分が寡黙だとは、まして無言になるとは考えたこともなかった、もともと物事をくよくよ考えることはまったくなかった、何もかも変わってしまった、私と私の幸せのあいだに割りこんだ隔たりは世界ではなかった、爆弾と燃える建物ではなかった、それは私、私の考え、けっしてあきらめないガンだった、知らぬが仏なのか、私にはわからないが、考えることはあまりにつらい、私は人生について、私の人生や、ばつの悪さ、小さな偶然、ベッドの脇のテーブルに置かれた目覚まし時計の影について考えた。私のささやかな勝利と、私の目の前で壊れていったあらゆるものについて考えた、私はここに座って最後の空白を埋めている、私はアンナのことを考えている、二度と彼女のことを考えずにすむならすべてを捧げよう、私たちはなくしたいものにしがみつくばかりだ、私は私たちが出会った日のことを考えている、私たちは何もかも変わる前の日々のことを考えている、私たちは時間を巻き戻すことを夢見て語り続ける、あの子はわたしのところにやってきてはじめから話した、花びん、鍵、ブルックリン、「パパ」とあの子は言った、「パパ」、あの子は走って電話を持って戻ってきた、「パパの最後の言葉だよ」、メッセージは途中で切れた、おまえはとてもおだやかな声だった、まもなく死ぬ者の声には聞こえなかった、あの子はそこにいたにもかかわらず、出ることのできなかった留守番電話をいつまでもしまいこんでいた、そしてはじめて私になにもかも打ち明けたのだ、あの子は言った、「お墓を掘り起こしたいんだ」、棺桶を開けたら何をするのかと訊ねると、あの子は答えた、「中身をつめるんだよ、当然」、おまえの入っていない棺桶を取り出す、もし埋められるとするならばその空白を何で埋めよう、私たちを覆うあらゆる空白を、スペースだらけの紙を、中身のない封筒を、送らなかった手紙で、巻き戻した物語で埋めていくことはできるのだろうか、巻き戻すとは正しく語り直すことなのだろうか、零れ落ちていった「私」が、「と」が、「アンナ」がゆっくり上って私の口へと戻ってゆき、空襲は空をのぼっていき、アンナの体からは瓦礫が浮いていき、あのビルから落ちるおまえの体は鳥のように上っていくのだろうか、最後の一枚を最初に、最初を最後にしてめくっていけば、落ちていったものたちがビルの中にもどり、けむりが穴の中に流れこんで、その穴から飛行機が出てくるのだろうか、飛行機は後ろ向きにはるばるボストンまで飛んでいくのだろうか、おまえはエレベーターで地上まで行って最上階のボタンをおし、地下鉄まで後ろ向きに歩き駅まで戻ってくるのだろうか、後ろ向きに改札をぬけ、メトロカードを逆に通し、ここまで後ろ歩きしながら『ニューヨーク・タイムズ』を右から左に読むのだろうか、ベッドのなかに戻り夢を逆に見るのだろうか、そして最悪の日のまえの夜の終わりにまた起きだし、後ろ歩きであの子の部屋へ、口笛で「アイ・アム・ザ・ウォルラス」を逆に吹きながらやっていくのだろうか、おまえはあの子のベッドのなかに入り、おまえたちは天井の星を見て、星はおまえたちの目から光を引き戻すんだろうか、あの子は「なんでもない」とさかさに言い、おまえは「なんだ、相棒」とさかさに言い、あの子は「パパ」とさかさに言うと、それは前から言う「パパ」と同じ音がするんだろうか。おまえは第六行政区の物語をあの子に話す、最後の缶のなかの声から最初まで、「愛してる」から「昔むかし……」まで。そうしたらあの子は、おまえは、私たちは

 

おまえがいるのか? おまえがいるのか? おまえがいるのか? おまえがいるのか? おまえが

 

全部の超高層ビルの屋上に風車をつけるのはどうだろう?
超高層ビルに根っこがあったらどう?
超高層ビルに水をかけたり、クラシック音楽を聴かせたり、日なたと日かげのどっちが好きか知らなきゃならないとしたら?
やかんはどうだろう?
逆回しにした夢でからっぽの棺桶をいっぱいにするっていうのは? そうしたらニューヨークじゅうの靴が少し軽くなって、歩きながらタンバリンを鳴らさなくてもすむかもしれない。
それはそうと。
毎年、一万羽の鳥たちが超高層ビルの窓にぶつかって死ぬんだって。だったら、ビルにありえないほど近くなった鳥を探知して、別の高層ビルからものすごくうるさい鳴き声を出して鳥を引きつける装置はどう?
そうすれば鳥たちは安全に飛べるんだ。

