詩「遺跡の裏で」

遺跡の裏で

                                       

ダラの運転するトゥクトゥクはすごく揺れる

わたしはどこかで止まってご飯を食べたいというが

ダラはそこで食べていいよというだけで止まってはくれない

今日の遺跡は街から離れたところにあるから時間を無駄にしたくないのだろう

スーパーで買ってきたトマトソースをパンに塗ろうとするが

瓶をあけた途端ソースがワンピースに飛び散ったので蓋を閉める

することもなく

平原を眺める

雲ひとつない

乾季のカンボジア

暑いはずなのに寒気がして

薄いカーディガンを体に巻きつける

うしろからやってきた満員のトゥクトゥクがわたしたちを追い越してゆく

昨日も見かけた欧米人の家族

赤い砂埃にサングラスを下ろす

この地域にはコンビニ並みに遺跡が乱立しているから

観光客たちはスタンプラリーのように次へ急ぐ

9世紀から15世紀まで 

新たな王が即位するたび

その権力を誇示するため競うように寺院が建設されたという

その後400年ものあいだ

存在を忘れられていた遺跡たちは

いまや年末年始も休む暇ない

         

風が吹くと

鳥肌が立つ

この国に入ってからどうも体調が良くなくて

昨日ダラに頼んで連れて行ってもらった

村の呪医(クルクメール)の診療所

腰布を巻いただけの長身痩躯のお爺さん

眼光鋭く

わたしは恐る恐るお供えの線香と煙草と紙幣を渡し

他の患者たちに熱心に見つめられるなか

唾を噴きかけられ

灰色の生温いどろどろの液体をお腹に塗られたあと

朝夕一口ずつ食べるよう植物の根っこのかけらのようなものを手渡された

内心イモリでも食わされたらどうしようと怯えていたから

ほっとしてありがとう(オークン)ありがとう、(オークン)といいながら診療所を後にした

なんだかその一部始終が幻だったように思えてきて

カバンのポケットに手を入れる

ここにある小さな固い感触から

昨日が幻ではなかったことを確かめる

         

なびくダラのシャツは汗でびっしょり濡れている

屋台の立ち並ぶ通り

落ちた食べものを漁る野良犬

道を退こうとしない群衆にダラがクラクションを鳴らす

わたしの顔をじっと見てくる住民たち

彼らはJapanese girl ともコンニチワとも你好(ニーハオ)とも言ってはこないし

目があっても笑わない

ほんの30年前まで内戦が行われていたこの土地

ここにいる人々の誰が加害者で誰が被害者なのか

サングラス越しにわたしも彼らを見つめ返すが

表情が読めない

「ありがとう」と大きな文字で書かれた横断幕の垂れさがった

新設のがらんとした校舎を通り過ぎる

昨日診療所で会ったダラの友人がいうには

校舎があっても教員不足で授業ができないのだという

階級や格差のない〈よりよい世界〉をつくるために

文明で腐敗しきった都市を根こそぎにし

国民の3分の1を消去した彼らは

どんな理想郷を思い描いていたのだろう

         

遠くでは牛たちが草をはんでいる

途中ガソリンスタンドに寄り

赤い髑髏の看板を過ぎて

密林地帯に入り

わたしたちはやっとたどり着く

森の中ひっそりと佇む廃墟

ゲリラたちがこのあたりに無数の地雷を埋めたから

長らく修復の手がつけられなかったのだという

わたしは無言でダラに手を振って別れ

両脇に屹立する蛇神の像のあいだ

長くのびる参道を歩く

ポストカードを売ろうと纏わりついてくる子供たち

水彩画を並べている画家の前を過ぎて

突き当たり

巨大な瓦礫の山と化した正門を見上げる

頂点から見下ろす太陽が眩しくて

こめかみが痛む

         

日陰へ進む

ガジュマルの枝に突き破られ

根っこに飲み込まれた塀

窓枠だけが残った壁を眺めながら

かつてそこにあったはずの完成形を思い浮かべる

王たちは知っていただろうか

自分たちのつくりあげたものがこんなふうに壊れてしまうなんて

隙間に入りこんだ小さな植物の種子に

やがて彼らのつくりあげたものが内側から壊されてしまうなんて

         

記念写真をとろうとしているイタリア人たちから離れ

中国人のツアー客の後ろについて

石の回廊にめぐらされた木の歩道を歩く

内戦で吹き飛ばされた外壁の残骸

蓮の花のレリーフ

階段を上って

中央部に行き

木道の手すりに寄りかかって

祠堂のあったはずの場所を眺めていると

邪魔

という声

不意の日本語に振り返る

日本人の男二人がわたしを見て

中国人は消えろ

と言う

卑猥な単語

笑い声

急に投げつけられた悪意に

わたしは動けないまま

日本へ引き戻される

あの国に置いてきたはずのどす黒い感情が

わたしのなかで新たに芽生え

枝葉を伸ばす

         

日の差し込まない十字回廊

わたしは彼らのすぐ後ろをついていき

勾配の急な階段を下りながら

足を振り上げ

蹴り飛ばす

階段から転げ落ち

呻き声をあげる肉体

わたしは落ちていた壁石の破片を持って

両眼を潰す

(腐ったものは除去しなくてはならない

なかなか死なないから

尖った方で

喉を何度も刺した

血がワンピースに飛び散る

わたしはやめない

これは必要なこと

誰にも支配されないために

〈よりよい世界〉をつくるために

わたしたちは正しかった

汚れた思想は排除して

すばらしい未来をつくろう

増えていく

いくら殺しても殺し足りないから

次々と刺した

人々の生命と安全を守るために

血にまみれたわたしたちの手

転がる陥没した頭蓋骨

わたしたちの足元にうず高く積もる

名を奪われたものたち

その上にそびえる

わたしたちの理想郷

純粋な世界に

         

彼らから離れて

わたしは座っている

崩れ落ちた瓦礫の上に

誰もくることのない

遺跡の裏で

遠くで誰かが歌をうたっている

なじみのない旋律

木洩れ日に揺られながら

わたしはあらゆるものが流れていくのを感じる

怒りやさみしさ

空腹が流れていくのを感じる

体を覆った冷気が

陽光に溶けていくのを感じる

とっくに忘れたはずの記憶が

湧き上がりまた薄れていくのを

いなくなってしまった人たちの顔が

現れそしてまた消えていくのを感じる

苔むした塀をよく見ると

鳥がフンをしているし

蜘蛛は巣をはっているし

蟻は列をなして歩いている

いずれこうやって朽ちてしまうのに

どうしてわたしたちは何かをつくらずにはいられないのだろう

ずっと繰り返してきたのだろう

新たなものがつくられ、完成し、そして崩壊していくのを

自然は口を挟むこともなく

何千年ものあいだ目にしてきたのだろう

         

