詩と批評のあいだⅣ これからの恐怖にむけて——ブライアン・エヴンソン『遁走状態』『ウインドアイ』(柴田元幸訳)

Ⅳ これからの恐怖にむけて——ブライアン・エヴンソン『遁走状態』『ウインドアイ』(柴田元幸訳)       

  

 何日か続いて思い出せない日があって、それが何日間なのかはどうしてもわからなかったが、とにかくそれらの日々、自分は昏睡状態に陥って床に倒れ、妻だろうと思ったがもはやそれも定かではない女性の隣に横たわって目から出血していたにちがいない、ととりあえず推測した。そしてそういう日々の前の日々も、やはり思い出せなかった。何とか目を開けて、自分の周りの世界が、五感で十分感知できる速さで動いていると感じたとき、女性は、彼女が誰であれ、もう死んでいた。かくして最初の、どんどん崩壊しつつある記憶は、女性の隣に横たわって、その痩せこけた顔に、すぼまって犬歯の先を覗かせている唇に、見入っている記憶だった。
 この女は誰だろう? と考えた。
 そして俺は、いったい俺は誰だろう?         
                                  ——「遁走状態」

  

 名前をもたないものにせよ、名前をもたされているものにせよ、たとえ名前をもっていたとしてもそれが正しいものだという確証はまったくないのだが、とにかくここ、二つの短編集のなかに収められ、描かれている彼らは、自分の置かれている今ある閉ざされた状況、それは多かれ少なかれ陰惨で、暴力がどっぷりと満ち、物語がはじまったときにはすでに取り返しのつかなくなってしまっている状況を、自分でもはっきりと把握することができない。彼らは我々に、彼らの限られた視野から見えるか聞こえるかする情報を語りながら、自分の置かれている立場というものを、たどたどしく手探りでたしかめていこうとする——なぜ目の前の人物は両方の眼窩から血をどくどくと流しているのか、なぜ自分は血まみれの仔馬たちの死骸の中に立っているのか、なぜ父は頭をオレンジ色のビニールのメッシュにくるんで撚り糸できっちり縛っているのか——といったことを。それはひょっとすると、子供たちが肝試しにやるような、壁板のうしろがわのみえない暗闇に指を滑りこませて、そこにじっとひそんでいるものを手でたしかめながら質問に答えていくような遊びに似ているのかもしれない。それってつるつるしてるかい? それともざらざら? うろこみたい? 血は冷たいかい、温かいかい? 赤い感じ? かぎ爪が出てる感じ、引っ込んでる感じ? 目が動くのがわかるかい?

 しかしながら彼らが認識のために用いようとする身体は、彼らに従属するものとしてではなく、むしろ彼らと齟齬をきたすものとしてあるのである。ある男は、自分が片腕を失ったことを自覚していて、その喪失が現実であることを一瞬たりとも疑いはしない。ところが、切断面に目をやると、腕がまだそこにあることを男は見てとる。また別の男は、痛みを感じていたとしても、医者のようなものたちからは、あなたがいま痛みをかんじることはありえないと断定される。あるいは、声が出た確信があっても、出てくるのはささやき声だけ。あるいは、周囲の音が次第に遅れて届くようになる。あるいは、パントマイム師がつくりだした存在しない箱に毎晩圧迫される、等々。

 そしてまた、彼らがそれだけを頼りに語ろうとすがりついている言葉も、彼らが求めるがままには応じてはくれない。常に他人との会話はちぐはぐ、双方向の関係はなりたたないのであって、正しいと思えること、自分では納得できることを言っても、誰も本当にわかってはくれない。他人は自分とは別の世界に住んでいるみたいな、もしくは、こっちが水の中から話しているみたいな感じにさせるだけなのだ。言葉は頼れるものではなく、彼らをさらなる混乱へと陥れるものとしてあるようにみえる。それは他人との関係だけとは限らない。言葉は独立した、まるで邪悪な意志をもった存在であるかのように、ときに彼らに執拗にとりつき、ときに勝手に口から滑り出て単語同士を勝手に入れ替える。彼らはもはや言葉というもの、自分の口から出てくる言葉に、呑まれ、信用することができなくなっていく。

 だが語ること以外に彼らにいったいどんな術がある? 語ることでしか彼らは自分の置かれている位置を認識すること——正確にいえば、認識に至ろうともがく不毛な試み——ができないのだ。すでにして人生の把握を失っている彼らは、慎重に、ゆっくりと、その信用ならない言葉をぎこちなく使いながら、自分に問いかけること——どうなっているんだ?——を繰り返し、考え、思考し、出来合いの言葉で目の前にある絶望的な現実を語る。彼らはいくつもの可能性のあいだを、どちらにせよ悲惨にはかわりない選択肢のあいだを、どっちつかずのままゆらゆらと歩いていく。妹は消えてしまったのか、それともはじめからいなかったのか? なぜ自分は支配されているのか、この支配から逃れられるのか? そもそも誰に支配されているのか? 誰が、ではなく何が、なのか? どうやって始まったのか? いつ始まったのか? そもそも始まっていないのか? 現実だったのか? 自分が現実だと信じ込んでいるだけなのか? こうやって語っている自分はまともなのか? 自分はもう壊れてしまっているのではないか? 
 困難は何が現実で何が現実でないかを知ろうとする際に生じる。彼らはよろよろと歩いていって、新たにドアを開けて、また別の部屋が現れるたびに、自分という人間の蝶番がまた少し外れていくのが、自分がまた少し狂っていくように感じる。けれども彼らには前に進む以外の選択肢はない。話はどこにもたどりつかない。だとしても、彼らは少しでも語ることで、自分たちにいったい何が起こったのかを把握しようとし、そうすることで、かろうじて希望を得ようとするのだ。彼らは曖昧な現実を曖昧なままに伝え、我々は曖昧なままに受け取ることになる。

 あるいは、現実に我々が立たされている世界、根源的な世界というのは、まさに彼らが置かれているような状況ではないだろうか。生まれたときからすでに世界は壊れていて、とりかえしがつかない状況からはじまり、気づけば見えない蟻地獄から抜け出せないでいる。我々は声のする方に向かって、聞こえるとおりに従っていこうとするが、価値判断は流動的、声のいうことは数秒ごとにうつりかわり、その声が確かなものか、誰が発したものなのか、本当に聞こえているのかどうかも確信できず、そしてもはや我々は自分が何を感じているのかさえわからないのだ。嬉しいのか? 楽しいのか? 悲しいのか? 怒っているのか? 自分で感じていることを感じとることは不可能で、いいたいことはわからないために、いうべきことだけをいうしかない。我々は靄のかかったまま世界を生き、頼りにできるものはなにひとつない、というのも現実そのものが確固たるものではないからだ。
 我々にとっての恐怖は、いまやアッシャー家のような、おどろおどろしい舞台を必要とすることはないのだろう。フランケンシュタインの怪物のような異形のものでもなく、幽霊でもなく、人間の顔をした蝿でもなく、自分の奥底にひそむハイド氏でもないのであって、それは明確なかたちをもった恐怖ではなく、そこには明らかな因果関係もない。我々が対峙しているのは現実ですらない。認識そのものなのだ。それをなにか認識することができないということ自体への恐怖、わからない、ということへの恐怖。だがそれこそが、恐怖というものこそが、そもそも根源的な世界であったのであり、我々はいまや、確かなものなどどこにもない、という事実と直接戦わなければならないのだ。

 けれど、そんなことを声を大にしていったとして、いったい何になる? せいぜい、じきに絶望して首をくくるか、誰彼構わず惨殺する破目になるかではないか。最悪の場合、いまある以上にわからないことを増やしてしまうことになるだろう。本当にこの事態から無事抜け出すという可能性、本当に一度だけでも明確な認識を得るという可能性は、我々自身からみても、一番確率が低そうに思える。だから、我々はここで語るのをやめておこう。我々に向かって語っている彼らをそのままにしておいて、一歩二歩うしろに下がろう。それからそっと寝室にいって、明かりを消し、暖かなベッドにもぐりこもう。そうして、闇のなかで誰かがせかせか寝返りを打つ音が聞こえようとも、夜が更けてゆくにつれやりきれなさげなうめき声が漏れてこようとも、我々としてはにっこり笑うことにしよう、そして我々自身に嘘をつくことにしよう、そうとも、もう何もかも大丈夫だ、そう、シーッ、そう、我々は眠りについたのだ。  

  

詩と批評のあいだⅡ 浮気者のための恋愛論 ———ジュノ・ディアス『こうしてお前は彼女にフラれる』(都甲幸治・久保尚美訳)

Ⅱ 浮気者のための恋愛論———ジュノ・ディアス『こうしてお前は彼女にフラれる』(都甲幸治・久保尚美訳)
  
                                                 

  

 ユニオール、お前にはアルマという名前の彼女がいて、その長くしなやかな首は馬みたいで、大きなドミニカ風の尻はジーンズを越えた四次元にあるようだ。月を起動から外しちまうほどの尻。お前に会うまで、彼女自身はずっと嫌いだった尻だ。お前がその尻に顔を埋めたいとか、その細くなめらかな首筋を噛みたいとか思わない日はない。お前が噛んだとき彼女が震える感じや、彼女が両腕でお前に抵抗する感じが好きだ。彼女がいなければ、お前は永遠に童貞を捨てられなかったかもしれない。お前は友人の男どもに自慢する。彼女は他の誰よりたくさんレコードを持ってるし、セックスのとき白人の女の子みたいなすごいこと言うんだ。素晴らしい! でもそれは、六月のある日に、ラクシュミって名前の一年生のきれいな女の子ともお前がやってることにアルマが気づくまでの話だが。
 ある時はまた、お前にはフラカという彼女がいる。黒い細身のワンピースを着て、メキシコのサンダルを履いてて、よくお前にくっついて本屋にいく。お前と同じくらい長く本屋にいても平気な娘は、お前が人生で出会った中でも彼女しかいない。インテリ女だ。少なくとも彼女は誠実だったけど、お前もそうだったとは言えない。二ヶ月も経たないうちに、お前は他の娘と付き合い始めることになる。シャワーで自分のパンティを洗う娘で、髪は小さな拳が集まった海みたいに波打ってる娘だ。それからフラカとの喧嘩が延々と続いたが、それでも彼女はお前と一緒にもう一度スプルース・ラン貯水湖に行く。夜、彼女はお前のベッドに入ってきて、互いの腕の中で眠る。けれども次の朝、彼女は行ってしまっている。ベッドにも家の中のどこにも、彼女がいたという徴は残っていない。
 お前は言う。おれは悪い奴じゃない。おれだって他のみんなと同じだ。弱いし、間違いも多いが、基本的にはいい奴なんだ。でもマグダレナはお前のことをそうは思わないだろう。彼女はお前のことを道徳心のないクソ野郎だと思ってる。たとえお前が、八〇年代風のものすごく大きな髪型をした女の子と浮気するという愚行をやめてからもう何ヶ月も経っていたとしても。
 ユニオール、お前はいつまでも懲りなくて、しょうもない浮気を繰り返し、彼女たちにバレ続ける。そして彼女たちはお前の元を次々に去っていき、お前は置いてかれる度に落ち込でしまう。ひどいときなんか、お前は鬱に完璧にやられてしまって、分子一つ一つがゆっくりとペンチで引き剥がされていくような感じだ。彼女たちは言う。じゃあ浮気なんかしなけりゃいいのに。その通りだ。だがそんなことを言われるまでもなく、お前は悔い改めようとしているのだが、その決意は長続きしない。お前はまた違う女の子に手をだす。それでも一度限りの出来事にできるとお前は思う。しかし次の日にはまた浮気相手の家に直行してしまう。
 それは呪いなのよ、と彼女たちは言う。あなたに流れる血が、あなたの運命を決めてしまっているのよ。お前は思う。そうだ、確かにもしおれが誰か別の人だったら、こうしたすべてを避ける自制心も働いたかもしれない。でもお前はあの父親の息子だし、あの兄貴の弟だ。お前の父親も兄貴もひどい男だった。まったく、父親はよく女に会うのにお前を連れて行った。車にお前を残して、部屋まで駆け上がっていき、愛人たちとやるのだ。そして結局父親はお前たちを捨てて二十五歳の女のもとへ走ってしまった。兄貴だってそれよりましとは言えなかった。お前の隣のベッドで女の子たちとやるんだから。最悪のたぐいのひどい男たちで、今やお前もその一人だと認定された。遺伝子が自分を避けてくれるように、一世代飛ばしてくれるようにとお前は望んできたが、単に自分を欺いていただけだとはっきりした。結局、血からは逃れられないもんだね、お前は言う。
 いや、違うわよ。彼女たちは言う。そんなの都合のいい言い訳でしかないじゃない。あなたは悔しいんでしょ? あなたはお兄さんに勝とうとしてるんでしょ? お前は黙って考える。もしかしたらそうかもしれない。思い返してみれば、ミス・ロラとのことだって、兄貴のことがなかったらしただろうか? 他の野郎どもはひどく嫌ってたあのミス・ロラ——すごく痩せてて、尻もおっぱいもなくて、まるで棒みたいだった。でもそんなこと兄貴は気にしなかった。あの女とヤりたいぜ。兄貴は言った。兄貴は生涯を通じて、ものすごい美男子で、学校でも白人の女の子たちさえ、やたらと筋肉のある兄貴に憧れてた。おまけに昔から色男で、すぐさま尻軽女たちを捕まえては、母ちゃんが家にいようがいまいが地下の部屋にこっそり連れこんだ。父親が出て行ってから恋人もつくらなかった母ちゃんは、ただ兄貴一人を完璧に甘やかし続けた。兄貴が父親の代わりみたいなもんだった。兄貴が癌だってことがわかる前から、母ちゃんはいつも百パーセント兄貴の肩を持っていた。もしある日、兄貴が家に帰ってきて、ねえ母ちゃん、人類の半分を皆殺しにしちまった、なんて言っても、母ちゃんは野郎をこう言ってかばうに違いない。そうね、あんた、もともと地球は人口過剰だったからね。
 お前は自分に問いかける。おれは兄貴がうらやましかったのか? おれは兄貴になりたいと思っているのか? 兄貴がいなかったらこんなことやらなかったんだろうか? 
 お前は誰からもちゃんと愛されたことがなかった。父親には捨てられて、母ちゃんには空気のように扱われ、近所の連中からはいつも兄貴と比べられていた。でも兄貴がいなくなってから、女の子たちはお前に注目し始めた。お前はかっこよくはなかったけど、相手の話をちゃんと聞いたし、腕にはボクシングの筋肉がついてた。お前は兄貴のように女の子を家に連れこむことはしなかったし、彼女たちの髪の毛をつかんでひきずりまわしたりなんてことはしなかったけど、どんなに素敵な彼女がいるときでも、浮気することはやめられなかった。いつも別の女と寝ようとした。そうやってお前は兄貴と同じ場所にいけると思ってたのかもしれない。女の子たちはお前の顔をじろじろと見る。ねえ、本当にお兄さんに似てるのね。みんなにいつも言われるでしょ。
 ときどきね。
 お前はだんだん兄貴になっているのか? だとしたら、これは素晴らしいことのはずだ。
 だったらなんでお前の夢はどんどん悪くなっていくのか? 朝、洗面台に吐き出す血が増えていくのはなぜなのか?
 ユニオール、お前は彼女たちにフラれたことを繰り返し語る。十七歳の時、十九歳の時、大学生の頃、もっと大人になってから、いろんな時代、場所、いろんな女の子、お前の恋愛は実にさまざまだ。けれど、結局お前の話はどこにも行き着いちゃいない。お前は太陽のまわりを回る月みたいに一つの点の周辺をぐるぐると語っているだけだ。一つの点、一つの空白。そう、お前は兄貴の死についてはこれっぽっちも語ろうとしない。お前はあくまでおどけながら浮気話を語るだけで、兄貴の死に正面からぶつからない。そんなお前のことを心配してミス・ロラはいつもお前に兄貴の話をさせようとした。そうしたら楽になるから、彼女は言う。
 お前は言う。言うことなんてある? 癌になって、死んだ。
 お前は逃避してた。ひたすらセックスをして。心が傷つくことなんて何も起きてないふりをするために。浮気することで逃げていた。お前は自分のしてることにものすごく怯えてた。でもそれに興奮してもいたし、世界の中であまり孤独を感じずにすんでた。誰とも親密になりすぎないように、いつだって女を掛け持ちして、浮気することで向き合うべきものから逃げてた。そしてお前はあえてバレるようなドジを踏んで、何度もフラれて、またかと思わせるほどしつこくさも悲しげに語ってた。そうすればお前は兄貴の死のまわりをぐるぐると回るだけですむから。
 けれど、お前はそうすることによって本当は兄貴の死を繰り返しているんだとしたら? 浮気をしてフラれることで兄貴の死を延々と再現しつづけているのだとしたら? お前は兄貴の死をなんどもなんども反復して自分自身を破壊しているのだとしたら?
 お前は浮気をするからフラれるんじゃなくて、フラれるために浮気をしているんだ。