 

 

詩と批評のあいだⅨ まばたきのない語り ——村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』

Ⅸ まばたきのない語り ——村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』

  

 暗い箱の中、仮死状態だった赤ん坊は全身に汗を掻き始める。最初額と胸と腋の下を濡らした汗はしだいに全身を被って赤ん坊の体を冷やす。指がピクリと動き口が開く。そして突然に爆発的に泣き出す。暑さのせいだ。空気は湿って重く二重に密閉された箱は安らかに眠るには不快過ぎた。熱は通常の数倍の速さで血を送り目を覚ませと促す。赤ん坊は熱に充ちた不快極まる暗くて小さな夏の箱の中でもう一度誕生する、最初に女の股を出て空気に触れてから七十六時間後に。赤ん坊は発見されるまで叫び続ける。
 私たちはみな閉じ込められている。コインロッカーに捨てられたキクとハシのように。プラスチックみたいにツルツルして薄っぺらな現実に一人ずつ入れられて生きている。巨大なコインロッカー。そこには何もない、ドロドロしたものがない、みんなそうだ、上澄みしか見えないように遮断されている。虚像をきかざっている外面、虚構の上に虚構を重ねる。そこには匂いがない。暑さがない。実体がない。私たちはみな同じだ。同じ大きさの同じコインロッカーに入れられた同じ人間。
 街の中心にはビルが立ち並ぶ。私たちは部屋に閉じ込められている。窓際に立って街を見る。雨が降り始める。目の前のガラスには他人の顔と自分の顔が重なって映っている。他人の顔を被っているガラスの中の自分の顔、ガラスの向こう側で煙っている街並、目の裏側に広がっていた島と海、それらは別々な透明な絵になって重なり合い、自分がどこにいるのかわからなくなる。透明な絵の隙間に、顔を残したまま落ちていくように。息が詰まる。水滴が転がる厚いガラスが自分を遮断し閉じ込めていると思う。思いきりガラスを叩く。割れない。私たちは割ることができない。
 私たちは押し込められ、閉じ込められ、物分りよく生きてきた。みんな子供の頃からあまりにも我慢のしすぎで頭の中はモヤモヤして、大人になってからも寝ぼけたような口をきく。解けることのない催眠術にかけられているみたいに。そうだ。子供の頃から何一つ変わっていない、私たちはまだ閉じ込められている。壁はうまい具合に隠されている。巨大なコインロッカー、中にプールと植物園のある、愛玩用の小動物と裸の人間達と楽団、美術館や映写幕や精神病院が用意された巨大なコインロッカーに私たちは住んでいる、一つ一つ被いを取り払い欲求に従って進むと壁に突き当たる、会ったこともないような奴らが私たちの周りによってたかって勝手なことを言い、それでも私たちは壁をよじのぼる、跳ぼうとする、壁のてっぺんでニヤニヤ笑っている奴らが私たちを蹴落とす、気を失って目を覚ますとそこは刑務所か精神病院だ、かわいらしい子犬の長い毛や観葉植物やプールの水や熱帯魚や映写幕や展覧会の絵や裸の女の柔らかな肌の向こう側に、壁はあり、看守が潜み、目が眩む高さに監視塔がそびえている、鉛色の霧が一瞬切れて壁や監視塔を発見し怒ったり怯えたりしてもどうしようもない、我慢できない怒りや恐怖に突き動かされて事を起こすと、精神病院と刑務所と鉛の骨箱が待っている。
 方法は一つしかない、目に見えるものすべてを一度粉々に叩き潰し、元に戻すことだ、廃墟にすることだ。
 つるつるとした現実を語りは容赦することなく剥いでゆく。語りはまばたきすることなく対象を見つめ、ことこまかに描写し、きれいな表面を破って中にある闇をえぐり出す。あらゆる人間に生まれつき含有される悪意、社会の価値観に培養され膨らみすぎた虚栄心、救い難い暴力や性への嗜好は銃声と粘液と血の混ざった音となって、脂肪のようにぶよぶよと膨らんだ会話とともにいつまでも耳にまとわりつく。子供の前で互いの若い愛人と一緒に食事をするイカサマな両親、生魚の頭と骨が詰まったドラム缶の上に乗ってカーテンの隙間から見えるのは弛みきってどこまでが尻でどこからが太腿かわからない豚のような女、その肉の皺が寄り集まっているところに見える白っぽい男性器、その大きさは子供の腕ほどもあるが注射をしすぎてグニャグニャしている、売れなくなって整形手術をした元童謡歌手は醜い子供が生まれて自分の過去が暴かれることを心配し、金色のハイヒールだけをつけて裸で床に転がり涎を垂らしているグルーピーは自ら犯されることを望んで男の腰にしがみつき、体中に斑点のある老人は影を踏まれることを恐れて手の平を噛みながらいけなあああい!と叫び、鉄格子を蹴っても泣き止まない老人に腹を立てた看護人は老人の頬をスリッパで殴りつけて怯えた老人は、はい、はい、はい、はい、はいと弱々しく答えて血を流しながら浴衣がはだけて透明なビニールのおむつがむき出しになり、その声は、匂いは、人を不快にさせ人から人へと悪意は伝染してゆき、イメージが次のイメージへと連鎖し、宙で破裂して殻の破れた言葉からはドロドロと液体が流れ、白い煙を放ちながら熱い腐臭がたちのぼる。それが現実だ。