聞こえてくる旋律をなぞるように

わたしは口ずさんでいる

歌うのはいつぶりだろう

誰に聞かれるためでもなく

誰のためにつくったのでもない

ただの歌

遺跡の裏側なんていう

誰のためにつくられたのでもない

誰に見られるためでもない

ただ存在しているだけの場所

それがわたしに一時の居場所を与えているように

ただ在るということが

誰かのほんの一瞬の救いにつながっているかもしれないと思うと

ただ歌を歌うという行為が

許されているような気がした

そうやって目を閉じて

深い呼吸をして

胸の中にある塊を解かしていくと

わたしと彼らの違いなどまったくなくて

同じところから生まれ同じところに帰っていく

彼らはわたしがそうであったかもしれない姿でしかなく

草も虫も犬も

遺跡も鳥のフンも

みんな結局は同じ

どうしてわたしは草ではないのか

どうしてわたしは犬でもなく

煙草の吸い殻でもなく

わたしという形をしているのか

わたしがこの形であるという現実が伝えようとしていること

長い時間がかかったけれど

なんとなくわかった気がした

         

駐車場に戻ると

ドライバーたちがトゥクトゥクにハンモックを吊るして昼寝している

奥の方で座って待っていたダラが

わたしに気づいて小さく手を上げる

次はどこにいく? と聞くダラに

宿に帰る とわたしは告げる

ダラはただ頷いてエンジンのキーを回す

         

揺れるトゥクトゥク

わたしはバッグのポケットからかけらを取り出し

小さく齧ってみる

口の中に苦い味が広がる

そしてまたお守りみたいにそっとしまう

         

         

         

         

         

         

(2021.7)

         

海を聴く

海を聴く

     

                               深沢レナ

     

ここのところ雨続きだったけれど

今日は運良く快晴で

約束の時間よりも早く駅についてしまったから

日陰に腰掛けて本を開く

磯のにおい

緑の車両が何本か通りすぎ

軽く汗がにじんできて

顔を上げると

踏切の向こうの郵便ポストの隣に

帽子をかぶった彼女が立っているのがみえる

わたしは立ち上がり

こちら側から手を振る

あちら側から彼女が手を振り返す

遮断機が上がる

    

焼き物屋や土産屋の並ぶ商店街の

突き当たりには波が光っている

湘南にくるのは何年ぶりだろう

以前夫だったひとと

この辺りで一緒に住んでいたのに

彼の顔もここの景色もほとんど覚えていない

連休だからか海岸は家族連れで賑わっていて

カニを捕まえようと親子が走り回っているのをみていると

緊急事態宣言が出ているだなんて

どこか遠くの国の話みたいにおもえる

    

この国の海は濁っているだろうと

あまり期待していなかったけれど

それなりに水は透き通っていて

わたしたちは靴を脱いで

おそるおそる足を踏み入れる

おもっていたほど冷たくなくて

もったりとした砂が心地よくて

二人ならんで足で泥をかきあげながら

ぽつりぽつりと話をする

仕事のこと

本のこと

家族のこと

会わなくなってしまった共通の友人のこと

いつかまた会ったらもうすこしわかりあえるかもしれないね

二〇年後くらいに と彼女がいって

だいぶ先だねと とわたしは笑う

二〇年なんてあっというまだよ

そうかもしれない

    

十一年前にも

学校の近くの川辺にいって

こうやって二人ならんで水面をみながら喋っていた

そのとき語っていた夢を彼女は叶えて

そのとき語っていた夢をわたしは追うのをやめた

でもそのおかげでずいぶんラクになったから

あれは夢ではなくて呪いだったのだろう

ときどき後ろをふりかえって

靴がそこに在ることをたしかめる

白いサンダルのとなりにならぶ灰色のスニーカー

波にさらわれる

少し手前に

    

前にね

島に行って

海に潜ろうとしたとき

その島のひとに教えてもらった

海に潜るときには受け入れるんだって

自分はいつでも食べられていいんだと

そうすれば一体になって

海の音を聴くことができるんだって

はじめはちょっと怖いとおもったけど

きっと

あたりまえのことなんだよね

わたしたちだって奪っているんだから

あたりまえのこと

彼女は裸足でゆっくりと泥をかきあげ

流れおちた水が渦をつくる

わたしたちの冷えたあしもとには

二つの大きな濁った穴ができている

    

上空では

鳶たちが鳴きながら

ゆるやかな円を描いている

スピーカーのラジオからは

今日の死者数がよみあげられる

すこしずつ海の青が濃くなって

遠くの半島にあかりがつきだす

強い風が吹いて

ああ生きてる と彼女がいう

わたしは風に奪われながら

彼女のとなりで海を聴く

    

    

    

    

     

     

    

「被害者」とはいったい何なのか——『生活の批評誌no.5』に寄稿しました。

  

 5月25日発行予定の『生活の批評誌no.5』(特集:「そのまま書く」のよりよいこじらせ方)に、「教室のうしろの席から」というエッセイを寄稿しました。

 5月29日(日)の文学フリマ東京にて初頒布されます。(ブース番号は【テ-11】) 

 その後、全国の個人書店などでも取り扱われる予定です。(生活の批評誌twitterアカウント @seikatsuhihyou にてお知らせ)

 目次など、内容の詳細はこちらをご参照ください。

  

  

 わたしは在学していた大学院でセクハラの被害に遭い、2019年から加害者・大学と裁判をしつつ、2020年の秋に「大学のハラスメントを看過しない会」という団体を立ち上げ、「原告A」として活動していましたが、昨年末から時間をかけて上記のエッセイを書いていく過程で、今回、名前を出すことに決めました。

 エッセイの中で詳しく書きましたが、長い間わたしは自分が「被害者」だと認めることを拒んでいました。それは、自分が劣位に置かれていることを認めたくないという悔しさがあったからでもあります。普段、「自立した女」であろうとしている自分の弱さを、人前にさらすような恥ずかしさがあったからでもあります。

 「被害者」とはいったい何なのか。運動や裁判をしていくなかでわたしが気づいたのは、「加害者は被害者意識に満ちている」ということでした。加害者たちはわたしの意見や気持ちに耳を傾けることなく、どこまでも自分を正当化し続けます。わたしは彼らと同じ土俵に立って、どちらの方が被害者なのか言い合うような、“低レベル”なことはしたくありませんでした。

 だから、運動をはじめた当初、わたしは愚痴や弱音をほとんど吐きませんでした。いろんな人に会いに行って話をし、二次加害にあたる発言をされても、傷ついている自分を見ないようにして、また次の人に会いにいきました。周りから「フットワーク軽いね」「行動力すごいね」と言われることを喜んでいたし、「大変な目にあっても飄々としている自分」に酔っていた部分もあったと思います。

 加害者たちのように「むしろ自分は被害者なんだ」と周囲に触れ回っている暇があったら、そのあいだにわたしは、彼らが目を向けないようなところまで視線を配り、なるべくたくさんのものたちに手を差し伸べようと思いました。そうしてハラスメントとはまったく別の人権運動や、動物のための工場畜産反対の運動にも深く関わりました。それは、「文学」への失望の反動でもあったと思いますが、そうやって次元をずらすことで、視野のせまい彼らのことを、高みへ至ったわたしは見下ろしていると感じたかったのだと思います。「わたしよりもっと大変な目にあっている存在はたくさんいるのだ」と自分に言い聞かせ、毎日あちこちへと走り回ることで、わたしは自分自身の傷と向き合うという作業をあとまわしにしていました。