 そしてまたお前は手に負えないほどひどい浮気者だってのに、ゴミ箱に捨てた電子メールを消しさえしなかったから、新しい彼女(まあ実際には婚約者だが、でもそれはそんなに重要なことじゃない)は浮気相手を五十人も見つけてしまう! そうさ、六年間にってことではあるけど、それでもね。五十人の女の子とだって? まったくもう。もしお前が婚約したのが素晴らしく心の広い白人女性だったら、お前も何とかやり過ごせたかもしれない——でもお前が婚約したのは素晴らしく心の広い白人女性なんかじゃない。お前の今度の彼女はサルセド出身のやっかいな女で、広いナントカなんて何一つ信じてない。実際、彼女がお前に警告し、絶対に許さないと断言してたのは浮気だった。あんたにナタを打ち込んでやるから、彼女は言い切った。そしてもちろん、そんなことしないとお前は誓った。お前は誓った。お前は誓った。
 彼女は玄関前の階段でお前を待ってて、お前は彼女のサターンを停めながら、彼女が仁王立ちしているのに気づく。そのとき、絞首台の落下口を太った盗賊が落ちていくように、心臓がお前の体の中を落ちていく。お前はエンジンをゆっくりと切る。大海のような悲しみに圧倒される。バレたことの悲しみに、彼女が決して許してくれないだろうとわかった悲しみに。お前は信じられないほど素晴らしい彼女の脚を眺める。そしてその間にある、もっと信じられないほど素晴らしいオマンコのあたりを眺める。
 こうしてお前は彼女にフラれる度に、兄貴に死なれる。

  

詩と批評のあいだⅠ悲しき妄想 ———ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』(岸本佐知子訳)

Ⅰ 悲しき妄想 ———ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』(岸本佐知子訳)

 
 
 ミランダ・ジュライが膨らませる妄想は、風船のように檻の間を抜けて高く高く昇ってゆく。そしていつのまにか膨らみすぎたそれは、ふとした他人との軋轢で弾け、落下し、ゆっくりと沈んでゆく。死にゆくクジラのように。

***

 ここにいるわたしたちはみんなちょっぴり変だ。変だ、っていうと語弊があるかもしれないから、わたしたちはみんな閉じ込められているって言った方がいいのかも。例えばわたしは自宅の周りの世界に閉じ込められていて、二十七歩進んだところで足が止まる。家から出られないわけではないから、広場恐怖症ではなくて、恐怖はいつも家を出て二十七歩め、ちょうどネズの木のあたりで襲ってくる。ほかにもいろいろ。別のわたしは子供の頃から、同じ夢を繰り返し見る。いわゆる反復夢と呼ばれるやつ。その夢のなかでは何もかもが崩れ去って、わたしは下敷きになっている。がれきに埋もれて窒息する夢。それで地元のNPO団体に勤めて近所の地震防災グループを引率してるわけだけど、もうずっと恋人なんかいなくて、ときどき電話をかけてくる妹には電話ごしに性的虐待を受けていて、でも妹から性的虐待というのも変だから、何か他に言葉があるのだろう。セックスレスみたいな現代人ならでは的な閉じ込められ方をしているわたしもいる。わたしは、夜、ベッドで彼氏の横に寝て、自分のあそこに信号を送ってみるけれど、まるでケーブルに加入していないテレビでケーブル・チャンネルを観ようとしているみたいな気分になる。だからセックスの代わりにときどき”おっぱい飲み“をする。”おっぱい飲み“というのは仏教とか色へのこだわりと似たようなものでもあり、全然ちがうことのようでもある。というより、おっぱい飲みはそういうのとはそもそもカテゴリーがちがう。他にそのカテゴリーに属しているものとしては、
 わたしたちの中の言葉にならない、理由のよくわからない怒り。
それと——
 自分には”次の段階“というものがあって、そこへ行かなければならないという感じ。

 わたしたちは朝、目をさますと、あああたし/俺、この世界にひとりぼっちで生きてるんだと思い出して、そのたびに愕然となる。そうしたらなんだかもう急に死んじゃいそうな気分になって、目を固くつぶって、息を吸うのをやめて、バスタブにもぐりこむ。わたしたちはものすごく長い時間水の中にもぐっていられるけど、それはバスタブの中だけのこと。オリンピックの種目に、お風呂のお湯の中で息を長く止める競技ってないのかな、と思う。もしそんな競技があれば、わたしたちはきっとメダルを取れるだろう。オリンピックでメダルを取れば、わたしたちが知っているすべての人たちがわたしたちのことを見直してくれるかもしれない。たとえば家族カウンセリングを受けてた時、わたしがひそかに恋していたカウンセラーのエド。彼は掛け値なしにすばらしかった。前はわたしの話なんてちっとも聞いてくれなかったけど、メダルさえ取ればちゃんと話をきいてくれるようになるかもしれない。エドはわたしに言う。君の話が聞きたいんだ。わたしはひとりで話して話して話したおすだろう。話し終わるとエドが言う、まったくきみは天才だ、それに比べて他の連中はみんなアンポンタンだよ。そして彼は、前からずっと君のことが好きだったと言い、彼がわたしの服を脱がせてわたしも彼の服を脱がせて、そうして二人は末永くしっかりと抱き合うかもしれない。エドだけじゃない。ウィリアムだって愛してくれるかも。英国王室のウィリアム王子。もしも太陽系の地図のようなものがあって、星の一つひとつが人間で、人と人との距離を表しているとしたら、わたしの星からいちばん遠く離れた着くのに何光年かかるかわからない彼方にある星がウィリアムだ。
 作戦1および2。わたしはまずパブにいく。あちらではバーのことをそう呼ぶのだ。わたしはカウンターに腰かけ、飲み物を注文し、それから”糸を巻き“はじめる。”糸を巻く“というのは、両手にかけた糸を巻きとるみたいに、聞いている人々をぐいぐい引き込んでいくような、そんなお話をすること。わたしは話術でカウンター中の人たちを引き込んでいく。あるところまでいくとわたしは言う、「そこでわたしはもう一度ドアをノックしてこう叫んだの——」するとカウンター中の人たちが声を合わせて言う。「入れてください! 入れてください!」そうすればきっと、友達やボディガードと一緒にきていたウィリアム王子が何の騒ぎだろうと気になりだすにちがいない。彼はいぶかしげな笑みを浮かべて、わたしの方に近づいてくる。それでもわたしは話し続ける。糸を巻く手を休めない。二人の距離はどんどん近くなってくる。そしてわたしの前に進み出たウィリアムは、周囲の声に合わせ、国民を代表して、わたしの胸に、地元のNPO団体に勤めて近所の地震防災グループを引率してる46歳の女の胸にむかっていうだろう。「入れてください、入れてください!」。
 嬉しくて天にも昇る気持ちだ。喜びの塊が膨らみすぎてむちゃくちゃに暴れだしたいような気分。わたしたちは昔からこういうとき変なことをよくやった。たとえばわたしはドアに鍵をかけ、鏡に向かって発作みたいに奇っ怪な動作をつぎつぎやり、自分に向かって狂ったように手を振って、顔をゆがめてブキミで不細工な表情を作る。それはワタシというものの突然の大噴火だ。科学的な用語で言うところの〈最初で最後の打ち上げ花火〉というやつ。カシオのキーボードでF♯と真ん中のCのキーを押しながらイエスと叫んで、わたしたちは人間の枠からはみ出してしまいそうになる。わたしたちの体はぐんぐん上昇して木々を突き抜け、雲の中に入り、宇宙に飛び出して天の川を二つに切り裂き、星も塵も突っ切る。今までなんでこんな簡単なことを怖がっていたんだろう。こんなふうにどんどん想像に空気をいれていけば、世界ってこんなに軽くって、檻から打ち上げられて宙に浮くことができるのに。豚だって空を飛べちゃうかも。いや、豚はちょっと言いすぎた。でも、たとえばそこにプールなんかなくたって、わたしという存在がいるだけできっときっとアパートの床に水があふれてきて、すっごい年よりのエリザベスとケルダとジャックジャックにバタフライまで教えて、立派な水泳コーチにだってなれるのだ。
 人はみんな、人を好きにならないことにあまりに慣れすぎている。だからちょっとした手助けが必要だけど、粘土の表面に筋をつけて、他の粘土がくっつきやすくするみたいにすれば、ずっとずっと誰かに知ってもらいたかったことを話せる友だちが近くにできるかもしれない。わたしは子供の頃から、プロの歌手と友だちになりたいと思っていた。ジャズ・シンガーとか。ジャズ・シンガーで、運転が荒っぽいけどすごく上手、みたいな。本当はそんな親友がほしかった。それか、わたしのことが大好きで尊敬してくれる友だち。今の友だちはみんなわたしのことをウザいと思ってる。わたしたちが人からウザがられる要因は、おもに三つある。