 人間は美しくなどない。人々は助け合うのではなくて憎しみあうものなのだ。誰かが誰かを必要としているなんて幻想でしかない。自分に触れているもの、自分以外のすべてを憎む。私たちは閉じ込められている。何時間もコインロッカーに放置されて。あるのはただ時間への恐怖、閉じ込められたまま時間だけが過ぎてゆくことへの恐怖。外で音が聞こえる。夏の、長い時間、犬の吠声、盲人の杖の音、駅のアナウンス、自動販売機から切符やコーラが落ちてくる音、自転車の警鈴、紙屑が風に舞う音、遠くのラジオから流れる歌、八人の小学生がプールに飛び込む音、眼帯の老人の咳、水道の水がバケツを叩く音、交差点での急ブレーキの軋み、巣を作る鳥のさえずり、女が肌を擦る音、女の笑い声、そして自分の泣き声、木とプラスチックと鉄と女の柔らかな皮膚と犬の舌の感触、血と排泄物と汗と薬と香水と油の匂い、すべての感覚はこのまま死んでしまうことへの恐怖だけに繋がっているのだ。そこで私たちは細胞が記憶している声を聞く。その声は、こう言っている。お前は不必要だ、お前を誰も必要としていない。
 そうだそれが現実だ。私たちは自分が誰からも必要とされていないのを知っている、必要とされている人間なんてどこにもいない、全部の人間は不必要だ。私たちは自分の腕で休んでいる小さな虫たちを一つずつ潰す。虫は一本の黒い線になって死ぬ。虫を潰すのと同じように、誰かが私たちを閉じ込めて簡単に潰そうとしている。虫は私たちの腕を公園だと思ったのかもしれない、私たちに殺された虫は私たちのことを人間だとはわからなかっただろう、ライオンだと思ったかもしれない、蝶々とは違うくらいはわかったかも知れないが、それと同じように虫みたいに潰されても何から潰されたのかわからないという奴がいる、おそらくそいつらの体は空気で出来ているのだ、ブワブワした風船みたいな奴ら、そいつらはどこまでも追ってくる、私たちは自分が潰される前に潰そうとしてくるものを壊さなくてはならない、潰そうとするものを壊すこと、阻もうとする壁を飛び越えること、ありとあらゆる壁を破壊すること、何のために人間は道具を作り出してきたか? なんのために石を積み上げてきたか? 壊すため、破壊の衝動がものを作らせる、立ちはだかる十三本の高層ビル、窓の外の街は熱暑でゆがんでいる、ビルの群れが喘いでいる、東京が呼びかける、壊してくれ、すべてを破壊してくれ、窓から下を眺める、私たちはある瞬間の自分をイメージする、東京を焼きつくし破壊しつくす自分、叫び声と共にすべての人々を殺し続け建物を壊し続ける自分だ。街は美しい灰に被われる、虫や鳥や野犬の中を歩く血塗れの子供達、そのイメージは私たちを自由にする。不快極まる暗く狭い夏の箱の中に閉じ込められているのだという思いから私たちを解放する。私たちの中で古い皮膚が剥がれ殻が割れて埋もれていた記憶が少しずつ姿を現わす。夏の記憶。コインロッカーの暑さと息苦しさに抗して爆発的に泣き出した赤ん坊の自分、その自分を支えていたもの、その時の自分に呼びかけていたものが徐々に姿を現わし始める。どんな声に支えられて蘇生したのか思い出す。殺せ、破壊せよ、その声はそう言っていた。その声は眼下に広がるコンクリートの街と点になった人間と車の喘ぎに重なって響く。壊せ、殺せ、全てを破壊せよ、赤い汁を吐く硬い人形になるつもりか。怯えていてはいけない、怒れ、壁の前で足踏みをし、逃げて嘘をついて偽の生き方をさせられ、みんなに好かれようと努力をし、頭の中はモヤモヤモヤモヤモヤモヤモヤモヤモヤと曇り、誰か傍にいて優しくしてくれないと生きてこられず、自分の欲しいものすらわからなかった現実を、壊せ、私たちは何が欲しかったのか、何かが欲しかった、何かに飢えていた、あの音、あの音だけ、あの音だけが欲しい、私たちは何一つ手に入れていない、私たちは変わっていない、まだコインロッカーの中にいる、肌を腐らせたまま箱の中に閉じ込められている、この腐った街、ヌルヌルする糸を吐いて繭を作り、外気を遮断して、触感を曖昧にする、巨大な銀色のさなぎのような都市、道路は溶けたゴムの匂いがし、柔らかくぬかるんでベトベト糸を吐き、通りを歩くすべての人々がガラスと鉄とコンクリートにはさまれて足の裏で糸を引き擦るこの街、銀色のさなぎにくるまれて、さなぎはいつ蝶になるのだろうか、巨大な繭はいつ飛び立つのだろうか、糸や繭が、あの彼方の塔が崩れ落ちるのはいつか。夏に溶かされた柔らかな箱の群れ、漂うミルクの匂い、あの箱の一つ一つに赤ん坊が閉じこめられている。心臓音が響く、体のどこかに煮えたぎるものがある。体を切り裂いて煮えたぎるものを取り出しブヨブヨのさなぎの夜の街に叩きつけたい。壊せ、破壊を続けろ、街を廃墟に戻せ。その音は言う。私たちは何一つ変わってはいない、誰もが胸を切り開き新しい風を受けて自分の心臓の音を響かせたいと願っている。夏の柔らかな箱で眠る赤ん坊、私たちはすべてあの音を聞いた、空気に触れるまで聞き続けたのは母親の心臓の鼓動、一瞬も休みなく送られてきたその信号を忘れてはならない、信号の意味はただ一つ。死ぬな、死んではいけない、信号はそう教える、死ぬな、生きろ。十三本の塔が目の前に迫る。銀色の塊りが視界を被う。もうすぐ巨大なさなぎが孵化しようとしている、夏の柔らかな箱で眠る赤ん坊たちが紡ぎ続けたガラスと鉄とコンクリートのさなぎが一斉に孵化するとき、私たちは巨大なコインロッカーの中で新しい産声をあげるだろう。