 そうやって日々、他の運動にも参加するなかで、わたしはハラスメントの運動をやる際にも、あくまで自分のことを「当事者」といい、「被害者」という呼び名を使わないよう気をつけていました。

 また、以前のわたしはフェミニズムの議論を聞くたびに、「いまどき女とか男とかどうでもよくない?」と冷ややかに聞き流していました。わたしは性自認があやふやで、一応自分を「女」と認めてはいるものの、性別なんか別にどうでもいいと思っていました。小さい頃から母や祖母に、女であるというだけで兄と区別され、どこかにでかけてもわたしだけ迎えにこられたり、外泊を禁止されることにうんざりしていました。しょっちゅう痴漢を心配されたり、露出を気にされることにうんざりしていました。大学のときに一人で海外に旅行にいくことになったときには、禁止されることはなかったものの、「レイプされそうになったときは相手にこれを渡しなさい」と祖母からコンドームを渡されました。そういうことのすべてにうんざりしていました。

 わたしは「被害者」が嫌いでした。

 2019年のはじめ、活動の一貫で、大学におけるハラスメントの男性被害者たちと顔を合わせることとなりました。わたしの当時の協力者は、遅刻癖のひどい男で、わたしとの打ち合わせのときには当たり前のように遅刻したりそのまますっぽかしたりしていましたが、珍しくその日は5分前に来ていました。彼にとって、今日会う男性被害者たちよりもわたしは雑に扱っていい相手だったのかと思うと少しイラッとしました。それから双方、簡単に自己紹介しあい、本題に入りました。互いの情報交換をする場になるとわたしは思っていたのですが、彼らは自分たちの話を主にしていて、あまりこちらの話を聞きたいという様子はありませんでした。わたしたちは彼らの話に耳を傾けました。途中、加害者の描写がおかしくてわたしが笑ったら、協力者から「彼らは被害者なんだからさ」とたしなめられました。普段わたしには気を遣わないわりに彼らに対してはやけに細やかに気を遣うんだなと引っかかりましたが、内輪で揉めてもしょうがないので、「わたしも一応被害者なんですけど?」という言葉は胸にしまいました。

 ひととおり話を聞き終わると、わたしの協力者は「彼らのために慰労会をやろう」と提案し、そのままみんなで居酒屋にいきました。わたしは協力者からも誰からも一度も「慰労会」などしてもらったことはなかったので、いったいなんでわたしが彼らを「慰労」しなきゃいけないんだ?と内心ムカつきましたが、表には出さず振舞いました。彼らは初対面のわたしにも隠すことなく弱音を吐き出していました。会計は年上のわたしたちが多く出すことになりました。わたしは金もないしケチなのであまり気が進みませんでしたが、ここで嫌がっても大人気ないと思い、表情を変えずにお金を出しました。

 みんなと別れ、最終の電車で最寄駅に着くと雨が降っていて、いつもなら自転車で帰る家までの道を、とぼとぼ歩いて帰りました。深夜1時過ぎ、人通りはまったくありませんでした。わたしはヒールのブーツを履いていて、爪先が雨に濡れて冷えました。なんだか悲しい気分だったので、ヘッドホンをして音楽を聴きました。5分ほど無人の大通りを歩いていくと、左側のフェンスの前に男が立っていてぎょっとしました。立ちションをしているようだったので、急いで目を逸らしましたが、一瞬目が合ってしまい、まずいなと思いました。男はわたしの方へ歩いてきました。傘のなかをのぞきこんできました。男は小柄で、端正な顔をしており、ジャージを着ていました。男はわたしに何か話しかけてきているようでしたが、わたしはヘッドホンを外さず聞こえないフリをしました。男はそのままついてきました。ナンパだったら無視していればそのうちついてこなくなります。でも男はわたしの肩に手を回してきました。これはやばい、と思いました。ヘッドホンを外すと、「ちょっとだけでいいから」という声が聞こえました。見ると男は下半身を出していました。わたしは腕を払いのけ走りだしました。

 一番近くにあった建物の自動ドアを拳で叩きました。不動産屋のようでした。電気はついておらず、誰もいないようでした。ガラスを叩いて割ったら防犯アラームが鳴って誰か気づくかもしれないなどと考えていると、視界の端で男が反対側の小道に走って逃げるのが見えました。とにかく人のいるところへいかなきゃ。わたしはコンビニへ向かいました。傘もささず、走ってよろけながら、スマホで警察に電話をかけました。

 コンビニのなかで、あがった息を抑えていると、まもなく警察がやってきました。最近、似たような被害が相次いでいて、ちょうどパトロールしていたところだったそうです。聞き取りは詳細になされました。終始丁寧な対応でした。車で家まで送ってもらいました。でも、最終的な解決策は、「女の子がこんな遅い時間に歩いていちゃだめだよ」「ヘッドホンをして歩いちゃ危ないよ」というものでした。

 わたしはそのとき、その男に対しても警察に対しても協力者に対しても腹が立ちましたが、でも何より、他の「被害者」を憎みました。平気で人前で弱音を吐けることが羨ましかった。他にも仲間がいるのに、協力してくれている教員もいるのに、いったいこれ以上なんの不満があるんだろう?と思いました。彼らは男だから、その日わたしがあったような目にあうこともあまりないでしょう。今頃わたしがこんな目にあっているなどと想像もしてないでしょう。わたしは口では「いまどき女とか男とか関係なくない?」と言いながらも、男であるという特権を持っているにもかかわらず弱さをさらけ出せる彼らに嫉妬しました。ヒールの靴で、爪先立ちで、かろうじてバランスを保っているこのわたしに、弱音を吐いてくる彼らが許し難かった。

 それから約一年間、わたしはハラスメントの運動をやめ、それに関わる人間関係を断ちました。

 

 

 現在、わたしは別の協力者たちに支えられながら、基本的に一人で団体を運営しています。普段は各々活動していて、必要なときに助けを呼びかけ、ときどき手伝ってもらうという形をとっています。彼女たち/彼らは遅刻もすっぽかしもしないし、連絡を無視もしないし、互いに意見を聞き合うし、何よりわたしが「被害者」であるということを理解してくれています。

 そのおかげで、わたしは以前より、愚痴も弱音も気軽に吐けるようになりました。そうすることによって、他の被害者が愚痴を吐いていても腹が立たなくなったし、お互い支え合っていきましょうと協力しあえるようになりました。人が弱さをさらけ出しているのを見ると、わたしも出していいんだな、と思えるようになりました。そうやって、少しずつ、「被害者」という存在の仕方を許せるようになり、自分自身も「被害者」であるという事実を受け入れられるようになってきました。