 留守電を折り返さない。
 謙遜のしかたが嘘くさい。
 右の二つのことを異常に気にしすぎるあまり、一緒にいる人たちを不快な気分にさせる。

 自分を包んでいるウザさのオーラを取り払って、一からやり直したら、ソーイングクラス初級コースの教室で、わたしが後ろの席からそのふわふわの頭を見つめてたエレンだって、急に振り返って、わたしに向かって指を開いて手を差し出してくれるだろう。そうしてわたしはその手をつかんで、朝出る前にキッチンは片付けたけど机の周りだけわざとちょっと乱雑にしておいた自分のアパートに連れてきて、グラスに濃縮還元のオレンジジュースを注いで、そこに本物のオレンジジュースを丸ごと一個入れるという裏技を披露するだろう。彼女が目を丸くして感心したら、暮らしの知恵よ、なんていうつまんない謙遜を言うのはやめて、きっときっとわたしは、あなたがここにいてくれるから人生は楽しいの、あなたがいなくなってしまったら、またしんどい人生に戻ってしまうの、と素直に言えるだろう。そしてまるでお誕生日みたいな一日を過ごして、二人の初めての誕生日、プレゼントは自分たちで、わたしとあなたはそれを何度も何度も開けてはしゃぐだろう。互いの靴をはきっこしてわたしの靴は彼女ののほとんど倍ちかくあって、でもそれもいい感じで、靴だけでなく、足も、体の他のいろんな部分も、何もかもサイズがまるでちがう。脚と脚をくっつけると、それもまた信じられないくらいに大きさが違っていて、わたしたちの好奇心はバラみたいに花開き、もっともっと知りたくなるだろう。お互いの不可知な部分を何もかも、わたしたちはどれほど似ているか、どれほどちがっているのか、本当にちがうんだろうか、もしかしたら誰もちがってなんかいないんじゃないか。稲妻をひらめかせ、暗い海の底に光を届かせ、そしてもう一つの世界を、そこに息づいているこの世のものとは思えない色や模様をした何億という生命の形を、ほんの一瞬でも見ることができるだろう。わたしたちはお腹とお腹を合わせ、唇と唇を合わせ、それもやっぱりちがう大きさで、そして何よりあたたかくって、わたしたちは動きを止め、見つめあうだろう。
 けれど、目と目を見つめあうのはとてつもなく危険なことだ。人はどれくらい長いあいだ人を見つめていられるものだろう。いつかは筆をインク壺に戻してインクを足すように、また自分のことを考えなければならなくなる。わたしたちは結局ばらばらの他人なんだ。わたしたちは普段、道行く人々がわたしの車のことをどう思っているかなんて考えてるけど、でも誰もわたしたちの車なんか見ていない。みんな自分の内側を見つめている。誰もが自分や自分の車のことを考え、自分の忙しさと睦み合っているだけだ。どっちみち誰も自分のこと以外には大して関心がないのだ。みんな、相手が自分や自分の知っている誰かを殺そうとしていないかどうかだけ確かめて、そうでないとわかるとまた自分の話に戻ってしまう——自分との関係でついに殻を破れそうな気がするとか何とか。この世界には人間の数だけの物語が存在していて、わたしなんて他の人の物語においては脇役でしかなく、それと同じで、他人なんてわたしたちの物語においては脇役でしかないんだから。
 見つめあっていたわたしたちは、どちらからともなく目をそらす。それからまた一瞬、わたしは彼女を見、彼女がわたしを見る。のがれようのない現実が、急に目の前にあらわになる。あれほど恋い焦がれた彼女だって、長い目で見ればわたしの人生においてべつに特別な存在じゃないんじゃないか、という気がしてくる。そこいらの娘。ウィリアムだって、もといた何光年先の星に戻っていくかもしれない。わたしたちは自分の物語から出ていくことも、相手を変えることもできないのだ。イエス(F♯)、イエス(真ん中のC)。だからわたしたちは、手の届く範囲にいる相手を適当にこしらえて、レストランに連れて行ってもらっても、横目でもっと若いかわいい男の子を眺めながら、わざと味にケチをつけて、わざと期待を一から十まで裏切るようなことをして、誰かに何かをしてあげながらその誰かを傷つけてやろうとする。わたしたちみんなが、何も必要としない何かになれたらいいのに。
 かくしてわたしとエレンはだんだん多くを語らなくなる。くっつきあっていた体を離し、うっかり転んだだけ、とでもいうようにお尻をぽんぽんと手ではらう。彼女はわたしの家を出て行き、わたしたちの大前提が足元で揺らぎはじめて、頭の中では、逃げて、という叫び声がする。でもだめだ。世界がなだれを打って崩れおちてくる。電気をつけると、目に見えない何かがあとかたもなく消え去って、後にはただ、埃だらけの、百万年くらい掃除してなさそうなリノリウムの床があらわになる。ジャックジャックたちが腕をばんばん叩きつけて泳いでいたそこはプールなんかじゃなくて、空高く打ち上げられた豚は落ちたままどこにも姿が見えなくって、英国の王子はテレビの向こう側でクールなスーツを着て映ってる。ウィリアム。ウィリアムって誰? エレンって誰だっけ?
 空想は膨らみすぎて宙で破裂して、フルートの音が急降下するみたいに百年分落下して、その無様な残骸を目にしたわたしたちは、鳴り止まない留守番電話を聞きながら、クロスをつかんでその場でテレビを拭きはじめる。オレンジジュースを飲みすぎたみたいな感じがする。ジュースの酸で、胃が、胃だけでなく体じゅうが、ぼろぼろに溶けてしまいそうで、座ったままじっと動かなくなる。動くと人間の形が崩れて、中から空気が洩れ出しそうだったから。でもわたしたちはいてもいられないくらい悲しくなって、ふいに膝の力が抜けて、床にへたりこみ、英語で泣き、フランス語で泣き、あらゆる言語で泣く。涙は世界共通の言語、エスペラントだから。

 顔を洗って、バスルームのバスタブの中にお湯を入れて、わたしはその中にもぐりこむ。そこは粉っぽくて、暖かくしんとしている。わたしはものすごく長い時間水の中にもぐっていられるけど、それはバスタブの中だけのこと。オリンピックの種目に、お風呂のお湯の中で息を長く止める競技ってないんだろうか、と思う。もしそんな競技があれば、わたしはきっとメダルを取れるだろう。オリンピックでメダルを取れば、わたしが知っているすべての人たちがわたしを見直してくれるかもしれない。でも、お風呂のお湯の中で息を長く止める競技なんてオリンピックの種目にはないから、わたしはメダルもとれないし、見直しもなし。あと十五分スタンバってても、何も起こらなかったら、わたしはバスルームのドアを開け、諦めて独りぼっちの現実に帰ろうと思う。ネズの木までの二十七歩の狭い狭い現実に。あと十五分。わたしの体から少しずつ空気が漏れでている。頭がふうっと軽くなり、わたしは自分の体が溶けるイメージを思い描く。わたしはゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、バスタブの底に沈んでゆく。十四分。クジラは死ぬと、まる一日かけて海の底に沈んでゆくらしい。他の魚たちが見守るなかを、巨大な像のように、ビルのように、でもゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと。十三分。わたしは意識を集中し、その奥にある本物のクジラに、死にゆくクジラに、思いを届かせようとする。そしてささやく、あなたは悪くない。十二分。意識の奥、夢の底、何もかも崩れ去った世界で、わたしはがれきの下敷きになって、待ち受ける死に向かって少しずつ沈んでゆく。十一分。わたしはがれきの下を這いつくばりながら、突然思い出す。この苦しみ、この死、これがあたりまえのことなのだと。これが生きるということなのだ。人生とはこんなふうに壊れたもので、他のことを期待するほうがどうかしていたのだ、と。
 最後の八分。わたしはそのドアを見つめている。食い入るように。救いをもとめるように。息を一つするごとに、時計が一分進むごとに、今にも何かが開きそうだった。一。二。三。四。五。六。七。八。

冷凍された物語——ケナス・ロナーガン監督『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(2016年)

 毎日ニュースや新聞ではおびただしい数の犯罪や事故や災害の報道がされていて、確実に当事者というのは存在しているはずなのに、都市に住むわたしたちは道を歩いて人々とすれ違うときその当事者たちの顔を見つけることはできない。もちろん彼らが胸に「犯人」とか「被害者」とか「遺族」とかいう名札をつけているわけでもなく、同じアパートのとなりの部屋に誰が住んでいるのかも知らないようなこの時代に、聞かれもしないのに自分から過去のことを語るわけもない。

 事故が起きれば人々は現場に群がり、驚きや怒りや悲しみの声を上げる。けれどひとしきり感情を発散させたあと、人々はまた自分の生活へと戻ってゆく。いつまでも他人のことを気にかける暇などわたしたちにはないのだ。十分に消費されつくして味がなくなり、「もうあなたたちの出番は終わり」と、視野の外に追いやられてぽつんと取り残された当事者の前には、ただ苦しみを乗り越えるための長い日常という道が延々とつづいている。

 その関係はまるで映画と観客そのもののようにも思える。その人の人生で一番味の濃い部分だけを切り取り、「物語」の形に整えて、観客の目の前に差し出して消費させる。それが映画という娯楽の孕む構造であるならば、ケナス・ロナーガン監督は、人々に忘れ去られたあとも確実に血を流し続けている当事者たちの存在にまなざしを向けることによって、映画の構造そのものを揺り動かそうとする。2000年の初監督作品『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』では幼い頃に両親を交通事故で失った傷をいまだに引きずる姉弟を、続いての2011年『マーガレット』では、自分のちょっとした過ちから老女を事故で死なせてしまった記憶から逃れられずに逡巡する女子高生の姿が描かれていた。

 そして本作『マンチェスター・バイ・ザ・シー』では、ある事故の後、誰に対しても心を一切開くことなく凍らせたまま生きている青年、リー・チャンドラーが主人公だ。

 

 

 ボストンで便利屋をしているリー・チャンドラーは、アパートの住人たちの要望に応じ、トイレのつまりだとか配管の水漏れだとかを修理している。愛想がなくいつも無表情で、喧嘩っ早くて挨拶もしないのでクレームも多いが、腕がいいので管理人からは往往にして許されている。

 リーは雪に覆われた半地下の質素な部屋に一人暮らしをしていて、誰に対しても、何に対しても、自分の中に踏み込ませないように壁をつくっている。仕事終わりに行ったバーでは、隣にいた若い女に話しかけられても拒絶し、自分のことをチラチラと見ていた男の客たちには言いがかりをつけて殴りつける。便利屋の客たちに言われるがままソファやらダンボールやら何から何まで次々とゴミ箱に捨てていく姿は、自分が手にしているものがなんであろうが大した違いはなく、何もかもを捨ててしまおうとしている彼の生き方そのもののようにもみえる。

 いつも通り淡々と雪かきの仕事をしていたリーのもとに、ある日一本の電話がかかってくる。故郷の港町マンチェスター・バイ・ザ・シーに住む兄ジョーが心臓発作で倒れたという知らせだった。特に驚くこともなく車で故郷へと向かい、病院で予想通りジョーの死を告げられたリーだが、ジョーの遺言の内容を知らされて激しい動揺を隠せなくなる。ジョーは、遺された一人息子パトリックの後見人としてリーを指名し、故郷に帰って一緒に暮らすようにと記していたのだった。呆然とするリーの脳裏には、ずっと凍らせていた記憶が否応なく蘇ってくる。妻と3人の幼い子供たち。散らかってはいるが暖かな部屋。仲間達と深夜遅くまで騒いでいたビリヤード。子供達のために薪木をくべてやった暖炉。立て忘れた暖炉のスクリーン。酒を買いにいこうと出かけた夜の道。戻ってきたら燃え上がっていた自宅。泣き叫びながら子供達を助けに行こうとしている妻。彼女を止める消防隊員。そして一部始終をただ見ているしかできなかった無力な自分。

 あまりにも重すぎる過去の匂いが充満しているこの街に戻って住むことなど到底できないと思うリーは、パトリックの後見人になってほしいという兄の遺言を受け入れることができない。リーはかつて自分の犯してしまった過ちを警察や法律が罰しなかった代わりに、自らボストンの牢獄のような柵のついた部屋にこもっていまだに自分で自分を罰し続けているのだ。便利屋として他人の家を直すことはできてもリーは自分の壊れた心を直すことができずにいる。死んだ兄はそんな風にいつまでも心を閉じたままのリーを心配し、故郷に戻ることで立ち直ってほしいと思ったのだろうが、リーの心はかたくなにこの街の記憶を拒絶し、仕方なくパトリックと暮らし始めてからも、街に面した部屋の窓を不意に殴り割ったりする。まるで自分に後ろ指を指すこの街そのものを破壊するかのように。

 そんなリーと対極にある存在として描かれるのが甥っ子のパトリックだ。アイスホッケーの選手として活躍している高校生のパトリックは、多くの友人に囲まれ、ガールフレンドをかけもちし、へたくそなバンドをやっていて、父を亡くしても皆に支えられてなんとか元気にしている。この小さな街で思い切り青春を謳歌しているパトリックは、自分の後見人になることを嫌がっているリーに不満を抱き、いつも誰に対しても無愛想なその態度を解せないでいる。