  

詩と批評のあいだⅣ これからの恐怖にむけて——ブライアン・エヴンソン『遁走状態』『ウインドアイ』(柴田元幸訳)

Ⅳ これからの恐怖にむけて——ブライアン・エヴンソン『遁走状態』『ウインドアイ』(柴田元幸訳)       

  

 何日か続いて思い出せない日があって、それが何日間なのかはどうしてもわからなかったが、とにかくそれらの日々、自分は昏睡状態に陥って床に倒れ、妻だろうと思ったがもはやそれも定かではない女性の隣に横たわって目から出血していたにちがいない、ととりあえず推測した。そしてそういう日々の前の日々も、やはり思い出せなかった。何とか目を開けて、自分の周りの世界が、五感で十分感知できる速さで動いていると感じたとき、女性は、彼女が誰であれ、もう死んでいた。かくして最初の、どんどん崩壊しつつある記憶は、女性の隣に横たわって、その痩せこけた顔に、すぼまって犬歯の先を覗かせている唇に、見入っている記憶だった。
 この女は誰だろう? と考えた。
 そして俺は、いったい俺は誰だろう?         
                                  ——「遁走状態」

  

 名前をもたないものにせよ、名前をもたされているものにせよ、たとえ名前をもっていたとしてもそれが正しいものだという確証はまったくないのだが、とにかくここ、二つの短編集のなかに収められ、描かれている彼らは、自分の置かれている今ある閉ざされた状況、それは多かれ少なかれ陰惨で、暴力がどっぷりと満ち、物語がはじまったときにはすでに取り返しのつかなくなってしまっている状況を、自分でもはっきりと把握することができない。彼らは我々に、彼らの限られた視野から見えるか聞こえるかする情報を語りながら、自分の置かれている立場というものを、たどたどしく手探りでたしかめていこうとする——なぜ目の前の人物は両方の眼窩から血をどくどくと流しているのか、なぜ自分は血まみれの仔馬たちの死骸の中に立っているのか、なぜ父は頭をオレンジ色のビニールのメッシュにくるんで撚り糸できっちり縛っているのか——といったことを。それはひょっとすると、子供たちが肝試しにやるような、壁板のうしろがわのみえない暗闇に指を滑りこませて、そこにじっとひそんでいるものを手でたしかめながら質問に答えていくような遊びに似ているのかもしれない。それってつるつるしてるかい? それともざらざら? うろこみたい? 血は冷たいかい、温かいかい? 赤い感じ? かぎ爪が出てる感じ、引っ込んでる感じ? 目が動くのがわかるかい?

 しかしながら彼らが認識のために用いようとする身体は、彼らに従属するものとしてではなく、むしろ彼らと齟齬をきたすものとしてあるのである。ある男は、自分が片腕を失ったことを自覚していて、その喪失が現実であることを一瞬たりとも疑いはしない。ところが、切断面に目をやると、腕がまだそこにあることを男は見てとる。また別の男は、痛みを感じていたとしても、医者のようなものたちからは、あなたがいま痛みをかんじることはありえないと断定される。あるいは、声が出た確信があっても、出てくるのはささやき声だけ。あるいは、周囲の音が次第に遅れて届くようになる。あるいは、パントマイム師がつくりだした存在しない箱に毎晩圧迫される、等々。

 そしてまた、彼らがそれだけを頼りに語ろうとすがりついている言葉も、彼らが求めるがままには応じてはくれない。常に他人との会話はちぐはぐ、双方向の関係はなりたたないのであって、正しいと思えること、自分では納得できることを言っても、誰も本当にわかってはくれない。他人は自分とは別の世界に住んでいるみたいな、もしくは、こっちが水の中から話しているみたいな感じにさせるだけなのだ。言葉は頼れるものではなく、彼らをさらなる混乱へと陥れるものとしてあるようにみえる。それは他人との関係だけとは限らない。言葉は独立した、まるで邪悪な意志をもった存在であるかのように、ときに彼らに執拗にとりつき、ときに勝手に口から滑り出て単語同士を勝手に入れ替える。彼らはもはや言葉というもの、自分の口から出てくる言葉に、呑まれ、信用することができなくなっていく。

 だが語ること以外に彼らにいったいどんな術がある? 語ることでしか彼らは自分の置かれている位置を認識すること——正確にいえば、認識に至ろうともがく不毛な試み——ができないのだ。すでにして人生の把握を失っている彼らは、慎重に、ゆっくりと、その信用ならない言葉をぎこちなく使いながら、自分に問いかけること——どうなっているんだ?——を繰り返し、考え、思考し、出来合いの言葉で目の前にある絶望的な現実を語る。彼らはいくつもの可能性のあいだを、どちらにせよ悲惨にはかわりない選択肢のあいだを、どっちつかずのままゆらゆらと歩いていく。妹は消えてしまったのか、それともはじめからいなかったのか? なぜ自分は支配されているのか、この支配から逃れられるのか? そもそも誰に支配されているのか? 誰が、ではなく何が、なのか? どうやって始まったのか? いつ始まったのか? そもそも始まっていないのか? 現実だったのか? 自分が現実だと信じ込んでいるだけなのか? こうやって語っている自分はまともなのか? 自分はもう壊れてしまっているのではないか? 
 困難は何が現実で何が現実でないかを知ろうとする際に生じる。彼らはよろよろと歩いていって、新たにドアを開けて、また別の部屋が現れるたびに、自分という人間の蝶番がまた少し外れていくのが、自分がまた少し狂っていくように感じる。けれども彼らには前に進む以外の選択肢はない。話はどこにもたどりつかない。だとしても、彼らは少しでも語ることで、自分たちにいったい何が起こったのかを把握しようとし、そうすることで、かろうじて希望を得ようとするのだ。彼らは曖昧な現実を曖昧なままに伝え、我々は曖昧なままに受け取ることになる。