 とはいえ、「わたしの方が大変な目にあってるんだけど」とか「それをわたしに言うか?」という気持ちがまったくないかといえば、嘘になります。でも、そういう気持ちが出てきたときは、「ああ、今わたしは羨ましく思ってるんだな」と自分の感情になるべく早く気づけるようになってはきています。そういう感情が出てくるときは、大抵「無理をしすぎ」のサインなので、その場から離れたり、負担を減らすようにしています。

「被害者である」と名乗ることには危険性がともなうと思います。「被害者vs加害者」という単純な二元論に陥ってしまうのではないかという不安もあります。それでも、まずは被害者として自分を認め、自分の中の痛みを引き受けること、それなしには前に進むことはできないと思うのです。だからわたしは今では「被害者」であると、ちゃんと名乗るようにしています。

 よく、「もっと強くなれたらいいのにな」と思います。何が起こっても、誰に何を言われても、動じないだけのメンタルがほしい。ときどき、変わることのない加害者たちが羨ましくなることもあります。いちいち取り乱してしまう自分、感情があふれてしまう自分に嫌気がさすこともあります。

 でも、自分自身に泣くことを許していない人は、他人が泣くことを許せないから。自分自身が弱音を吐くことを受け入れらない人は、他人が弱音を吐くのも許せないから。

 わたしはわたしのすべての感情を受け入れていきたいと思っています。

 

 

 去る3月、わたしは自分にとって娘のような存在であった犬を失いました。突然死でした。持病があったため去年から闘病し、病院に通い続けていましたが、持病とは関係なく、おそらく脳の問題で、何の前触れもなく亡くなりました。10歳2ヶ月でした。

 その日、わたしは犬とリビングのカーペットに寝転んで昼寝をしていました。あたたかくなりかけてきた3月の日曜日の気持ちの良い午後でした。家族が外から帰ってきて、犬はいつものように出迎えるために立ち上がり、廊下を軽い足取りで歩いていきました。30センチほど開けてあるドアの隙間を、ひょいとくぐりぬけていくのがお決まりだったのですが、大きなお尻がひっかからないかわたしは毎回心配で、ちゃんと通れたか見届けていたものでした。 

 そろそろ散歩の時間かと思いつつも、起き上がる気になれずにごろごろしていると、家族がわたしの名前を呼びました。いったい何だろうと玄関に見に行くと、犬が倒れていました。失禁していました。わたしは悲鳴をあげ、駆け寄りました。動いていませんでした。わたしは急いで動物病院に電話をしました。すぐにきてくださいと言われました。わたしたちはいったん犬を廊下に移し、急いで支度しました。持ち上げた時、犬の体はぐにゃりとして、力が入っていませんでした。犬の胸に手を当てましたが、動いていませんでした。口の前に手を当てても、呼吸をしていませんでした。でも、わたしは彼女がもう死んでいるかもしれないという疑問を口に出してしまったら、本当にそうなってしまうような気がして、前足を握りながら、大丈夫だよ、と呼びかけました。すでに足は冷たくなっていました。 

 わたしと家族は犬を車に乗せ、ボンネットとリアに初心者マークを貼り、急いでキーを回しました。わたしは犬をつれて旅行にいきたくて、去年免許をとったばかりでした。後ろの席で家族は、犬を抱き抱えながら、彼女に聞かせるように歌を歌っていました。赤信号になるたびに、わたしは振り返って犬の足を握りました。大丈夫だよ、と語りかけました。でもその肉球は触るごとに冷たく固くなっていくようでした。 

 動物病院の駐車場に車を止め、座席から降り、横たわる犬を抱きかかえようとしましたが、わたしも家族も手足が震えてしまって、14キロある彼女の体を持ち上げることができませんでした。わたしは病院に駆け込み、受付の方に状況を伝えようとしましたが、涙が出てくるばかりで、何と言ったらいいのかわかりませんでした。わたしの口からやっと出てきた言葉は、「生きてるかわからない」でした。急いで看護師の方が出てきて、車まできて、犬を抱き抱えて、走って病院に運びこみました。中では院長やスタッフの方たちがすでに機材の準備をしていて、犬を診察台の上に置くと、チューブをつなぎ、心臓マッサージがはじまりました。クリップが留められた舌は、紫がかった白色になり、だらんと横に垂れていました。院長が犬の心臓を押すたびに、わたしは、動け、動け、と祈りました。今まで当たり前のこととして見過ごしていたけれど、動くということはすごいことなのだと思いました。彼女が呼吸していたのは奇跡みたいなものなんだなと思いました。頼むからもう一度動いて欲しい。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら、わたしは彼女の胸を見つめ、心の中で祈り続けました。

 10分か15分くらい経ちました。院長がわたしと家族の方にやってきて、たぶんこれ以上続けても戻ることはないけれどどうしますか? といいました。わたしのポケットは右も左も濡れたティッシュでいっぱいでした。わたしは犬のお腹に手を置いて、もう大丈夫です、と告げました。彼女の目は半開きのまま、遠くを見ているようでした。

 

 

 毎朝、わたしは雨戸を開け、歯を磨き、それから祈ります。

 線香をあげ、おりんを鳴らし、手を合わせます。

 そうやって一日をはじめます。

 

 

 わたしは、これから裁判所に長文の陳述書を提出しなければならないという負担からただでさえ鬱になっていたおりに、突然犬を失ったことによって、自分の魂が半分持っていかれたように力が抜けてしまいました。

 彼女の存在なしに、これからの戦いを持ち堪えられる気がしませんでした。

 座っている気力もなく、毎日ただ横になっていました。

 裁判の作業のために、自分のやりたいことにいつまでも復帰できなくて、すでに費やしてしまった何年もの時間のことを思うと、途方もなく虚しくなりました。

 事件から5年もたったのに、加害者たちの主張は何ひとつ変わらず、わたしがしてきたことに意味はあったのだろうかと、わからなくなりました。

 いろんな方向から二次加害を受け続けて、言い返す気力もなくなりました。

 大学という姿の見えない大きな組織相手に、裁判という戦いを続けていると、自分にはなんの力も価値もないような気がしてきました。

 ニュースをみるたびに、とてつもない暴力の存在を目にし、押しつぶされそうになりました。

 これまでの人生で、あまりにもいろいろなものを失いすぎて、これからも生き続ける意味はあるんだろうかと、どんどん深みへ迷い込んでいくような気持ちになります。

 

 

 わたしはその問いにいまだ答えを見つけられないでいるけれど、

 でも毎日なんとか生きています。

 地面を這いつくばって生きています。

 心臓が動いている限り、わたしも生き続けなくちゃいけないのだと思っています。

 

 

 おりんの音が鳴り響いている間は、犬と繋がっているような気がします。

 一緒に寝転がりながら、彼女に触れていたときの、あたたかくてやわらかな感触を思い出します。

 そこにはたしかに「よきもの」があったのだという記憶を思い起こさせてくれます。

 わたしはその記憶を絶やさぬよう、なんとか守っていきたいと願っています。

 

 

