鏡の国について

 わたくしはたくさんの子供たちを育てるために、この国をつくりました。その子供たちは、わたくし自身が、お腹を痛めて産んだのではありません。血の繋がりこそありませんが、わたくしは子供たち全員を平等に愛しております。わたくしたちは家族なのです。子供たちにはわたくしのことが見えないし、声も聞こえないし、直接触ることもできませんが、わたくしはこの国全体を覆う深い霧の上から、いつでも彼らを見守っています。彼らのほうでも、ときおりわたくしの存在をふと感じて、わたくしに向かって祈ったり、話しかけたりしてくれます。

 わたくしが連れてくるのは、住む家がなかったり、食べるものがなかったり、大切な人間に拒否され、望まれず、愛されずに捨てられてしまった子供たちです。他の国から、そういう子供たちをこっそり連れてくるのです。わたくしが彼らを連れていってしまっても、幸い、気に留める人はおりません。気づいたとしても、厄介払いができたと喜んだり、ただの神隠しだと思って、深追いすることはないでしょう。それほどまでに、彼らはいてもいなくても、どちらでも構わないような存在として、粗末に扱われていますから。

 彼らをこの国に移すときには、ワクチンを注射してやります。と言いますのは、彼らはそれまで恵まれない人生を送ってきたために、放っておくと過去の辛いことを思い出し、何かを壊そうとしたり、自暴自棄になってしまうことがあります。そこでワクチンが必要になるのですが、このワクチンには「意味」が含まれているので、打ったとたんに、子供たちはしゅんとして、大人しくなります。意味のワクチンを打たれると、子供たちは、あらゆるものに意味を見出さずにはいられなくなります。自分の人生の意味について考えだし、自分の不幸だった境遇にも、何かしらの意味があるはずだと思うようになります。もちろん、意味などというものは、幻想に過ぎません。そんなものはあるはずはないのです。意味を打つということは、酷なように見えるかもしれませんが、とても、とても重要なことなのです。あなたにうかがいますが、のけものにされ、乱暴に扱われ、虐げられ、忘れられてきた子供たちと、お話しされたことはありますか? 「かわいそうな子供たち」は、残念なことに、必ずしも可愛げのある、弱々しい存在であるとは限らない、むしろ、大抵において、憎たらしい、不愉快な存在なのです。取り返しのつかないほど深い傷、取り除くできないほど強い不安を、身のうちに抱え込んでいる子供たちは、爆弾と同じ、危険物です。他人を見れば、すぐに不信感を覚え、話しかけてもろくに答えず、裏切られると思うと噛みつき、ささいなことで癇癪を起こし、大切な人を傷つけ、そしてまた自分を傷つけます。不安とは毒なのです。不安を持ったものは、他人の中の不安を逆立て、不快感を生み出し、忌み嫌われ、負の連鎖を引き起こします。だからこそ、人は、不安を抱えた子供を捨てるのです。普通の人は、愛らしい子供しか欲しがりません。けれども、たとえどんな理由であっても、捨ててもよい命などないのです。生命は生命です。しかし、毒をもった存在は、野放しにしては生きていけません。わたくしは、ありもしない意味を与えることによって、逆説的ではありますが、彼らの安全を守るのです。

 ワクチンの接種を終えると、わたくしは、彼らを空いている個室に入れてあげます。どの部屋も同じ正6角形をしており、蜂の巣のように、縦横びっしりと無駄なく並んでいます。上から見ると、とても美しいものです。個室にはそれぞれ、机と椅子とベットを一つずつと、十分な食料を入れてあります。これらの家具も食料も、わたくしが他の国から持ってきたものです。盗んだのではございませんよ。廃棄物として処分される一歩手前のものを、救済してきたのです。廃棄物とはいえ、まったく問題なく使えます。今では資源など、自分たちの手で新たに作り出したりしなくとも、探せば掃いて捨てるほど余っているのですから、それらを集めてくれば、飢えた子供たち全員を十分まかなえるのです。それから、そう、絶対に入れ忘れてはならないのは、回し車です。一人一台、部屋の中に、必ず回し車を与えてやります。食べるものと、安全に暮らせるところは、もちろん必要不可欠なのですが、子供たちが自立できるように、労働も与えてあげなくてはなりませんからね。部屋に入れられた子供たちは、何に対しても意味を見出さずにはいられないため、誰に言われるでもなく、回し車にのって走り始めます。子供たちは、実にまじめに回し車を走りますよ。自分の体を動かして、汗を流すことは、素晴らしいことですね。自分は働いているのだという自負は、人間の心を健全にします。走ってさえいれば、日々の無為を埋めることができ、自分には価値があるというような、つかの間の自己肯定感が得られるのでしょう。