 あるいは、現実に我々が立たされている世界、根源的な世界というのは、まさに彼らが置かれているような状況ではないだろうか。生まれたときからすでに世界は壊れていて、とりかえしがつかない状況からはじまり、気づけば見えない蟻地獄から抜け出せないでいる。我々は声のする方に向かって、聞こえるとおりに従っていこうとするが、価値判断は流動的、声のいうことは数秒ごとにうつりかわり、その声が確かなものか、誰が発したものなのか、本当に聞こえているのかどうかも確信できず、そしてもはや我々は自分が何を感じているのかさえわからないのだ。嬉しいのか? 楽しいのか? 悲しいのか? 怒っているのか? 自分で感じていることを感じとることは不可能で、いいたいことはわからないために、いうべきことだけをいうしかない。我々は靄のかかったまま世界を生き、頼りにできるものはなにひとつない、というのも現実そのものが確固たるものではないからだ。
 我々にとっての恐怖は、いまやアッシャー家のような、おどろおどろしい舞台を必要とすることはないのだろう。フランケンシュタインの怪物のような異形のものでもなく、幽霊でもなく、人間の顔をした蝿でもなく、自分の奥底にひそむハイド氏でもないのであって、それは明確なかたちをもった恐怖ではなく、そこには明らかな因果関係もない。我々が対峙しているのは現実ですらない。認識そのものなのだ。それをなにか認識することができないということ自体への恐怖、わからない、ということへの恐怖。だがそれこそが、恐怖というものこそが、そもそも根源的な世界であったのであり、我々はいまや、確かなものなどどこにもない、という事実と直接戦わなければならないのだ。

 けれど、そんなことを声を大にしていったとして、いったい何になる? せいぜい、じきに絶望して首をくくるか、誰彼構わず惨殺する破目になるかではないか。最悪の場合、いまある以上にわからないことを増やしてしまうことになるだろう。本当にこの事態から無事抜け出すという可能性、本当に一度だけでも明確な認識を得るという可能性は、我々自身からみても、一番確率が低そうに思える。だから、我々はここで語るのをやめておこう。我々に向かって語っている彼らをそのままにしておいて、一歩二歩うしろに下がろう。それからそっと寝室にいって、明かりを消し、暖かなベッドにもぐりこもう。そうして、闇のなかで誰かがせかせか寝返りを打つ音が聞こえようとも、夜が更けてゆくにつれやりきれなさげなうめき声が漏れてこようとも、我々としてはにっこり笑うことにしよう、そして我々自身に嘘をつくことにしよう、そうとも、もう何もかも大丈夫だ、そう、シーッ、そう、我々は眠りについたのだ。  

  

詩と批評のあいだⅡ 浮気者のための恋愛論 ———ジュノ・ディアス『こうしてお前は彼女にフラれる』(都甲幸治・久保尚美訳)

Ⅱ 浮気者のための恋愛論———ジュノ・ディアス『こうしてお前は彼女にフラれる』(都甲幸治・久保尚美訳)
  
                                                 

  