 今回、わたしにとって、とても重要な文章を書きあげる機会をくださった、『生活の批評誌』編集長の依田那美紀さん、わたしの小さな声を拾い上げてくれて本当にありがとうございました。

 それから、いつも力を貸してくださっている川口晴美さんと協力者の方々、たった一人で代理人を引き受けてくださっている山本裕夫弁護士、苦しいときに必ず助けてくれる友人たち、そして日々を支えてくれている家族に、深く感謝します。

 

 

 

+大学のハラスメントを看過しない会 公式HP

 

詩「静かな場所を求めて彷徨う」をOrcinus Orca Pressに寄稿しました。

 

新作の詩「静かな場所を求めて彷徨う」を、Orcinus Orca Pressに寄稿しました。

セブンイレブンのプリントでお気軽に発行できまーす。

3月25日より、プリント予約番号をUBRYEB58に更新しました。

期限は4月1日いっぱい。

 

わたしが書かせていただいたのは、Los Poems Diariosという、詩やエッセイ・短編・翻訳などのシリーズ#6。「毎日の詩」「日々の詩」という意味だそうで。洗濯バサミの写真がいい感じ。

Orcinus Orca Pressは、大学院のときの先輩で、翻訳家の川野太郎さんが主催されている自主出版レーベル。太郎さんにはわたしの愛娘(クラシックギター)を5年くらい預けっぱなしでしたが、この前すっかり大きくなってわたしの家へ帰ってきました。

 

わたしもプリントアウトして製本やってみました。手で何か創るのって楽しい〜!

ついでにこれを機にInstagramもはじめてみました。

いろいろ不安や悲しみのたまる日々ですが、みなさんもぜひ気分転換にちょっくらセブンイレブン行って、気軽に製本してみてくださいね。ちゃお。 

 

  

 

メイと

 

 

晩ご飯をあげたら忙しい

わたしが戸締りしているとメイは

はやくはやく、といってくるから

ちょっと待って、といって

コートを着る

ここのところだいぶ日が長くなってきたから

手袋とマフラーは必要ないみたい

置きに戻ってから鍵を閉める

玄関の段差をおりるとメイは

リードを噛んで引っ張って頭を振りまくる

通りを掃除していたお肉屋さんのおばさんが元気ねぇと笑う

前に黒い雑種を飼っていたけれど油粕を食べて死んでしまったらしい

公園まで走って競争

どうやら今日は悪い方の爺はいなさそうだ

メイが草むらでおしっこをする

トイプードルのトリオがいなくなってからリードを離して

わたしたちはわたしたちだけの鬼ごっこをする

茶と白と黒の長い毛がとび跳ねる

でもすぐにメイの注意はそれて

ベンチのまわりに散らばっているポテトチップスを漁りはじめるから

捕まえてリードをつけて

公園の外に引っ張っていく

 

右手では太陽が傾いて

雲が淡いピンクに色づいている

チワワのおじさんと近況報告し

新興住宅が並ぶ閑静な通り

なぜかいつもメイはここの車道の真ん中の線を歩きたがる

だめだってそこは、といっても

ここじゃなきゃやだ、というから

まあ誰もいないしいいか、とわたしたちは真ん中をゆく

まもなく車の音が聞こえてきて

わたしが歩道に戻ろうとすると

メイがうんこをしようとするから

急いで脇へ引っ張っていく

黒のベンツが唸って走り過ぎる

 

わたしがまだ幼稚園の頃から

しぶとく残っている畑の脇を

もくもくと歩く

空の比重が少しずつ

赤から青へと変わっていく

わたしがこの街に戻ってきた数年前は

メイは肥満で大の散歩嫌いで

五分も歩いたら車道に寝転がって抵抗していた

わたしもこの街や人やこの街にこびりついた記憶が嫌いで

日が沈んでからしか散歩には行かなかった

でもいまやメイは標準体重となって

自ら散歩をねだるようになり

わたしも嫌なものからできるだけ逃れる技を覚えた

前までメイは

知ってる道しか歩こうとしなかったけど

だんだん知らない道を進んでいくようになった

前までわたしは

片耳にイアホンをして英語を聴きながら歩いてたけど

最近それをやめてみて

この街で見ても空はきれいなんだということに気づいた

 

夕陽が落ちていく交差点

三階建てのマンションがオレンジ色に染まり

良い子のチャイムが流れる

小学生の頃じゅんちゃんと一緒に

よくいたずらして怒られてた市民センターの前を過ぎ

青信号

爆音のバイクを追いかけようとするメイを制し

道を曲がる

新聞屋さんが一日の終わりの作業をしている

大小さまざまの植木の並べられた

良いお爺さん家のとなり

猫のたまり場になってるアパート

わたしは毎日しゃがんで声をかけるのだけど

メイがいるからみんななかなか近づいてくれない

軽トラの下にいる三毛猫に向かって

わたしがゆっくり瞬きしていると

メイは甲高い声で文句をいう

わたしは名残惜しくて何度も振り返る

メイがわたしを引っ張っていく

 

遅くなった足取り

家の前にきたから

なかに入ろうとするがメイは頑なに動かない

しょうがないから

のろのろと

公園に戻る

サッカーをしている子たち

きっとあきらくんたちだろう

昔はメイも混ぜて遊んでもらってたのだけれど

彼らの学年が上がるにつれて混ぜてもらえる時間も減っていって

彼らが中学校に入ってからは

メイは端っこで見ているだけになっていった

向こうのブランコにまたがった女の子たちが笑い転げている

伏せをしたメイのお尻がわたしのふくらはぎに当たる

あたたかな呼吸

雲が静かに流れ

電線を通り抜けてゆく

電柱がなければもっときれいなのにと思うけど

でも空にたわんだ黒い線が架かるのも

案外悪くないのかもしれない

街が濃い青色に沈んでゆく

あの色はなんという名前なんだろう

きっと昨日とはまた違う色

記憶に留めておきたくてわたしはじっと見つめる

 

どこからか玉ねぎを炒めるにおい

いつまでもボールを目で追っているから

そろそろ帰ろっか、という

どちらともなく立ち上がる

 

メイが玄関の段差をのぼっていく

わたしもそのあとをのぼっていく

 

 

 

 

 

お知らせ 『ほんのひとさじvol.17』に寄稿しました

 

書肆侃侃房から出ている、KanKanPress『ほんのひとさじvol.17』に、新作「ひび」を寄稿しました。

特集は「あける」ですが、わたしはあけてません。割れた鏡って捨てるのめんどくさいんですよね。粗大ゴミなのか危険物なのかわかんないし。そんな全国共通のゴミの分別のお悩みにお答えしました。

全国の書店にて、テイクフリーですのでぜひぜひ。

 くまちゃん・・・

忘れられた「卵」への眼差し——Veganism:ヴィーガニズムについて

 

「Veganism:ヴィーガニズム」とは、動物への暴力に加担することを避け、動物を搾取することなく生きようとする考え方をいう。日本では「完全菜食主義」と訳されているが、正確には、動物の肉・乳・卵ほか、搾取と屠殺の産物である羊毛や皮革、毛皮などの購入・消費をしないことも含む。