 彼らの正6角形の部屋は、全ての面が鏡でできています。ですから、この中に入れられると、反射し合った鏡の中に延々と自分の姿が続いているように見える仕組みとなっております。どこまでいっても、自分、自分、自分の世界です。当然、隣の部屋は見えません。子供たちは分断され、疎外されています。そうすると、不思議なことに、子供たちには自分の姿しか見えていないはずなのに、たえず自分が誰かに見張られているような感覚に陥るのです。その上、いつでも誰かが回し車で走っているので、カタカタという音が、ずっと周囲から聞こえてきます。他の人が走っているのに、自分だけ休んでいることに対して、罪の意識を抱き、じっとしていることに耐えられず、休息もそこそこに、また彼らは走り始めます。みんながやっているのだから自分もやらなくてはならない、と思うのです。そして、鏡に映った、汗を流して走る自分の姿を見て、子供たちは満足感を覚えます。

 壁に鏡を用いることには、さまざまな理由がありますが、その大きな目的の一つは、子供たちが外に出てしまうことを防ぐということです。二度と傷つけられたくないと切に願っている子供たちが、他人と触れ合うことで人を傷つけ、人に傷つけられることを防止するのです。鏡の世界というのは、不思議なものです。外の世界があるべきところに、内の世界が映っており、もはや向こう側はなく、世界がそこから閉じられてしまったかのように思えます。一歩外に踏み出せば、簡単に外側に触れることができるのに、鏡の内側にいると、外側があるという当然の認識すらなくすのです。彼らには、自分こそが全て。けれどもその自分が、鏡の中に無限に分裂しているので、どれが本当の自分の姿なのか自信が持てなくなっています。過剰な自己への意識は、自己存在への不安を増長させます。おまけに、この国では、子供たちの抱える強すぎる不安が、大気中に流れ出して、空にはいつでも濃い霧がかかっているので、昼と夜の区別もなく、時間の区切りがありません。時間と空間の感覚が麻痺してしまった彼らは、ただ、今この瞬間の虚無から逃れようとするばかりです。そうして、自分がここに存在していることを確認するために、自分が自分であることを表現するために、彼らは意味を求めて回し車を走ります。彼らはどれほど時間を費やしたか、知ることもないまま、成長し、歳をとり、老いてゆきます。走れなくなるほど老いても、彼らは、回し車にのるのをやめません。でも、大丈夫です。何歳になったとしても、この国にいるかぎり、わたくしの子供であることには変わりありません。

 あなたは不思議に思われるのですね。この回し車を走らせることに、いったい何の目的があるのか、と。目的など何もございません。この回し車は、走ることによって何かを作り出すことが目的なのではなく、走るという目的を作ることだけを目的としているのです。彼らの労働には、何の成果も伴いません。労働すること自体が重要なのです。ですから、意地悪な言い方をするならば、彼らは無のために一生走り続けているようなものなのですが、彼らは、自分たちが、この世に生まれてきた以上、何らかの役目を果たすべきであり、そのために自分は走っていると思い込んでいます。彼らはワクチンを打たれているがゆえに、すぐに意味を求める。たとえそれが嘘であっても、彼らは構わないのです。わたくしは、彼らのささやかな人生に、まるで意味があるかのように、錯覚させてあげています。彼らはあまりにも弱く、ありのまま空白を生きることに耐えることができません。どこに進むべきかわからないまま、自らの目の前に延々とつづく時間を、回し車を走るという行為で、わたくしは満たしてあげているのです。

 あくまで、わたくしのしていることは、まったき「愛の行い」なのですよ。わたくしは、忘れられ、嫌われ、かえりみられることのない子供たち、飢えて、住むところも、誰も頼る人もいない子供たち、そういう彼らのために、心から奉仕し、無償で仕えているのです。わたくしは、彼らを助けることによって、見返りも、成果も求めておりません。とても、とても傷ついて、痛みを持った心に、何らかの意味を与えてあげること、それがわたくしの務めなのです。わたくしは、そんな子供たちに救いの手を差し伸べています。ですから、わたくしは、あなたにもお願いしたいのです。どうか、打ち捨てられた子供たちに、やさしい手を差し伸べてください。そして、その子をわたくしのところに連れてきてください。わたくしが、その子を育て、愛し、死ぬまでお世話をいたしますから。