 ユニオール、お前にはアルマという名前の彼女がいて、その長くしなやかな首は馬みたいで、大きなドミニカ風の尻はジーンズを越えた四次元にあるようだ。月を起動から外しちまうほどの尻。お前に会うまで、彼女自身はずっと嫌いだった尻だ。お前がその尻に顔を埋めたいとか、その細くなめらかな首筋を噛みたいとか思わない日はない。お前が噛んだとき彼女が震える感じや、彼女が両腕でお前に抵抗する感じが好きだ。彼女がいなければ、お前は永遠に童貞を捨てられなかったかもしれない。お前は友人の男どもに自慢する。彼女は他の誰よりたくさんレコードを持ってるし、セックスのとき白人の女の子みたいなすごいこと言うんだ。素晴らしい! でもそれは、六月のある日に、ラクシュミって名前の一年生のきれいな女の子ともお前がやってることにアルマが気づくまでの話だが。
 ある時はまた、お前にはフラカという彼女がいる。黒い細身のワンピースを着て、メキシコのサンダルを履いてて、よくお前にくっついて本屋にいく。お前と同じくらい長く本屋にいても平気な娘は、お前が人生で出会った中でも彼女しかいない。インテリ女だ。少なくとも彼女は誠実だったけど、お前もそうだったとは言えない。二ヶ月も経たないうちに、お前は他の娘と付き合い始めることになる。シャワーで自分のパンティを洗う娘で、髪は小さな拳が集まった海みたいに波打ってる娘だ。それからフラカとの喧嘩が延々と続いたが、それでも彼女はお前と一緒にもう一度スプルース・ラン貯水湖に行く。夜、彼女はお前のベッドに入ってきて、互いの腕の中で眠る。けれども次の朝、彼女は行ってしまっている。ベッドにも家の中のどこにも、彼女がいたという徴は残っていない。
 お前は言う。おれは悪い奴じゃない。おれだって他のみんなと同じだ。弱いし、間違いも多いが、基本的にはいい奴なんだ。でもマグダレナはお前のことをそうは思わないだろう。彼女はお前のことを道徳心のないクソ野郎だと思ってる。たとえお前が、八〇年代風のものすごく大きな髪型をした女の子と浮気するという愚行をやめてからもう何ヶ月も経っていたとしても。
 ユニオール、お前はいつまでも懲りなくて、しょうもない浮気を繰り返し、彼女たちにバレ続ける。そして彼女たちはお前の元を次々に去っていき、お前は置いてかれる度に落ち込でしまう。ひどいときなんか、お前は鬱に完璧にやられてしまって、分子一つ一つがゆっくりとペンチで引き剥がされていくような感じだ。彼女たちは言う。じゃあ浮気なんかしなけりゃいいのに。その通りだ。だがそんなことを言われるまでもなく、お前は悔い改めようとしているのだが、その決意は長続きしない。お前はまた違う女の子に手をだす。それでも一度限りの出来事にできるとお前は思う。しかし次の日にはまた浮気相手の家に直行してしまう。
 それは呪いなのよ、と彼女たちは言う。あなたに流れる血が、あなたの運命を決めてしまっているのよ。お前は思う。そうだ、確かにもしおれが誰か別の人だったら、こうしたすべてを避ける自制心も働いたかもしれない。でもお前はあの父親の息子だし、あの兄貴の弟だ。お前の父親も兄貴もひどい男だった。まったく、父親はよく女に会うのにお前を連れて行った。車にお前を残して、部屋まで駆け上がっていき、愛人たちとやるのだ。そして結局父親はお前たちを捨てて二十五歳の女のもとへ走ってしまった。兄貴だってそれよりましとは言えなかった。お前の隣のベッドで女の子たちとやるんだから。最悪のたぐいのひどい男たちで、今やお前もその一人だと認定された。遺伝子が自分を避けてくれるように、一世代飛ばしてくれるようにとお前は望んできたが、単に自分を欺いていただけだとはっきりした。結局、血からは逃れられないもんだね、お前は言う。