その考え方はいまだ微力ではあるものの徐々に日本にも浸透してきて、わたし自身もヴィーガンであるということを最初の頃より周囲から受け入れられやすくなったと感じる。環境問題への意識が高まり、肉食と地球温暖化とに相関関係があるという事実が敷衍してきていることもあるからだろうか。身近なコンビニやチェーン店でも少しずつ大豆ミートや野菜を代替としたメニューが増えてきたし、最近だとお笑い芸人の中田敦彦もYoutube大学で紹介していて、ずいぶん状況が変わったなあと感心した。あいかわらず「Vegaphobia:ヴィーガフォビア(ヴィーガンを嫌悪する人たち)」の嘲笑は聞こえてくるが、一般的な人たちの間では「ヴィーガン=過激派」のようなイメージは以前より薄れてきたのではないかと思う。

 

わたしは数年前に肉を食べるのをやめた。厳密に言うならば「肉食をボイコットした」という表現の方が正しい。もともと肉を食べるという習慣自体に反対していたわけではなかったし、それまでは普通に動物性のものも食べていた。しかしネットで動物たちに関する記事が目に入ってくるようになるにつれ、わたしたちが「肉を食べる」というときに想起するあの牧歌的な「牛さん豚さん鶏さん」のイメージと、現在のわたしたちに消費されている動物の現状がいかにかけ離れているかを知ったのだった。それまで特売の肉のパックを何ら疑問なく買っていたわたしは、自分がその工業型畜産の暴力に無意識のうちに加担しているのだという事実に愕然とした。「これほど非人間的で非合理的な苦痛を動物に与えなくてはいけないのなら、この状況が改善するまでわたしは肉を食べなくていい」。それがわたしの肉食ボイコットのはじまりだった。

「高く硬い壁と、その壁にぶつかって砕ける卵があれば、わたしは常に卵の側に立つ」(*2)。その価値観は、実のところすでに多くの人が共有しているのではないかと思う。弱いものの味方でありたい。きっと誰だってそう思っているだろう。でも本当に問題なのは、どこに壁があってどこに卵があるのか、何が壁で何が卵なのか、自分が卵側なのか壁側なのか、その境界は得てして不明瞭で、そこに卵がいるという事実そのものが忘れられてしまっているということではないか。

肉を食べるのをやめて食のありかたを学んでいくうちに、わたしはしだいに魚介も食べるのもやめ、大好きだったチーズや牛乳を摂るのもやめ、動物性の素材を使った服や動物実験をしている恐れがある化粧品を使うのもやめ、いつのまにかすっかりヴィーガンになっていた。制約が多く禁欲的だといわれるヴィーガンになってみて感じるのは、意外にも自分がかつてないほど「ほっとしている」ことだ。それは健康状態が著しく改善して「ヴィーガン=不健康」という先入観を身をもって崩すことができたからだけでなく、つまるところ、大きなシステムに身を委ね見て見ぬふりをする罪悪感から解放され、自分で自分を損なわないですむようになったことが大きい。

「これでようやく安心してきみたちを見ていられる。ぼくはもう、きみたちを食べたりしないからね」。ベルリン水族館の照明の当たった水槽を見つめていたフランツ・カフカは、目の前を泳ぐ魚に突如として話しかけたという(*1)。このときカフカは厳格なベジタリアンとなった。カフカにとって魚とは忘れられた「卵」のひとつだったのだろう。

ヴィーガニズムを実践しようとすると、自分が口にするものすべての原材料をいちいち確認しなければならない。めんどくさく思えるかもしれない。たしかに相当めんどくさい。しかし、誰かを気遣うという行為は、そもそもめんどくさいものなのだ。自分が毎日何を食べているのかを確認するということは、自分がいったい何に加担しているのか、自分が何を傷つけているのか、自分が何の犠牲の上に生きているのかをミクロの単位から見つめ直し、自分の加害に責任をもつということである。悲鳴をあげる「卵」たちの声というのは、その存在にこちらから近づいていかないかぎりわたしたちの耳に聞こえてくることはない。

壁の前で押しつぶされそうになっているものたちすべてに手を差し伸べることは不可能だと思う。それでも手を差し伸べるか差し伸べないかの選択は、あくまでわたしたちの意思に委ねられている。ヴィーガンにならなくともできることはたくさんある。使っている卵を平飼いの卵にしてみる、肉の代わりに大豆ミートにしてみる、牛乳の代わりに植物性のミルクを使ってみる、クリスマスにチキンを食べない、週1日肉を食べない日を設ける(*3)、正しい知識を学ぶ。まずはそこからはじめてみてほしい。

 

認定NPO法人アニマルライツセンター

 

*1 ジョナサン・サフラン・フォア著、黒川由美訳『イーティング・アニマル——アメリカ工場式畜産の難題(ジレンマ)』より参照。ちなみに水族館も本当はアウト。水槽に動物を監禁することは、ストレス、病気、死亡という大きな代償を伴う。

*2 2009年エルサレム賞受賞時村上春樹のスピーチより試訳。

*3 「Meet Free Monday」。ポール・マッカートニーが地球環境保護などの目的で「月曜日は肉食をやめよう」と提唱しているキャンペーン。

ささやかに日常を彩る——イスマル・ラーグ監督『クロワッサンで朝食を』(2012年) (原題『Une Estonienne à Paris(パリのエストニア人女性)』)

 自分にとって大切な、かけがえのない人であるはずなのに、その人の寝顔を眺めながら、「どうかこのまま死んで欲しい」と願ってしまう。介護というものが人々にとって等しく辛いものであるのは、物理的や肉体的な負担と同じくらい、自分の心の奥底に渦巻く黒い感情と向き合うことを余儀なくさせられる精神的な負担も大きいからなのだろう。すっかり無力になってしまった姿、ぼけて別人になってしまった姿を見るたびに、かつての元気な姿を、かつてそこにあったはずの存在を、わたしたちは否応なしに想起してしまう。こんな姿を見るくらいならこのまま死んでくれたほうがいいと、ふと思ってしまってから、そんな風に思ってしまった自分のことを恥ずかしく感じる。あれだけお世話になったのに、自分を育ててくれた人なのに、安易に死を願うなんて自分はなんと恩知らずなのだろう、と。そして何も感じないように心の彩度を下げてから、その人が息をしているのを確認して、色彩を欠いた繰り返しの生活をまた続ける。

 

 エストニアの田舎町に住む中年女性アンヌは一人で認知症の母の世話をしている。アンヌの介護を支えるものはいない。娘と息子は遠くに住んでおり、12年前に離婚した元夫は酒飲みで未だにアンヌにつきまとい、彼女も彼を見殺しにはできず縁が切れないでいる。