 リーとパトリックの違いが象徴的に描かれる場面がある。ふたりはそれぞれジョーの亡骸を見に行くが、冷凍されて白く乾いた兄の遺体をじっと眺めてハグをし、その顔にキスをするリーとは対照的に、パトリックは父の凍らされた姿を十秒と見ていられず足早に遺体安置所を出る。自分の心を過去のまま凍らせているリーが冷凍された死体に何ら違和感を抱かない一方で、今という生を謳歌するパトリックが時間を停止させる「冷凍」というものに過剰に拒否反応を起こすことは当然のことだろう。冬のあいだは墓地に雪が積もっていて埋葬することができないから、春になって雪解けするまで死体を冷凍保存しておこうとするリーに対し、パトリックは父を凍らせておくなんて絶対に嫌だと反対し、自分の要望が聞き入れられないと、しまいに自宅の冷蔵庫にあった冷凍チキンを見てパニック発作を起こすまでになる。

 リーはパトリックがなぜそこまで冷凍保存を拒否するのか、なぜ冷凍チキンなんかを見てパニック発作を起こしているのかまったく理解できないし、パトリックはなぜリーが誰に対しても心を開かず敵対的なのか、なぜ自分の後見人となって一緒にこの街で暮らすことをそんなに嫌がるのかを理解することができない。二人は別に嫌いあっているわけではない。むしろ相手を思って心配しあっているのに、互いの心のなかをのぞきこむことのできないまま、違うタイミングでドアを開け閉めするようにすれ違ってばかりいる。

 そんな硬直した二人の関係性を溶解するきっかけとなったのがジョーの遺した船だ。その船はまだジョーが生きており、パトリックがほんの子供で、リーも家族と暮らして幸福だった頃に三人でよく釣りにでかけた船だった。はじめは、モーターが壊れているし維持費がかかってしまうから売ってしまおうとしたリーだが、ふとした思いつきでモーターを直すことに成功する。直った船にガールフレンドを乗せて運転するパトリックのうしろ姿をそっと見守るリーの顔には久しぶりの笑みがこぼれる。

 こうして船の心臓ともいうべき壊れたモーターが動きはじめたことによって、リーの止まっていた心にもゆるやかな変化が訪れる。リーの頑なに固まった心を最も動かしたのは、ばったり出くわした元妻からの赦しの言葉だった。リーは慌てて逃げるようにその場を去るが、バーに行って酔っ払った末に他の客に殴りかかって怪我をし、連れていかれた友人夫婦に介抱されながら、何も語ることなくただただ黙って涙を流す。そうして怪我をして戻ってきたリーを見ても、もはやパトリックは以前のように「バカじゃないの」とは言わない。リーがリビングで寝ているあいだに、ふとリーの部屋に入ったパトリックは、ベッド脇のテーブルに3つの写真が置かれているのを見る。それは何にも興味がなく、何もかも捨ててしまおうとするリーが、唯一大切にしているものだった。写真の中身はわたしたち観客に映されることはない。リーの心を覗き見ることができるのは甥のパトリックだけの特権なのだろう。パトリックはリーの傷の深さを垣間見て、その写真に釘付けになったまましばらく動けなくなる。部屋を出たパトリックは、黙ったままリーのもとにいき、何か必要なものはないか、と声をかける。

 この映画では春が近づくにつれて街に降り積もった雪が溶けていく過程と、リーの凍った心が少しずつ溶けていく過程が並行して描かれている。雪が大気に触れれば少しずつ溶けていくように、凍りついた心も小さな触れ合いによって徐々に溶けてゆくものだ。

 といっても、その溶け方はほんのささやかなものだ。結局リーはパトリックの後見人になることを正式に辞退し、ボストンのアパートへと一人帰ることにする。リーはパトリックに言う。「乗り越えられない」。それは一見あまりにも救いのない言葉のように思えて、実のところ、それこそが救いの言葉ではないだろうか。たしかに物語のあらすじだけみれば「最後まで過去から立ち直ることができなかった失敗物語」でしかないかもしれない。けれどジョーの埋葬の後、2人並んで歩きながら、リーはボストンの今の部屋を出てパトリックが泊まりにこれるよう広い部屋に引っ越すつもりだという計画を恥ずかしそうに告げる(そしてこの時パトリックは「冷凍」されたアイスを食べている)。リーの心はわずかではあるが確実に溶けはじめているのだ。落ちていたボールを拾って投げやりに放るリーと、そのボールを拾って無邪気に何度も投げ返すパトリックの姿は、かつてジョーと3人で船に乗って遊んでいた頃のあたたかさを彷彿とさせる。

 ロナーガン監督は、大きな痛みを負った人間の背中をむりやり押して「幸せ」になることを強要したりしない。早く立ち直らなくてもいいのだと、もう少し自分のペースでゆっくり心を溶かしていってもいいのだと、あえて凍ったままでいることを許すその眼差しによってはじめて溶け始める心というものもあるのだ。そういう意味では、都市というのは「冷凍」にうってつけの場所だ。黙っていること、匿名であること、誰にも干渉されないことが許され、記憶を封印し、重い過去すら無色にすることができる場所。都市にはきっと、凍ったまま語られることのない物語が、誰に知られることもなく毎日すれちがっているのだろう。

 

 

 へその緒の国と非人間について

 へその緒の国と非人間について
                              

 あなたがご存知ないかもしれないということを考慮して説明しておきますと、わたしたちの国ではへその緒が何よりも重視されています。自分の両親とはいつまでもへその緒で結ばれていますし、結婚している場合は配偶者と子供と結ばれています。そうして栄養を供給しあって、互いに助け合って生きる。へその緒が人々のセーフティーネットとなっているわけです。あなた方は生まれるとすぐにへその緒を取ってしまうとのことですが、それでも社会がなりたっているというのは不思議なことですね。
 わたしたちの国では、まず、あるカップルが結婚することとなると、結婚式で国に二つ目のへそをあけてもらいます。一つ目のへそはもちろん自分の両親とへその緒でつながっているへそです。人は結婚するとそれとは別に、全く新しいへそを作ることになります。そして国に新品のへその緒を授与され、新郎新婦は新たにへその緒で結ばれることになります。それからスタンダードなコースでは彼らは工場に行って子供を購入します。工場ではわたしたちによって生産されたさまざまな子供たちがベルトコンベヤーの上で回っており、夫婦は順番に回ってきた子供を受け取り、自分たちの新しくできたばかりのへそと子供とのへそとを、夫婦のへその緒で結びます。こうしてへその緒で結ばれた新郎新婦と子供を「家族」と呼ぶのです。
 世の中にはたくさんの家族がいて、家族の一員それぞれがへその緒の伸びる限り好き勝手に歩き回るので、ときどきよその家のへその緒とからまってしまうというトラブルが生じます。そのために信号があるのですが、これだけの人々がいるのですから信号だけでどうにかなるものではありません。人と人とがすれ違えばほぼ必ずや、互いの家族のへその緒がからまってしまいます。そういうときは整備士さんがいち早く駆けつけて、からまったへその緒をほどいてくれます。整備士さんはいつの時代でも子供達にとってあこがれの存在です。困っている人を助ける職業が一番人気というのはあなた方の国でもきっと同じでしょう?
 むすぶ、つながり、といったものが何よりも重要視されているので、この国では「切る」という行為は縁起が悪いとされています。昨今では人々のへその緒を無差別に切るへそテロリストによる事件が増えてきていますが、それもこの国ならではの犯罪なのでしょう。人々は一度へその緒で結ばれたらよほどのことがなければそれを切ってはなりません。……ということに表向きはなっておりますが、実際にはへその緒切りはしょっちゅうとは言わないまでも普通に行われており、きちんと手術代を支払いさえすれば大概において黙認されています。夫婦の間で切るものもいますが、一度結婚するとへその跡がなかなか消えず再婚するのが難しくなってしまうのであまり多くはありません。一番多いのは、やはり、子供とへその緒を切るパターンです。工場から連れてきた子供が問題児だったり気が合わなかったりその容姿に飽きてしまったりすると、夫婦は子供とのへその緒を切ってまた違う子供とへそを結びます。遺棄された子供は解体工場に運ばれ、まだ使えるパーツだけを取り出し、古くなったパーツは再利用し新しい子供に作り変えます。そのような解体作業や工場での仕事はしばしば切ることを伴うため、安全上の観点からもわたしたち非人間に任せられています。
 非人間についても一応お話ししておきましょうか。工場で作られたけれども引き取り手がないまま育っていった子供たちや、さきほど申し上げたように両親に遺棄された子供が解体するにはもう成長しすぎている場合は、そのまま誰ともへその緒で結ばれることなく、工場からの栄養補給だけで育ち、非人間化の道を歩むこととなります。ええ、両親は子供とへその緒をいつでも切ることができますが、子供からは両親とのへその緒を切ることはできません。不公平でしょうか? しかしつながりとはそういうものなのです。もちろん、非人間として育ったとしても、大きくなってから誰かと結婚し、へそをあけて新たなへその緒を結ぶことで人間化することも可能です。
 人間化しないのかって? そうですね。いまのところ、人間化の道は考えておりません。いいえ、さみしくないわけではないです。わたしは誰ともへその緒でつながっていないし、わたしという存在が生きていることすら誰も気に留めていないかもしれません。正直なところ、将来の不安がないわけではないし、経済的にも誰のへその緒にも頼れないので贅沢する余裕はありません。ときには両親にへその緒をハサミで切られてしまったときのことを夢に見て、夜中、汗だくになって目をさますこともあります。
 けれども、わたしたち非人間は、なんといっても自由です。それはあらゆる不安を背負うことになっても、なお、十分に持つ価値のあるものです。交差点で人々のへその緒が絡み合い、整備士さんに誘導されている間に、人々の脇を、すっと通り抜けていくときのあの軽さ。工場での仕事が終わったあとに、誰にも知られることなく、裏の丘の上で沈んでゆく夕日と二人だけでする密やかな対話。そういったものが、わたしは好きなのです。それに、なんといってもわたしは、この工場での仕事が気に入っています。ありとあらゆる肌の色、眼の色、髪の色の子供たちが入り混じってベルトコンベヤーの上を流れていく光景、それをみていると、わたしはへその緒で誰ともつながっていないはずなのに、工場の子供たちが、みな、自分の家族であるような気がしてくるのです。

(『プラトンとプランクトン』Web企画 アナキズム特集より)

詩と批評のあいだ 引用文献・参考文献

引用文献・参考文献

Ⅰ 
ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』岸本佐知子訳、新潮社、二〇一〇年
ミランダ・ジュライ『あなたを選んでくれるもの』岸本佐知子訳、新潮社、二〇一五年


ジュノ・ディアス『こうしてお前は彼女にフラれる』都甲幸治、久保尚美訳、新潮社、二〇一三年


チャック・パラニューク『ファイト・クラブ〔新版〕』池田真紀子訳、早川書房、二〇一五年
映画『ファイト・クラブ』デヴィット・フィンチャー監督、20世紀フォックス、一九九九年


ブライアン・エヴンソン『遁走状態』柴田元幸訳、新潮社、二〇一四年
ブライアン・エヴンソン『ウインドアイ』柴田元幸訳、新潮社、二〇一六年
柴田元幸「二十一世紀のアメリカ小説」『MONKEY vol.3』スイッチパブリッシング、二〇一五年


リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』藤本和子訳、新潮社、二〇〇五
藤本和子『リチャード・ブローティガン』新潮社、二〇〇二年
『フランクリン自伝』岡田忠軒訳、潮出版社、一九七三年