 いや、違うわよ。彼女たちは言う。そんなの都合のいい言い訳でしかないじゃない。あなたは悔しいんでしょ? あなたはお兄さんに勝とうとしてるんでしょ? お前は黙って考える。もしかしたらそうかもしれない。思い返してみれば、ミス・ロラとのことだって、兄貴のことがなかったらしただろうか? 他の野郎どもはひどく嫌ってたあのミス・ロラ——すごく痩せてて、尻もおっぱいもなくて、まるで棒みたいだった。でもそんなこと兄貴は気にしなかった。あの女とヤりたいぜ。兄貴は言った。兄貴は生涯を通じて、ものすごい美男子で、学校でも白人の女の子たちさえ、やたらと筋肉のある兄貴に憧れてた。おまけに昔から色男で、すぐさま尻軽女たちを捕まえては、母ちゃんが家にいようがいまいが地下の部屋にこっそり連れこんだ。父親が出て行ってから恋人もつくらなかった母ちゃんは、ただ兄貴一人を完璧に甘やかし続けた。兄貴が父親の代わりみたいなもんだった。兄貴が癌だってことがわかる前から、母ちゃんはいつも百パーセント兄貴の肩を持っていた。もしある日、兄貴が家に帰ってきて、ねえ母ちゃん、人類の半分を皆殺しにしちまった、なんて言っても、母ちゃんは野郎をこう言ってかばうに違いない。そうね、あんた、もともと地球は人口過剰だったからね。
 お前は自分に問いかける。おれは兄貴がうらやましかったのか? おれは兄貴になりたいと思っているのか? 兄貴がいなかったらこんなことやらなかったんだろうか? 
 お前は誰からもちゃんと愛されたことがなかった。父親には捨てられて、母ちゃんには空気のように扱われ、近所の連中からはいつも兄貴と比べられていた。でも兄貴がいなくなってから、女の子たちはお前に注目し始めた。お前はかっこよくはなかったけど、相手の話をちゃんと聞いたし、腕にはボクシングの筋肉がついてた。お前は兄貴のように女の子を家に連れこむことはしなかったし、彼女たちの髪の毛をつかんでひきずりまわしたりなんてことはしなかったけど、どんなに素敵な彼女がいるときでも、浮気することはやめられなかった。いつも別の女と寝ようとした。そうやってお前は兄貴と同じ場所にいけると思ってたのかもしれない。女の子たちはお前の顔をじろじろと見る。ねえ、本当にお兄さんに似てるのね。みんなにいつも言われるでしょ。
 ときどきね。
 お前はだんだん兄貴になっているのか? だとしたら、これは素晴らしいことのはずだ。
 だったらなんでお前の夢はどんどん悪くなっていくのか? 朝、洗面台に吐き出す血が増えていくのはなぜなのか?
 ユニオール、お前は彼女たちにフラれたことを繰り返し語る。十七歳の時、十九歳の時、大学生の頃、もっと大人になってから、いろんな時代、場所、いろんな女の子、お前の恋愛は実にさまざまだ。けれど、結局お前の話はどこにも行き着いちゃいない。お前は太陽のまわりを回る月みたいに一つの点の周辺をぐるぐると語っているだけだ。一つの点、一つの空白。そう、お前は兄貴の死についてはこれっぽっちも語ろうとしない。お前はあくまでおどけながら浮気話を語るだけで、兄貴の死に正面からぶつからない。そんなお前のことを心配してミス・ロラはいつもお前に兄貴の話をさせようとした。そうしたら楽になるから、彼女は言う。
 お前は言う。言うことなんてある? 癌になって、死んだ。
 お前は逃避してた。ひたすらセックスをして。心が傷つくことなんて何も起きてないふりをするために。浮気することで逃げていた。お前は自分のしてることにものすごく怯えてた。でもそれに興奮してもいたし、世界の中であまり孤独を感じずにすんでた。誰とも親密になりすぎないように、いつだって女を掛け持ちして、浮気することで向き合うべきものから逃げてた。そしてお前はあえてバレるようなドジを踏んで、何度もフラれて、またかと思わせるほどしつこくさも悲しげに語ってた。そうすればお前は兄貴の死のまわりをぐるぐると回るだけですむから。
 けれど、お前はそうすることによって本当は兄貴の死を繰り返しているんだとしたら? 浮気をしてフラれることで兄貴の死を延々と再現しつづけているのだとしたら? お前は兄貴の死をなんどもなんども反復して自分自身を破壊しているのだとしたら?
 お前は浮気をするからフラれるんじゃなくて、フラれるために浮気をしているんだ。