 母の誕生日の夜、街でケーキを買ってきたアンヌはバスから降りたところで元夫に絡まれる。酔っ払って雪の積もった車道に寝転がってしまった彼を立たせ、腕を組んで支えて家に連れていったところが、玄関で無理やり犯されそうになる。なんとか彼を払いのけて階段をかけ上り部屋に入ろうとするものの、騒動に怯えてしまった母はドアに鍵をかけてアンヌを入れてくれない。怖がる母は目に涙をためて言う。「あんたは誰? 私の娘はティーナよ」。ろくでなしと結婚してしまったアンヌに失望した母は彼女をもはや娘として覚えていないのだ。そんな母をアンヌは優しく説得し、「ケーキを焼くわ」と抱きしめる。これが彼女の日常だ。疲れ切って感情を抑圧しているアンヌの顔は人生を諦めているかのように無表情で、実用一辺倒のくすんだ色の服が彼女をより老けさせている。

 ある夜、母の傍らで寝ていたアンヌは水を飲みにキッチンに立ったが、戻って母の寝息を確かめると呼吸していないことに気づく。母の手が硬くなっているのを確認し、ベッドに座り込んだアンヌの顔には、悲しみの表情も安堵の表情もはっきりとは読み取ることができない。

 母の葬儀の後、がらんどうのようになっていたアンヌの元に、以前所属していた介護の職場から仕事の依頼が舞い込む。パリに住むエストニア出身の老婦人の世話係だ。娘に電話して相談し、ぜひ引き受けるべきだと言われたアンヌは、重い記憶を捨てていくかのようにスーツケースに必要な荷物だけをまとめてパリに旅立つ。ささやかな期待を胸に夜の空港に降り立ったアンヌだが、雇い主である中年紳士ステファンと合流して車に乗るとそんな明るい気持ちもすぐにしぼんでしまう。パリに来るのが夢で学生時代には熱心にフランス語を学んだとアンヌが語っても、ステファンは考え事をしているようでろくに聞いていないからだ。アンヌは口をつぐみ、暗い窓の外を眺める。高級アパルトマンに着くとステファンは簡単に仕事の説明をし、寝室で寝ている老婦人に聞こえないようにアンヌにそっと告げる。老婦人のフリーダは「辛辣な皮肉屋」だが、振り回されないように、と。

 アンヌはステファンのそのセリフの意味をすぐに知ることになる。フリーダはただの「病弱で孤独なエストニア女」ではなく、母語であるエストニア語を決して話さない誇り高きパリジェンヌなのだ。朝食にスーパーで買ってきたクロワッサンを見て「プラスチックを食べろと?」と嫌味を言われ、お茶をわざとこぼされ、「家政婦なんかいらない」とさっそく解雇を言い渡されるアンヌ。困った彼女はすぐ近くでカフェを経営しているステファンの元へ行って助けを求めるが、今まですでに何人もの家政婦が同じ目に遭っているのを見ている彼は必死にアンヌを説得する。彼はフリーダの家へアンヌを再び連れて帰る。ステファンの姿を見たフリーダは表情を変え、彼に甘えて腕を組み、家政婦ではなくてステファンに面倒を見てもらいたいと駄々をこねる。アンヌはフリーダの態度を見て、それまで彼らを親子のような間柄と思っていたがどうやら違うらしいことに感づく。案の定、ステファンに訊ねれば、彼はフリーダのかつての愛人なのだという。フリーダはエストニア出身だが人生のほとんどをパリで過ごしていて故郷には縁がなく、夫亡きあとも裕福な暮らしをしてはいるものの、子供もおらず天涯孤独の身なのだ。わがままで気まぐれなフリーダには友達もおらず、カフェの仕事で忙しいステファン自身も今ではフリーダをもてあましており、かといって以前睡眠薬を飲んで自殺を図られたことがあったのでほっとくわけにもいかず、家政婦としてアンヌが雇われた。今や彼女にはステファンとアンヌしかいない、というわけだ。

 一度は国に帰ろうとしたアンヌだが、ステファンの再三の説得を断れず、また、故郷に帰るのも嫌だったのだろう。アンヌは辛抱強くフリーダの要求に応じ、次第に信頼を得るようになる。そしてフリーダというパリに住む一人のエストニア人女性の生き方を知ろうとし、彼女の語る昔の男たちの話に耳を傾け、夜になるとこっそり書斎の写真や新聞記事の切り抜きを見て彼女の過去を想像する。たしかにフリーダは辛辣な皮肉屋ではあるが、まだ若い頃たった一人でパリにやってきて生き抜いた自由な価値観を持った女性なのだ。フリーダの生き様は年齢にもエストニアの伝統にも縛られていない。いくつになっても自分が女性であることを忘れず、来客がなくても化粧をしてシャネルのスーツに袖を通し、ベッドに寝る時は片側に寄って隣に男のためのスペースを空けておき、暇な時間には必ず本を読む。アンヌはそうした自分のスタイルを確立しているフリーダの生活や、毎晩仕事が終わったあと密かに楽しんでいた夜のパリのウィンドウショッピングから、今まで知ることのなかった新しい空気を徐々に肌に吸収していく。

 一方、アンヌが故郷で母を亡くしたばかりだということを聞いたフリーダも、孤独なアンヌにかつての自分の姿を重ねたのか、少しずつではあるがアンヌに心を開き、自分を大事にする生き方を教える。出かけることなく家の中に引きこもって寝る時も自分の体を自分で抱きしめるように強く腕を組んでいたフリーダの心は、アンヌの存在によって次第にほぐれてゆき、二人の関係性はお互いにドアの隙間から相手を盗み見るようなよそよそしいものから、向かい合いで座って爪にマニキュアを塗ってあげる/もらうような距離に近づいていく。

 ある日フリーダは、まだパリ見物をしていないというアンヌに、二人でおしゃれをしてステファンのカフェに行こうと提案する。フリーダにとっては久々の外出だ。アンヌはどれにしようかとベッドに服を並べて、赤いトップスを選び、鏡を見ながら口紅を塗る。フリーダはアンヌの仕上がりをチェックし、普段着のダウンではなく自分のバーバリーのトレンチコートを着せて、グリーンのストールを後ろ向きに巻いてやる。パリの晴れた街並みを二人で腕を組んで女子学生のように服やセックスの話をしながら歩くシーンは、冒頭のエストニアでアンヌが酔いつぶれた元夫の腕を持って雪道を歩いていたシーンとまるで対極にあり、「とてもきれいよ」とフリーダに褒められたアンヌの顔には笑顔がこぼれている。

 ところが、アンヌとフリーダの良好になった関係性を図らずも壊してしまうのは意外なことにステファンだ。ステファンのカフェに到着した二人は当然大いに歓迎されるのを期待していたが、彼は紳士的に対応するものの「僕にも人生がある。悪いが、君を中心には回らない」とフリーダに告げてさっさと店の奥に戻ってしまう。ステファンにとってフリーダは、かけがえのない存在であると同時に疎ましくもある「早く死んで欲しい」存在なのだ。ショックを受けて帰ったフリーダは寝込んで食べることもやめてしまい、心配したアンヌはステファンに「あなたにとって彼女は死人なのね」と言って怒る。それは彼女がかつて自分の母に対し密かに抱いていた感情であるが、そう思うことを自分に対して禁じていた彼女はステファンのあからさまな態度を受け入れられない。ステファンは言う。「確かに彼女を愛したし、カフェも持たせてもらった。だが、店のせいで一生束縛されなきゃならないのか?」