村上春樹『村上春樹全作品1979~1989①~⑧』講談社、一九九三年
同右『村上春樹全作品1990~2000①~⑦』講談社、二〇〇四年
同右『海辺のカフカ』新潮社、二〇〇二年
同右『アフターダーク』講談社、二〇〇四年
同右『東京奇譚集』新潮社、二〇〇五年
同右『1Q84 BOOK1』新潮社、二〇〇九年
同右『1Q84 BOOK2』新潮社、二〇〇九年
同右『1Q84 BOOK3』新潮社、二〇一〇年
同右『雑文集』新潮社、二〇一一年
同右『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』文藝春秋、二〇一三年
同右『女のいない男たち』文藝春秋、二〇一四年
同右『騎士団長殺し』新潮社、二〇一七年
同右『若い読者のための短編小説案内』文藝春秋、一九九七年
同右『走ることについて語るときに僕の語ること』文藝春秋、二〇〇七年
同右『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』文藝春秋、二〇一〇年
同右『職業としての小説家』スイッチ・パブリッシング、二〇一五年
村上春樹、村上龍『ウォーク・ドント・ラン』講談社、一九八一年
河合隼雄、村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮社、一九九八年
小澤征爾、村上春樹『小澤征爾さんと、音楽について話をする』新潮社、二〇一四年
川上未映子、村上春樹『みみずくは黄昏に飛びたつ』新潮社、二〇一七年
加藤典洋『村上春樹イエローページ1』幻冬社、二〇〇六年
同右『村上春樹イエローページ2』幻冬社、二〇〇六年
同右『村上春樹イエローページ3』幻冬社、二〇〇九年
柄谷行人「村上春樹の『風景』――『1973年のピンボール』」『終焉をめぐって』講談社学術文庫、一九九五年
河合隼雄ほか「現代の物語とは何か」『こころの声を聴く ー河合隼雄対話集ー』新潮社、一九九五年
河合俊雄『村上春樹の「物語」 夢テキストとして読み解く』新潮社、二〇一一年
阿部公彦「村上春樹とカウンセリング」『幼さという戦略』朝日新聞出版、二〇一五年
近藤裕子『臨床文学論 川端康成から吉本ばななまで』彩流社、二〇〇三年
岩宮恵子『増補 思春期をめぐる冒険 心理療法と村上春樹の世界』創元社、二〇一六年
浅利文子『村上春樹 物語の力』翰林書房、二〇一三年
柴田元幸『代表質問 16のインタビュー』朝日新聞出版、二〇一三年
柴田元幸編・訳『ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち』株式会社アルク、二〇〇四年
内田樹『村上春樹にご用心』アルテスパブリッシング、二〇〇七年
内田樹『もういちど村上春樹にご用心』文藝春秋、二〇一四年
宮脇俊文『村上春樹を読む。全小説と作品キーワード』イーストプレス、二〇一〇年
小山鉄郎『村上春樹を読みつくす』講談社、二〇一〇年
「特集 村上春樹ロングインタビュー」『考える人』新潮社、二〇一〇年夏号
「魂のソフト・ランディングのために——21世紀の「物語」の役割」『ユリイカ』青土社、二〇一一年一月臨時増刊号


J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳、白水社、一九六四年


J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳、白水社、一九六四年
J・D・サリンジャー『フラニーとズーイー』野崎孝訳、新潮社、一九七四年
J・D・サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』野崎孝訳、新潮社、一九七四年
J・D・サリンジャー『大工よ、屋根の梁を高く上げよ・シーモアー序章』野崎孝・井上謙治訳、新潮社、一九八〇年
J・D・サリンジャー『ハプワース16 一九二四』原田敬一訳、荒地出版社、一九七七年
ケネス・スラウェンスキー『サリンジャー 生涯91年の真実』田中啓史訳、晶文社、二〇一三年
マーガレット・A・サリンジャー『我が父サリンジャー』亀井よし子訳、新潮社、二〇〇三年
村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』文芸春秋、二〇〇三年
 

村上龍『新装版 コインロッカー・ベイビーズ』講談社、二〇〇九年


ジョナサン・サフラン・フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』近藤隆文訳、NHK出版、二〇一一年

ⅰあとがき
諏訪部浩一責任編集『アメリカ文学入門』三修社、二〇一三年

詩と批評のあいだ ⅰ そのなかで一緒に泳ぐこと——あとがき

そのなかで一緒に泳ぐこと–あとがき

  
 たとえばある本を読んでグッときて、その本について何か文章を書こうとする。自分が感じたことをありのままに誰かに伝えたいと思う。でもその作品について書けば書くほど、論じれば論じるほど、わたしの書いたものは作品そのものから離れていってしまうような、作品に溢れでている魅力を手ですくってそのまま誰かのもとへ急いで運ぼうとしているのに、走っているうちに、一滴、また一滴、と、手のすきまからこぼれ落ちていって、息を切りながら辿りついたときにはわたしの濡れた手のひらしか見せられないような、そんなやりきれなさに襲われることが多かった。
 不毛な水運びをくりかえすうちにだんだんわたしは無力感に陥っていった。作品、それも圧倒的な熱量で書かれた作品に対して、それを読むこと以外に読者のわたしたちができることなど本当は何もないんじゃないか。せいぜいできるとすれば、読ませたい誰かをそこまで連れていくガイド役か、白衣にマスクをして作品を解剖する医者ぐらいのものではないか。でもわたしはどちらの資格ももっていないし、あまりやりたくもない。そんなわたしが作品に対してできることがあるとすれば、作品を外から語るのでもなく、作品をバラバラに分解するのでもなく、むしろ、わたしが作品の内側に飛び込んで奥深くまで潜り、底にあるエッセンスのようなものを抽出してくることなんじゃないか。そしてより深く潜るためには、浸透圧を同じにするみたいに、その作家の声にできる限り同化するしかないんじゃないか。
 そういうわけで最初に書き上げたのがブローティガンの『アメリカの鱒釣り』論のようなものだった。まだ元気だったころのブローティガンと一緒に泳ぐのはとてもとても素敵なことだったし、どこまでがわたしでどこまでが彼なのかわからなくなるまで混ざり合ってしまうことで、作品固有の「声」を失わずにすむ気がした。それからジョナサン・サフラン・フォアの『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』に思い切り深く潜り、ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』ではバシャバシャ遊んだ。結局、全部で十回、九人の作家について、詩と批評のあいだの度合いをかえながら泳いでいる。深さや広さや温度の違う水の手触りをそれぞれ好きなように楽しんでいただければと思う。

 以下、各作家について簡単に述べておく。

 
Ⅰ ミランダ・ジュライ
 一九四七年生まれ、ロサンジェルス在住。映像作家であり、パフォーマンス・アーティストでもある。二〇〇五年にカンヌ映画祭でカメラ・ドールほか四つの賞を受賞した長編映画『君とボクの虹色の世界』では、脚本・監督・主演をつとめ、可愛らしいがちょっと変でややストーカーっぽくてかなりコワイ女の人を演じている。
 短編集『いちばんここに似合う人』の他、インタビュー集『あなたを選んでくれるもの』などがある。いずれも岸本佐知子翻訳。いずれもやっぱちょっと変。

Ⅱ ジュノ・ディアス
 一九六八年ドミニカ共和国生まれ。六歳のときにニュージャージーに移住。短編集に『ハイウェイとゴミ溜め』、『こうしてお前は彼女にフラれる』、長編に『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』がある。後者二つは都甲幸治、久保尚美共訳。
 全米批評家協会賞を受賞した『オスカー・ワオ』がよく取りざたされ、英語にスペイン語を混ぜた文体や、ポップカルチャーの引用、ドミニカ共和国の歴史的背景といった視点から論じられることが多いディアスだが、その根底にあるのは登場人物への深い愛情だ。モテるイケメンの兄をもってしまった弟たちの万国共通の苦悩にディアスはそっと寄り添ってくれる。

Ⅲ チャック・パラニューク
 一九六二年生まれのアメリカの作家。ウクライナ系の家族に生まれ、ワシントン州バーバンクのトレーラーハウスで育つ。日本では『ファイト・クラブ』以外に読める彼の著作はあまり多くないが、『サバイバー』『チョーク!』『ララバイ』といった作品を池田真紀子が翻訳している(今は絶版)。既存の小説のあり方に強く疑問を呈すパラニュークは、わたしたちの日常に切り込むような鋭いテーマを、アイディアに富んだ語りで描く。
 『ファイト・クラブ』はデヴィッド・フィンチャーが一九九九年に映画化したものの方が有名かもしれない。ブラッド・ピットがタイラー・ダーデン役を演じ、今でもカルト的な人気を誇っている。
 
Ⅳ ブライアン・エヴンソン
 一九六六年アメリカ・アイオワ州生まれ。敬虔なモルモン教徒として育つが、一九九四年に発表したデビュー作があまりにも冒涜的すぎるとして破門される。離婚し、職も失った。今ではゲームソフトやホラー映画のノベライゼーションも手がけている。
『遁走状態』『ウインドアイ』の翻訳者の柴田元幸いわく、エヴンソンは「ニュー・ゴシック」ならぬ、「ニュー・ニューゴシック」の筆頭。今日のゴシックのあり方について考える際に最も重要な作家の一人であると思われる。

Ⅴ リチャード・ブローティガン
 一九三五年アメリカ・ワシントン州生まれ。父親は不在、母もほとんど家におらず、生活保護を受け、9歳のころから工場で働いていた。貧しくて悲惨な幼少時代を送っていたが、二十歳になると家出をし、たどりついたカリフォルニアで詩人として身を立てるようになる。
 一九六七年に発表した『アメリカの鱒釣り』でポストモダン時代の寵児となったけれども、いつしかその成功は忘れられ、一九八四年、四十九歳のときにピストル自殺を遂げた。意味を脱ぎ去り、自由なイメージの世界をつくりあげたものの、少年時代の暗く重い残像からはついぞ自由になれなかった。

Ⅵ 村上春樹
 一九四九年京都に生まれ、芦屋で育つ。毎年ノーベル賞騒ぎがおこる。毎日走っている。

Ⅶ・Ⅷ J・D・サリンジャー
 一九一九年、ニューヨーク州マンハッタンに生まれる。伝記的事実は本論を参照してください。
 新作が心待ちにされるなか、沈黙したまま二〇一〇年に死去した。

Ⅸ 村上龍
 一九五二年佐世保生まれ。武蔵野美術大学在学中の一九七六年に『限りなく透明に近いブルー』でデビュー。今ではすっかり「カンブリア宮殿のおじさん」になってしまったが、初期の作品は非常に力強い。

Ⅹ ジョナサン・サフラン・フォア
 一九七七年、ワシントンDC生まれ。ユダヤ系アメリカ人作家であるフォアは、口語的で軽い文体を用いながらも、前作『エブリシング・イズ・イルミニネイテッド』では自身の祖父のルーツ・ウクライナの歴史、本作『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』では世界同時多発テロ、ドレスデン空爆といった歴史の悲劇へといつのまにか入り込んでしまうような、軽重合わせもった作風を特徴とする。
 奇妙なカタコト英語や、『ライ麦畑』を思わせる少年の語りといったナラティブの面だけでなく、写真の挿入や書き込みといった視覚的効果も行う実験的な作家であるが、「遺された者たちはどう生きるのか」(by 近藤隆文)という切実なテーマを真摯に追い続けている。

 
 ここで扱った作品や作家たちをそもそもどういった基準で選んだかといえば、単純にわたしが「グッときた!」「ハートフル!」と感じたものを集めたわけなのだが、それはつまり言い換えてみれば、人の心というものへの多面的で深い理解だ。彼らは主人公を、そしてあらゆる登場人物を、非常によく観察しながらも価値判断を早急に下して断罪することがない。多面的な人物を多面的なままに描き、人々の持つ弱さをありのまま受け入れようとする彼らの態度は、最終的に「許し」の姿勢となって文章に表れている。
 といってもただ一人、村上龍はここに収めた作家のなかでやや異色であるかもしれない。彼はどちらかといえば「許し」ではなく「怒り」の作家だ。それでも彼を入れたのは、やはり村上春樹との関連だった。同じ名字を持ち、同じように港町で育った同年代の彼らを並べて論じることはもはや無意味だといった批判もあるが、村上龍作品においては、嫉妬や、自意識のしがらみ、どろどろとした悪意や憎悪、そして尽きることのない怒りという、村上春樹作品では決して描かれない悪のあり方が描かれており、いわば、同じ名によって印づけられた村上春樹の「影」として機能している作家であるとわたしは考えている。
 だがとにかく、集めてみてはじめて浮かび上がってきた共通項は、みな「閉じ込められている」という感覚を強く有しているということだった。彼らは実に多種多様な形で閉じ込められている。自分で籠るものもいれば、誰かに押し込められているものもいるし、外部的な要因によって閉じ込められることを余儀なくされているものもいる。けれども程度の差こそあれ、彼らはみな、その閉塞感からなんとか抜け出ようとして、あるものは妄想やユーモアによって浮遊し、あるものは失敗してさらに閉じこもり、あるものは壁そのものをブチ壊し、またあるものは逆に深く潜ることで壁を抜けようとしている。ここにあるのはそういった閉じ込められることへのさまざまな「破壊」の形態なのだ。きっかけはバラバラで、現実的なカタストロフィーだったにしても、もっと個人的な次元の問題だったにしても、そこから這い上ろうと汗や血を流し、よりよく生きていこうともがく彼らの切実な姿は、多かれ少なかれわたしたち自身の姿でもあり、だからこそ、わたしは彼らの文学にグッとつかまれ、そして彼らの作品を別の形で再生してみたくなったのだ。
 もちろん他にもまだまだ一緒に泳いでみたい作家はたくさんいる、エトガル・ケレット、ネイサン・イングランダー、ジュディ・バドニッツ、リディア・デイヴィス、レイモンド・カーヴァー、トルーマン・カポーティ、ラルフ・エリソン、アンドレイ・クルコフ、アリス・マンロー、是枝裕和……。でもとりあえず、まずは九人と泳いだところで、そろそろあがるか、と、地上に出してみることにした。
 こういうふうに作品を論じてみてそれがどのくらい伝わるのかは正直わからない。まったくお手本のないなか手探りでつくりあげたものだからなんだこれは?と不審に思われるだけかもしれない。でも今回の試みによって少しでもわたしが、観光名所になっている湖のほとりで本物のガイドが客につらつらと説明しているなか、その真横を全速力で走り抜け、真っ裸で湖にぶっ込み、ドン引いて騒然としている人々に対し、みんなも飛び込んじゃいなよ!と叫んでいるような、そんなガイドでも医者でもない、なにものでもないなにかに、近づけることになっていれば嬉しい。