 そしてまたお前は手に負えないほどひどい浮気者だってのに、ゴミ箱に捨てた電子メールを消しさえしなかったから、新しい彼女(まあ実際には婚約者だが、でもそれはそんなに重要なことじゃない)は浮気相手を五十人も見つけてしまう! そうさ、六年間にってことではあるけど、それでもね。五十人の女の子とだって? まったくもう。もしお前が婚約したのが素晴らしく心の広い白人女性だったら、お前も何とかやり過ごせたかもしれない——でもお前が婚約したのは素晴らしく心の広い白人女性なんかじゃない。お前の今度の彼女はサルセド出身のやっかいな女で、広いナントカなんて何一つ信じてない。実際、彼女がお前に警告し、絶対に許さないと断言してたのは浮気だった。あんたにナタを打ち込んでやるから、彼女は言い切った。そしてもちろん、そんなことしないとお前は誓った。お前は誓った。お前は誓った。
 彼女は玄関前の階段でお前を待ってて、お前は彼女のサターンを停めながら、彼女が仁王立ちしているのに気づく。そのとき、絞首台の落下口を太った盗賊が落ちていくように、心臓がお前の体の中を落ちていく。お前はエンジンをゆっくりと切る。大海のような悲しみに圧倒される。バレたことの悲しみに、彼女が決して許してくれないだろうとわかった悲しみに。お前は信じられないほど素晴らしい彼女の脚を眺める。そしてその間にある、もっと信じられないほど素晴らしいオマンコのあたりを眺める。
 こうしてお前は彼女にフラれる度に、兄貴に死なれる。