 落ち込んだフリーダを励まそうとアンヌは一人思案して、フリーダのかつての友人であるパリに住むエストニア人たちを家に連れてくるが、アンヌのせっかくの努力は裏目に出てしまう。フリーダは彼らを招かれざる客だと言い、友人たちも「50年前、妻のいる男と寝ただけ」のフリーダを「エストニアの魂を失った」と批判する。逆上したフリーダは客人たちを追い返し、アンヌに対しても余計なお節介をしたと怒り、「どうせあんたは一生、エストニアの田舎者よ」「母親の代役はごめんよ」と毒舌を撒き散らす。言われたアンヌも堪忍袋の尾が切れ、「あなたがこんなに孤独なのは自分のせいよ。死にたいなら窓から飛び降りれば?」と捨て台詞をはき、荷物をまとめてフリーダの家を出ていく。

 アパルトマンを飛び出てアンヌが向かったのはステファンの元だった。彼はカフェの2階の個室にいて、アンヌはノックをして彼の部屋に入っていく。ネクタイを外して休んでいたステファンは彼女を優しく招き入れて言う。「この間、君の言ったことは正しい。僕は彼女の死を待ってる」。アンヌは答える。「分かるわ。私も母の死を待ってた」。大切な人の死を望むという、心の奥底にしまってなるべく見ないようにしていた感情を二人は告白し合い、互いの重荷を理解し、そうすることによって自分を許し合う。言葉を発するごとに距離が縮まり、背景に映る窓枠の中に二人の姿が小さく収まって、柔らかで親密な光が二人をまるごと許すように包むこの場面は、作品を通して最も優しい瞬間だ。

 よく見ていると、さりげなくステファンはたびたび隠れて酒を口にしているのだが、彼はわたしたちにアンヌの酒乱の元夫を彷彿とさせる存在でありながら、両者は確実に違う存在であることがここで強調される。待っててと言ったにもかかわらず元夫に無理やりドアを押し開けられたエストニアでのシーンに対し、ここではアンヌからステファンの部屋に赴いて招き入れられ、部屋に入ってもアンヌが自分でドアを閉める。アンヌの意思を無視して思い通りにしようとしていた元夫の姿は、今ではアンヌを一人の独立した女性として尊重するステファンによって置き換えられているのであり、そしてアンヌ自身ももう、娘に電話する癖からいつのまにか脱し、フリーダの暴言にもはっきり言い返すことで自分自身を粗末に扱わず、他人にも粗末に扱わせない女性と変化しているのだ。

 それまでは随所でアンヌが乗り物に乗っている姿が映されていた。冒頭のバスに揺られながら窓の外の景色を虚ろに眺める姿からはじまり、パリに着いて飛行機から意気揚々と降りたったにも関わらずその後すぐステファンの運転する車の助手席で気まずそうに黙ってしまう姿、フリーダに家を追い出されてパリを散歩している最中に乗った地下鉄でうっかり降り損ねてしまった姿。バスでも車でも地下鉄でも、アンヌはなんとなく心細そうな、居心地悪そうな表情を浮かべていて、その姿はどこにいても彼女が異邦人でしかないかのような、自分の家ですら鍵をかけて締め出されてしまって、どこにもあたたかく受け入れてもらえる場所のない、いつも他人に振り回されてきた彼女の人生そのものを表しているかのようだった。

 ステファンの部屋を出たあとに映されるのは、行き先の決まった乗り物に不安げに揺られているところではなく、アンヌが自分の足で歩いている姿だ。膝の見えるワンピースを着て、ストラップのついた高いヒールの靴のままスーツケースを片手にパリの街を颯爽と歩く彼女は、すれ違う男性が振り返るほど魅力的で、いくら彼女が「国へ帰る」つもりでいても、いまや彼女の存在はすっかりパリに馴染んでしまっていることが見ているわたしたちにとって明らかだ。しかしだからといってアンヌは第二のフリーダとなっているのではない。パリ見物の途中でアンヌは、以前フリーダに褒められたヒールの靴を脱いで、エストニアから持ってきたブーツに履き替え、黒いコートの上にいつものフード付きダウンを着て、エッフェル塔を見上げながら熱々のクロワッサンを頬張る。フリーダにパリの影響を与えてもらいながらも、アンナはエストニア人としての自分を保ち続けている。それは同じ金髪の移民であると同時に、エストニアを否定するフリーダとはまた違った、アンヌならではの「パリのエストニア人女性」としての生き方だ。

 一晩パリの街を満喫したアンヌはフリーダの元へ最後の挨拶をしにいく。アンヌを失ってしまったのではないかと落ち込んでいたフリーダは、彼女が戻ってきたものだと安堵し、当初は「ここは私の家」と言い張っていた自分のアパルトマンに「ここはあなたの家よ」と言って迎え入れる。そこには感動のキスもハグもない。ただドアを開けて、名前を呼んで、優しく部屋に受け入れるだけだ。アンヌは帰ってきたわけじゃないと言おうとして、奥の部屋へと戻っていくフリーダの後ろ姿をじっと見つめて、改めて、自分が本当はどこにいたいのかを悟る。

 

 まだアンヌがパリにやってきたばかりの頃、以前自殺未遂をしたのはステファンが原因かとフリーダに直接訊ねる場面がある。彼がこんなに尽くしているのはあなたを愛しているからなのに、と。それに対し、フリーダは「そんなに単純じゃないの」とだけ答える。この映画ではフリーダの死んだ夫のことも故郷の母や兄のことも、アンヌの姉妹や二人の子供のことも、ステファンの元恋人のことも、一瞬だけ語られることはあっても詳しく説明されることはない。わたしたちはどれだけ言葉を費やしたところで他人の人生や内面を完璧に知ることなど不可能で、わたしたちにできることといえば、その人の写真や私物を見て勝手に過去を想像することくらいのものだ。だがそれほど複雑で、決して理解しえないからこそ、わたしたちはある人の一部分を憎みながら、ある部分を愛するということが可能になる。その人の死を願ってしまうほど疎ましく思うと同時に、その人を愛おしく思うことは必ずしも矛盾しない。

 アンヌがフリーダの元に戻ってきたからといって根本的には何一つ解決してなどいない。きっとフリーダは死ぬまでわがままな「怪物」であり続け、アンヌとステファンは怪物の寝息を確かめ続けるのだろう。けれども朝食をいつもの決まりきったものからまったく新しいメニューに変えてみたり、あるいはちょっと近くのカフェに行くのに、いつも着ていたコートを脱いでそれまで着てみたことのないダウンに腕を通してみたりするだけで、わたしたちは諦めに満ちた日常をわずかに彩ることができる。自分を許すとは、そんなささやかな逸脱からはじまるのだ。