 

 

詩と批評のあいだⅦ 落ちてゆく子供たち——J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』

Ⅶ 落ちてゆく子供たち–J・D・サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』(野崎孝訳)

   
 そもそもお前は誰だって? いや、僕はもちろんホールデン・コールフィールドじゃないよ。奴さんの兄貴のDBでも、大人になったフィービーでもない。兄弟だとか姉妹だか、僕はそんなに近しかったわけじゃないが、でも全くの他人ってわけでもないな。まあホールデンの話をちゃんと読んだ君なら、そんなこと、説明しなくてたってきっとわかるだろう。僕だって《テーヴィッド・カパフィールド》式の、僕は誰だとか、僕がどこで生まれたとか、僕のチャチな幼年時代がどんな具合だったとか、僕が生まれる前に両親は何をやってたか、とかなんとか、そんなくだんない話はしゃべりたくないんだな。第一、僕は僕の話をするために、こうやってわざわざ喋ってるわけじゃないんでね。
 でもさ、こうしてホールデンの話を僕も実際に読んでみて、自分でも驚いたのは、なんだかあの頃のことがひどくなつかしく思えちゃったことなんだな。この頃っていうと、つまり、もう50年以上のことになるんだが、僕は正直言ってずっと読む気は起こらなかったんだ。彼の本が最初に出たときからね。僕はとにかくあのペンシーっていう学校のことが嫌いだった。そこにいた連中や教師たちのことがさ。僕はまあ、16歳のまま歳をとらないわけだけど、ここにきてからも、とにかく奴らをずっと憎んでたんだな。だって僕はあんなこと–あんまりひどくてちょっと口にはできないけど–されたんだから。でも、今回、やっと思い切ってホールデンの話を読んでみてさ、ペンシー高校のことを、好きとまでは言わないが、なんとなく悪くないように思えちゃったんだ。おかしなもんさ。実を言うと今でもどう思ってるのか、自分でもわかんないんだよ。
 きっと君もそうだったんじゃないかと思うけど、ホールデンの話を読みながら、実際、僕は何度も笑っちゃったね。まったく。とにかく奴さんの話には、こういう奴いたよな、ってつい可笑しくなるってことがたくさんあったんだ。例えばだよ、放校処分になっちまったホールデンが、部屋に荷物をまとめにいく場面があるだろう? そこに隣の部屋からアックリーの野郎がやってくるわけだけど、ここの登場のしかたなんか、いかにも、って感じなんだな。わざわざ訪ねて来た、とかなんとか、そんなふうに見られるのがいやで、何かの間違いで入って来ちゃった、ってなふうにみられたいらしくて、わざとくたびれたみたいに、やあ、って言ったりして。それで、このアックリーってやつは見た目もひどいし、おまけに性格もひどいもんなんだが、とにかく歯がきたねえんだ。まるで苔でも生えてるみたいな、すげえ歯をしてるっていうんだな、ホールデンが言うにはさ。アックリーが食堂で、マッシュ・ポテトに豆とかなんとか、そんなのを口いっぱいにむしゃむしゃやってるのを見ると、胸が悪くなって吐きそうになったもんだって言うんだけどさ、いや、ひどいね、これには笑ったよ。だって本当にその通りだったんだからさ。
 それからさ、ホールデンにはストラドレーターっていうろくでもないルームメイトがいて、実際にろくでなしみたいなやつだったんだけど、こいつの登場シーンも可笑しいんだ。いきなりドアが開いてさ、大あわてにあわててとびこんでくるんだが、確かに奴はいつだって大あわてなんだよ。なんでもが一大事なんだな。それでホールデンのとこへやって来て、両方の頬っぺたを、ふざけ半分にぺたぺたと二つばかし軽く叩きやがったりしてさ。こいつの方は、背が高くって、なかなかの美男子ではあるんだが、中身はだらしないインチキ野郎でさ。部屋の中を上半身はだかのままで歩き回るんだが、自分でもすごくいい身体をしてると思ってるからなんだ。そしてまた、その通りなんだよ。ちゃんと身じまいも整えて、いつだってきれいに見えはする。でもさ、奴がひげを剃るカミソリなんかはいつもすごく錆びててだね、石鹸の泡だとか毛だとかなんとかが、いっぱいくっついてんだ。それに人に頼んで自分の宿題やってもらってるあいだに、自分は女の子とデートしにいったりする調子のいい奴でさ。こういう奴らは外面だけだとはわかっちゃいるんだよ。でもそういう、自分のことをかっこいいと思って見せびらかしてるやつらに限って、実際なかなかカッコよくきまってるってのは、僕としても認めないわけにはいかないんだ。悔しいけどね。
 とにかく、そういうインチキの塊みたいな連中ばっかりのペンシーで、ホールデンだけはちょっとばかし違って見えたんだ。ホールデンだって家は裕福みたいだし、着てる服だとかカバンなんかもちゃんとしてるんだけど、でもだからって、貧しい連中のことをバカになんかしなかった。育ちがいいのを鼻にかけちゃいないんだな、彼は。休みの日には女の子と遊びに行ったりしてるみたいだったけど、でも、そういうのをわざわざ自慢したりもしないしさ。ディベートの授業でみんなが僕にヤジを飛ばしてくるなかでも、ホールデンだけは黙って聞いてくれたしね。そんで、奴さんは他の連中のことをよく観察しててさ、気取って勘違いしてる奴らには、おいプリンス、って呼んじゃうような皮肉っぽいところもあって。ホールデンだけは、ちゃんとインチキなもんを見抜いてたんだ。だから僕が腹のなかで思ってることを、彼が代わりに言ってくれるみたいなところがあった。でもなんというか、それだけじゃなくて、彼には愛嬌もあったから、なんだかんだいってみんなに好かれてたね。そういうわけだから、僕は彼に対して、ちょっとしたあこがれみたいなもんを抱いていたわけなんだが、しかし、今こういうふうに、ホールデンの目から話を読んでみると、意外と奴さんは弱いやつだったんだなって思うよ。そんなこと全然知らなかった、僕は。たしかに奴さんには、せわしなくて、落ち着きのないところはあったけど、昔の僕は、ホールデンみたいになりたいと思ってたんだ。だけど、人のことインチキだってすぐ批判する割に、実は自分だって結構そういうところあるよね。すぐ嘘ついたり、ごまかしたりするし、サリーって子のことインチキだって思ってるくせに、思いつきで結婚したくなっちゃったり。しかも彼女のこと怒らせてポイって捨てられちゃってさ。そのうえ女の子を買おうとして、ポン引きに騙されて金取られたときなんか、泣いちゃったりなんかして、正直みっともないといえば、みっともないよね。
 だけど、だからって彼に対して僕が嫌な風に思ってるっていうわけじゃない。まあ、若干幻滅したようなところもないわけではないけどさ。でも、ホールデンはあまりにも、必要以上に、しっちゃかめっちゃかな目にあっていてかわいそうに思えてくるんだ。クリスマス前に学校おっぽり出されて、どこに行っても落ち着いてあったまれなくて、体調崩して下痢するわ吐くわで、なんだか満身創痍だしさ。最後の方なんか、寒くて凍えちゃって、途中で、変な感じになっちゃってるだろ? 五番街を北に向かってどこまでも歩いて行ってたら、突然、とても気味の悪いことが始まり出した、って。街角へ来て、そこの縁石から車道へ足を踏み出すたんびに、通りの向こう側までとても行き着けないような感じがして、自分が下へ下へ下へと沈んで行って、二度と誰の目にもつかなくなりそうな気がした、って。それで彼は街角へさしかかるたんびに、死んだ弟のアリーに話しかけてるつもりになって、アリー、僕の身体を消さないでくれよ。アリー、僕の身体を消さないでくれよ。アリー、僕の身体を消さないでくれよ。お願いだ、アリー、って言うんだな。なんとか姿も消えずに、通りの向こう側まで行きついたところで、アリーにお礼を言うわけだけど、これは相当まいっちゃってるよな。それから、彼はこう言うんだな。いやあ、こわかったねえ。君には想像できないと思うよ、って。でも僕にはちゃんと想像できるよ。そういう、自分が下へ下へ下へと沈んでいっちゃって、向こう側までたどり着けないような気がして、僕の姿が誰にも見えなくなっちゃうんじゃないか、っていう感覚ってのはさ。そうすると、馬鹿みたいに汗が出だして、ワイシャツも下着も何も、ぐっしょりになって、どこまでも落ちて止まらないような気がしてくるんだ。
 つまりさ、この本を読んでみてはじめてわかったんだが、当時そういうのは僕だけかと思ってたんだけども、実はホールデンだって僕と同じくらいにとっても孤独だったんだな。彼はいっつも軽口たたいてるし、おしゃべりで人懐っこくて、気に食わないものにはノーっていって、自分の好きなように生きてる、ちょっとせわしない楽しいやつ、みたいな、そんなやつだと思っていたけど、でも、怒りだとか、笑いだとかを剥がしてみたときに、そこにあるのは、深い孤独感っていうか、ひどい悲しみ、みたいなもんだったんじゃないかな。なんとなく、僕にはこのホールデンの語っていることが、ぜんぶ「助けて」っていう叫びに聞こえるんだ。ホールデンは、自分はライ麦のキャッチャーになりたいって言うだろう? なんでも好きなものになれる権利を神様の野郎がくれたとしたら、僕は広いライ麦の畑やなんかがあって、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているところで、そしてあたりには大人がいないから、子供たちが崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえるんだ、って。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ、って言う。素敵な夢さ。でも、正直いうとね、この話のなかで一番落ちそうになっているのは、誰よりもまず、彼なんだよな。それなのに、逆に彼のことを支えようとしてやってるのは、彼の妹のフィービーくらいで、誰も彼のことをキャッチしちゃいない。ストラドレーターには幼馴染の女の子盗られた上に殴られるし、スペンサーのじいさんにはねちっこく説教される。夜遅くいろんなひとに電話かけるから、みんなに迷惑がられてさ。泊めてくれようとしたアントリーニ先生だって、ホールデンは疲れ切って眠いって言ってるのに、うるさい人生論垂れて休ませてくれないし。兄貴のDBだって、西海岸にいっちゃってるしさ。フィービーはあまりにもまだ幼すぎて、泣き出しちゃったホールデンを抱きしめながら、怖がって震えちゃってる。こういうのは、とても悲しいことだと僕は思う。だって、あまりにも救いがないじゃないか。自分が落ちて消えていっちゃいそうなときに、ありのまますべて受け入れてくれるような存在がいないっていうのはさ。僕だって、結局、誰にもキャッチしてもらえなかったわけだからね。
 今ホールデンはどうしてるんだろう? 奴さんのことだから、なんだかんだ生き延びて、かろうじて落ちないでやっているのかな。それとも山小屋に隠遁しちゃったかもしれんな。実を言うと、僕はさ、ホールデンからスウェターを借りたままなんだ。返さなくちゃと思っているんだけどね。本当は、あの頃、僕はあんまり彼に話しかけられなかった、というか一度しか話しかけられなかったんだけど、その一度だけ思い切って話しかけたときに、いとことドライブにいくから君のとっくり首のスウェターを貸してくれないか、って頼んだんだ。ホールデンはそんとき歯磨いてて、僕がいきなり話しかけたもんだから、ちょっとばかしびっくりしてたけどちゃんと貸してくれた。でも、僕は窓から飛び降りた時にこのスウェターを着たままでさ。汚してしまって申し訳ないけど、やっぱり借りたものは返した方がいいよね。
 これを読んだ今でも僕はやっぱりホールデンが好きだし、ホールデンのいうことにすごく共鳴するよ。ある意味では、僕たちはたぶん似たもの同士でさ、ひょっとしたら、僕はホールデンであったかもしれないし、ホールデンは僕であったかもしれないわけだけど、それでも、ホールデンがあの高校にいたときに、クラスメイトたちに仮にいじめられたとしても、きっと彼なら、飛び降りたりはしなかっただろうと思うんだ。やっぱりホールデンが僕とは違う、と思うのは、彼には、なんといってもいつだってユーモアってもんがあったからなんだ。それは彼にしかない武器なんだな。誰に対してもユーモアを保てるってことはさ、きっと、なんだかんだいっても彼はみんなのことが好きだったんだろうな。他人のことをよく観察していて、インチキだって思っても、僕なら絶対許せなかった人の汚さだとか、欠点だとかを、ホールデンはたぶん、なんというか、愛してもいるんだよ。そういうのは、やっぱり、うらやましくはあるよね。
 今、僕がいる場所は、まあ、完全な世界だよ。ここでは人はエゴなんか持たないし、憎んだりもしないし、インチキな奴らもいない。ここちよくて、欲しいものはなんでも手に入るから、ものを奪い合うこともない。みんな穏やかで、知的で、すばらしい人ばかりだ。そしてなにより、最初に言ったみたいに、ここにいれば、時間だってそのままだから、僕は年をとることもない。一歳、一歳と年を重ねていくってことがどんなだったか、もう忘れちゃったよ。死んでから半世紀も経ってるはずなのにね。ここのいちばんいいところは、なんといってもみんながそこにじっと留まっているということだ。きれいなものはなにもかもきれいなままなんだ。あの博物館みたいにね。でもさ、僕は、寒くもないし、暑くもないし、暗くもないし、眩しすぎることもないんだけど、そのかわり、誰にもふれることができないみたいなんだな。こうやって君に話しかけていても、正直君がそこにいるのかも実はよくわからないんだ。ねえ、僕がしゃべってること、君にはちゃんと聞こえているかい? 聞こえているのかな。聞こえていればいいんだけど。ここにいれば、僕が死ぬ前に望んでいたものは、ほとんど何もかも揃っているはずなのに、何かからっぽみたいな気がするのは、どうしてなんだろう? 

詩と批評のあいだⅤ 放流されたことばたちのゆくえ——リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』

Ⅴ 放流されたことばたちのゆくえ ——リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』(藤本和子訳)

  

 ことばは、固定されてはならない。ことばは、閉じ込められてはならない。ことばは時間によって、空間によって、絶えず意味をかえ、形をかえ、わたしたちの日常を流れつづける。
 たとえばこんなふうに。

 

 春の日の午後、〈アメリカの鱒釣り〉は「わたし」の友人だ。
 手紙の中で、〈アメリカの鱒釣り〉は言う。
「いくらわたしだって、あの場合はどうにもならなかったよ。階段をクリークにかえることなんかできやしない。」

 

 あるときはまた、〈アメリカの鱒釣り〉は、マリア・カラスをガールフレンドにもつ裕福な美食家だ。
 マリア・カラスは一緒にりんごを食べながら、〈アメリカの鱒釣り〉のために歌を歌う。
 〈アメリカの鱒釣り〉はパイの皮を一緒に食べながら、マリア・カラスに微笑みかける。
 そして〈アメリカの鱒釣り〉とマリア・カラスは、いっぷう変った胡桃ケチャップをハンバーグにかける。

 

 去年の秋、突如としてサン・フランシスコに現れたのは、おそらく〈アメリカの鱒釣りちんちくりん〉だろう。
 かれは脚のないヒステリーの中年アル中で、鳩の群れの中へ突っ込むようにして、ワイン片手にイタリア人の群のどまんなかにいきなり車椅子で割りこんで、いんちきなイタリア語で猥雑に喚き立てる。
「トラ・ラ・ラ・ラ・ラ・ラ・スパ・ゲッ・ティィィ!」

 

 ロンドン。
 かれはアメリカの鱒釣りのいでたちをしていた。夜ごとの殺人のために、アメリカの鱒釣りを衣装としてまとうのだ。かれは肘を山々でおおい、シャツの襟にはあおかけすをつけ、靴紐に絡まるように咲いた百合の花の間を深い川が流れていた。
 凶器 : 剃刀と、ナイフと、それとウクレレ
 やっぱりウクレレでなくちゃ。

 

 もちろん、アメリカの鱒釣りは人の形をしているとは限らない。
 ときに、アメリカの鱒釣りは、上級生たちが1年生の背中にチョークで書く落書きの文字となる。
 〈二〇八〉という名前の猫の暮らす〈アメリカの鱒釣りホテル〉にもなる。
 それから、アメリカの鱒釣り平和行進にもなる。アメリカの鱒釣り平和を支持せよ!
 アメリカの鱒釣り平和パンフ、アメリカの鱒釣りテロリスト、アメリカの鱒釣り検死解剖報告……。
「わたし」が思いつくのはアメリカの鱒釣りペン先。

 

 
わたしは考えていた。アメリカの鱒釣りならどんなにすてきなペン先になることだろう。きっと、紙の上には、川岸の冷たい緑色の樹木、野生の花々、そして黒ずんだひれがみずみずしい筆跡を残すことだろうな……。

 

 リチャード・ブローティガンが作品の中に放った〈アメリカの鱒釣り〉ということばは、ひとつの像を結ばないまま、ことばそれ自体として独立し、47の断章を流れにのって泳いでゆく。〈アメリカの鱒釣り〉が泳いでいったあとには、アメリカの鱒釣りペン先さながら、さまざまな光景のかけらが、ゆらりゆらりと、沈んだり浮き上がったりする。
 草地に柔らかくビール腹みたいに広がっているパラダイス・クリーク。
 雨で街路が溺死人の肺のようにふくらんだサン・フランシスコ。
 肉食植物のローラーコースターのように「わたし」以外の人々を連れ去る秋。
〈アメリカの鱒釣り〉はときに散らばり、破片となる。せむし鱒や、ポルトワインによる鱒死や、墓場の鱒釣りや、鱒釣狂、と姿をかえて、わたしたちの前に不意に訪れる。
〈アメリカの鱒釣り〉はいつもアメリカの鱒釣りなのではない、というわけだ。

 

〈アメリカの鱒釣り〉——そのことばにまとわされた性質はそのまま、『アメリカの鱒釣り』という作品の特質にもなっている。

 

〔科学的見地に基づいたアメリカの鱒釣り分析目録〕

1 主題  中心はないみたいだ。
2 人物  主人公らしい人物もいない。語り手の「わたし」はあかんぼとかの女と旅をしている。ときおり姿をみせる。そして消える。
3 時間  いったりきたりする。それぞれのエピソードにははっきりとした繋がりが感じられない。
4 距離  「わたし」は価値判断を加えようとはしない。近づいては離れて、自分のことについても他人みたいに語る。淡々としている。
5 結論  つまり自由に泳げるということ。

 

 ことばたち——かれらは、突拍子もない比喩をひきつれて、網をつけられることもなく、管理されることもなく、本筋とは関係のない奇想なイメージをつくりだしてゆく。銅像は大理石語で喋る。精液は慣れない光に会うとびっくりして紐状になる。魚たちは歌いながらワースウィック温泉に流れ込む。
「金のキレメが縁のキレメ」と歌う魚ども。

 

 こんなことばたちによってつくられた世界には、普通の論理も通用しない。
 滝は滝と書かれているからといって、一〇〇パーセント滝であるわけじゃない。滝は木立の中の家に通じる白い階段で、手で叩いてみたら、木の音がするかもしれない。犬があまりひどく吠えれば、たちまち風呂場は死人でいっぱいになるかもしれない。
 カッカと腹を立てて帰っていく死人たち。

 

 ブローティガンはことばをあそばせるのが上手だ。支配しようとはしない。彼は何もコントロールしようとはしない。自ら十三個の規則をつくって生活を管理し、自律しようとしたベンジャミン・フランクリンとは大違いだ。

 

〔ベンジャミン・フランクリンの十三徳(抄)〕

  一 節制  飽きるほど食うな、酔うほど飲むな。
二 沈黙  他人にも自分にも利益のないことを話すな。むだ話をするな。
三 規律  自分の物はすべて定まった場所におけ。仕事は一つ一つ定まった時になせ。
四 決断  なすべきことを果たす決心をせよ。決心したことは必ず実行せよ。
五 倹約  他人にも自分にも利益にならないような金を使うな。つまり、浪費をするな。

 

 やつにはユーモアのセンスなんてないんだから。

 

 けれど、フランクリンの影は、『アメリカの鱒釣り』のなかでちらほらしている。まず表紙からして、ワシントン広場のベンジャミン・フランクリン像の前に立つブローティガンの写真なのだ。
 ブローティガンの背後には小さく、ぼんやり、しかし確実に、高く周囲を見下ろすフランクリンの姿が映っている。
〈アメリカの鱒釣りちんちくりん〉が酔っ払って、車椅子から真っ逆さまに落ちたまま大鼾をかいて倒れているときも、手に帽子を持った金属のベンジャミン・フランクリンはその位置から見下ろしていた。
 フランクリンだけではない。さりげない顔をしてすっと通り過ぎていった文章のなかに、ブローティガンとは相容れなさそうな、いかにもユーモアのセンスのなさそうな名前がまぎれこんでいる。バートランド・ラッセル、ウィンストン・チャーチル、ニクソン、リンドバーグ、ヘミングウェイ、アドルフ・ヒトラー。
 いうまでもなく、彼らの名前は、すばらしい大理石の墓標や彫像や、いまいましい教科書なんかに刻まれている。そして、墓碑すらもたず、ぱさぱさに乾いた古パンのみみみたいなちゃっちな板切れに書かれて、雨に消えゆく貧しい死者たちの名前を、死んだあとも見下ろし続けるんだろう。

 

 いつかは、鉄道の駅の隣で熱い鉄板の上に卵を割り落す眠たげな即席料理のコックのような手つきで、めぐりくる季節がこれらの木の上の名前を消してしまう。いっぽう、富める者たちの名は、大理石のオードブルに空までとどく洒落た小径を跑足で行く馬たちの姿のような書体で刻まれて、いつまでも残るのだ。
 墓場クリークで、わたしは夕暮に釣った。ちょうど孵化期で、いい鱒がかかった。死者の貧しさだけがわたしの心を乱した。
 ある日のこと、すっかり陽も落ちて、わたしは家に帰るまえに鱒を洗っていた。そのとき、ふと、こんなことを思った–貧乏人の墓場へいって芝を刈り、果物の瓶、ブリキの空缶、墓標、萎れた花、虫、雑草、土くれをとりあつめて持って帰ろう。それから万力に釣針を固定して、墓地から持ち帰ったものを残らず結わえつけて毛鉤をつくる。それができたら外へ出て、その毛鉤を空に投げあげるのだ。すると毛鉤は雲の上をただよい、それからきっと黄昏の星の中へ流れさっていくことだろう。

 

 ブローティガンが描くのは、アル中でヒステリーで脚のない〈アメリカの鱒釣りちんちくりん〉だ。たった一枚のほうれん草しか入っていないサンドイッチを手にする貧者だ。冬の寒さをしのぐために精神病院にいくことを話す失意の画家たちだ。ちょっと頭の足りない開拓者であったり、お金がなく脱腸のせいでクールエイド中毒になった友だちだ。
 所詮、ベンジャミン・フランクリンはただの背景でしかなく、ウィンストン・チャーチルもアドルフ・ヒトラーもただの修飾語にしかならない。
 愛想のいいアドルフ・ヒトラーみたいな羊飼い。

 

 ブローティガンが泳がせたことばたちは、名前のない弱いものたちを呼び寄せる。そして、貧しさや死や暴力の重さに沈んでしまいそうなかれらを、ことばで浮かばせ、泳がせるのだ。蚤のサーカスだとか、キリマンジャロの麒麟レースだとか、数珠つなぎになって世界に張り渡された電線にとまっている小鳥たちだとか、一見どうでもよさそうな細部に吹き込まれた、ユーモアやイメージの浮力が、その沈みゆく弱い者たちを浮かばせるのだ。
 だからこそ、この話は、ほとんど意味のなさそうな断片だけで構成されている。ブローティガンは中心なんてつくらずに、自由気ままにことばを泳がせる。
 のんびりと釣り糸を垂らして、川辺に座っているブローティガン。
 川の中には、釣りそこねた鱒がたくさん泳いでいるのだ。

 

〔釣り旅および釣りそこねた鱒〕

一八九一年四月七日   釣りそこねた鱒  8
一八九一年四月十五日  釣りそこねた鱒  6
一八九一年四月二十三日 釣りそこねた鱒  12
一八九一年五月十三日  釣りそこねた鱒  9
一八九一年五月二十三日 釣りそこねた鱒  15

 

 そして、ブローティガンの放ったことばたちは、ふわふわと海流にのり、やがて、遠く神戸の港で釣りあげられることになる。

 

詩と批評のあいだ Ⅲ 増幅される声——チャック・パラニューク『ファイト・クラブ』

Ⅲ 増幅される声–チャック・パラニューク『ファイト・クラブ』(池田真紀子訳)
                                         

 ぼくの頬に開いた孔、青黒く腫れた目、タイラーのキスの形に赤く腫れた手の甲の痕、コピーのコピーのコピー。
 ファイト・クラブ規則第一条、ファイト・クラブについて口にしてはならない。
 転んでしまいまして。ぼくはそう説明する。
 ぼくが自分でしたことです。
 ボスが訊く。「毎週末、きみはいったい何をしでかしているのかね?」
 それでも何も言わない。ファイト・クラブは、ファイト・クラブが始まり、ファイト・クラブが終わるあいだの数時間しか存在しないからだ。
 ファイト・クラブ規則第二条、ファイト・クラブについて口にしてはならない。
 ふたたび。
 ファイト・クラブは外見を磨く場所ではない。教会と同じように、恍惚とした言葉にならない言葉が響き、日曜の昼過ぎに目が覚めたときの気分は、救済されたみたいだ。
 生きていることをあれほど強烈に実感できる場所は、ファイト・クラブしかない。
 ファイト・クラブは勝ち負けじゃない。ファイト・クラブに言葉はない。
「怖じ気づいてどん底まで落ちられないなら」タイラーが言う。「そいつは絶対に真の成功を手にできない」
 これは自己啓発セミナーじゃない。
 破壊を経て初めて蘇ることができる。ぼくがそれを知っているのは、タイラーが知っているからだ。
「すべてを失ったとき初めて」タイラーが続ける。「自由が手に入る」
 ぼくは訊く。ぼくはもうじきどん底かな?
 タイラーは唇を湿らせ、てらりと光る唇をぼくの手の甲に押し当てる。
 目を閉じて。
「これは薬品火傷だ」とタイラーは言う。「ほかのどんな火傷よりずっと痛い」
 水と混じると、苛性ソーダは摂氏一〇〇度近い熱を発する。その熱がぼくの手の甲を焦がす。
「苦痛に意識を戻せ」とタイラーが言う。
 これがぼくらの人生最高の瞬間だ。
 最高。
 どん底。
 ファイト・クラブ規則第三条、ファイトは一対一。
 かつてぼくは自分の人生を憎悪していた。疲れて、仕事や家具にうんざりして、それでも状況を変える方法がわからずにいた。
 ぼくが全人生を費やしてそろえた物たち。
 ラッカー仕上げを施したメンテフリーのカリックスの補助テーブル。
 ステッグの入れ子式テーブル。理想の皿一式。次は完璧なベッド。カーテン。ラグ。
 ぼくたちは素敵な巣のなかで身動きがとれなくなっている。かつて所有していたものに、自分が所有されるようになる。
 ドアマンが近づいてきて、ぼくの肩越しに言う。「一目置かれたくて、やたらにものを買いこむ若者は多い」
 営巣本能の奴隷と成り下がったのは、この世にぼく一人というわけではない。以前はポルノ雑誌を手に便器に腰を下ろしていたであろう人々がいまトイレに持って入るのは、イケアのカタログだ。
 コピーのコピーのコピー。
 モンマーラのキルトカバーセット。デザイン担当はトマス・ハリラ、以下のカラーバリエーションをご用意しています。
 ライラック。
 フューシャ。
 コバルト。
 シャイニーブラック。
 マットブラック。
 クリームイエロー。
 ヘザー。
 ぼくの視界をコピーが埋め尽くしている。
「欲しいものがわからないと」ドアマンが続けた。「本当には欲しくないものに包囲されて暮らすことになる」
 欲しいのか、欲しくないのか。
 眠ったのか、眠っていないのか。
 生きているのか、生きていないのか。
 どんな出来事もぼくらのはるかかなたで起きる。何一つ手が届かず、何一つこちらに手が届かない。 
 不眠症的非現実感。
 目を覚ますとそこはエア・ハーバー国際空港だ。
 使い捨ての友が隣のシートから声をかけてくる。
 うまく乗り継げるといいですね。
 ええ、まったく。
 目を覚ますとそこはオヘア空港だ。
 目を覚ますとそこはラガーディア空港だ。
 三週間も眠っていないんです。日常のすべてが幽体離脱体験みたいなんです。
 医者は言った。火曜の晩にファースト・ユーカリスト教会に行ってみるといい。住脳寄生虫感染症患者を見てみるといい。変形性骨疾患患者を。器質性脳障害患者を。ガン患者がその日その日を生きている姿を目の当たりにするといい。
 目を覚ますとそこはローガン空港だ。
 骨疾患、住脳寄生虫感染症、結核。精巣ガン、住血寄生虫感染症、器質性脳障害。
 人と触れ合うことで心を癒しましょう、とクロエは言う。パンツの尻が悲しくむなしく垂れたクロエという名の哀れな骸骨。
 クロエの痛々しさの前では、ぼくなんて何でもない。いないも同然だ。
 ぼくはガンで死にかけている人々をうらやましいと思った。
 目を覚ますとそこはオヘア空港だ。
 ふたたび。
 眠ったのか、眠っていないのか。
 ぼくは生きているのか、いないのか。
 いっそこのまま堕ちてくれとぼくは祈った。
 目を覚ますとそこはウィローラン空港だ。
 ぼくが眠るとき、ぼくは本当には眠っていない。
「そうね」とマーラが言う。「あんたは眠らない」
 眠ったのか、眠っていないのか。
 コピーのコピーのコピー。
 ぼくたちの視界はコピーで埋め尽くされる。
 ぼくのちっぽけな人生。ぼくのちっぽけなクソ仕事。
 ぼくは完全すぎた。
 ぼくは完璧すぎた。
 ぼくは人生のちっぽけな人生に脱出口を探していた。
 北欧家具からぼくを救い出してくれ。
 気の利いたアートからぼくを救い出してくれ。
 そのときぼくはタイラー・ダーデンに出会った。
 タイラーは言った。「おれを力いっぱい殴ってくれ」
 爆発。
「石鹸を作るなら、まずは脂肪を精製する」
 煮立て、すくう。煮立て、すくう。
 ファイト・クラブ規則第四条、一度に一ファイト。
 最初のファイト・クラブは、タイラーとぼくが二人で殴り合っただけだった。
 タイラーの仕事はパートタイムの映写技師だった。リールの切り替えもする。生まれつきの夜型だから、夜勤しかできない。
 世の中には夜型の人間がいる。昼型の人間もいる。ぼくは昼間の仕事しか勤まらない。
 夜型と昼型。
 切り替え。
 あいにく、自動フィルム繰り出し・自動巻き取り機能付き映写機を使う劇場が増えるにつれ、映写技師組合はタイラーをさほど必要としなくなった。
 支部長閣下は言った。排斥とは考えないでくれ。ダウンサイジングだと思ってくれ。
 いや、おれは恨んだりしないよ、とタイラーは愛想よく笑った。
 失うものは何もない。
 おれは世界の捨て駒、世の全員の廃棄物だ。
 切り替え完了。
「グリセリンに硝酸を混ぜるとニトログリセリンができる」タイラーが言う。
 脂肪の塊を水に入れて沸騰させます。
「ニトログリセリンに硝酸ナトリウムとおがくずを混ぜればダイナマイトだ」タイラーが言う。
 すると脂肪の塊が溶け、沸き立つ水面に油脂分だけが浮いてきます。
「ニトログリセリンにさらに硝酸とパラフィンを混ぜれば、爆発性ゼラチンを作れる」とタイラーは言う。
 そうしたら鍋の火を弱め、湯をかきまわしてください。
「ビルだってまるごと吹き飛ばせる。一発で」
 すくい取った脂を、上蓋を全開にしたミルクのカートンに移します。
「大量の石鹸があれば」タイラーは言う。「世界をまるごと吹き飛ばせる」
 煮立て、すくう。煮立て、すくう。
 石鹸のはじまりはじまり。
「太古の昔」とタイラーは言う。「生け贄を捧げる儀式は川を見下ろす丘の上で行われた。何千という生け贄だ。生け贄の死体は薪の山のてっぺんで焼却された。数百人の生け贄が捧げられ、燃やされたあと、白いどろりとした液体が祭壇からあふれ、丘づたいに川へ流れた」
「雨が」とタイラーは言う。「燃えた薪の上に来る年も来る年も降り注ぎ、来る年も来る年も死体が燃やされ、灰で濾過された雨水が苛性ソーダ溶液を作り、それが溶けた生け贄の脂肪と混じってできた白いどろりとした石鹸が祭壇の下から滲み出て、丘の斜面を伝って川へ流れた」
「千年にわたる殺人と降雨の結果、古代人は発見した。石鹸が川に流れこむ場所で服を洗うと、ほかで洗うより汚れ落ちがいい」
「大勢の人間を殺したのは正解だった」
「これを頭から締め出すな」とタイラーが言う。「石鹸と生け贄はワンセットだ」
 ワンセット。
 ファイト・クラブ規則第五条、シャツと靴は脱いで闘う。
 ぼくとタイラーは一卵性双生児のように似てきた。
 ぼくは何か美しいものを破壊したい気分だった。
 タイラーと一緒にいれば何もかも壊せそうな気がした。
 タイラーは、ぼくが闘っている本当の相手は何かと訊いた。
 自分が恵まれなかった美しいものすべて。
 アマゾンの熱帯雨林を焼き尽くしたかった。フロンを空に噴射してオゾン層を破壊したかった。スーパータンカーの放出バルブを全開にしたり、海底油田の蓋を取り除いたりしたかった。ぼくには買って食べるゆとりのない魚を全部殺し、ぼくが行けることのないフランスのビーチを絞め殺してしまいたかった。
 全世界をどん底に突き落としたかった。
 最高だから。
 種の保存のためのセックスを拒絶して絶滅の危機に瀕しているパンダや、海岸に乗り上げる根性なしのクジラやイルカの眉間に、片端から弾丸を撃ちこみたかった。
 絶滅とは考えないでもらいたい。ダウンサイジングだと思ってくれ。
「忘れるなよ」とタイラーは言った。「あんたが踏みつけようとしてる人間は、我々は、おまえが依存するまさにその相手なんだ。我々は、おまえの生活を隅から隅まで支配している。」
 依存と支配。
 最高とどん底。
 石鹸と生け贄。
 ファイトは一対一。
 ぼくとタイラー。
 所有するものとされるもの。
 一度に一ファイト。
 ファイト・クラブ規則第六条、ファイトに時間制限はなし。
 ぼくは駐車場であおむけに寝転がり、街灯の明かりに負けずに輝く唯一の星を見上げながら、きみは何と闘っていたのかとタイラーに尋ねた。
 父親だとタイラーは答えた。
 ぼくらは父親などいなくたって自分を完成させられるのかもしれない。ファイト・クラブでは、恨みを晴らすために闘うのではない。闘うために闘うのみだ。
 ファイト・クラブは、ファイト・クラブが始まり、ファイト・クラブが終わるあいだの数時間しか存在しない。
 タイラーは、ぼくが眠りにつき、ぼくが目覚めるあいだの数時間しか存在しない。
 ぼくは、タイラーが眠りにつき、タイラーが目覚めるあいだの数時間しか存在しない。
 かつて所有していたものに、自分が所有されるようになる。
 タイラーはぼくを殴る。
 ぼくはタイラーを殴る。
 ぼくはぼく自身を殴る。
 コピーのコピーのコピー。
 タイラーはぼくの夢なのかもしれない。
 あるいは、ぼくがタイラーの夢なのか。
 これは夢じゃないはずだ。
「いや」とタイラーは言う。「おまえは夢を見てるんだよ」
 ぼくはまだ眠っている。 
 目を覚ますとそこはオヘア空港だ。
 目を覚ますとそこはラガーディア空港だ。
「おれ、とか、きみ、とかいう概念はもはや存在しない」とタイラーは言い、ぼくの鼻の先を軽くつねる。「おまえもとうに気づいているだろうが」
 おれはきみを殴り、きみはぼくを殴る。
 ぼくはおれを殴り、きみはきみを殴る。
 わかるだろう?
 わからない。
 目を覚ますとそこはどこでもない。
 ぼくたちは誰でもあり、誰でもない。
 ファイト・クラブは存在し、存在しない。
 無。
 ファイト・クラブ規則第七条、今夜初めてファイト・クラブに参加した者は、かならずファイトしなければならない。
 目をさますとそこは現代です。
 ぼくたちの時代は過ぎ、きみたちの時代になった。
 切り替え完了。
 とっくの昔に飛行機はビルに突っ込み、きみたちの目の前で張りぼては崩れた。
 きみたちはもはや物すら信じていない。
 以前はイケアのカタログを手に便器に腰を下ろしていたであろう人々がいまトイレに持って入るのは、手垢でベトベトになったスマートフォンだ。
 きみはクソを垂らしながら、使い捨ての友達にいいね!を押す。
 でも何も変わってない。きみは疲れて、仕事やSNSにうんざりして、それでも状況を変える方法がわからずにいる。
 きみが全人生をかけて費やしてそろえた写真。
 こちらのレストランではインスタ映えする8種類のカラー小籠包をとりそろえております。
 フォアグラ。
 黒トリュフ。
 チーズ。
 コウライニンジン。
 カニの卵。 
 ガーリック。
 マーラー。
 オリジナル。
 リツイートのリツイートのリツイート。
 コピーのコピーのコピーのコピー。
 きみは素敵なイメージのなかで身動きがとれなくなっている。もはや所有すらしていていないものに、きみは所有されるようになる。
 いいのか、よくないのか。
 欲しいのか、欲しくないのか。
 眠っているのか、いないのか。
 夢をみているのか、いないのか。
 きみはぼくなのか、きみなのか。
 ファイトは一対一。
 今夜、これからぼくはきみに会いに行く。
 今夜、ぼくはきみのこめかみに銃身を突きつけ、質問をする。
 きみは大人になったら何になりたい? この先の人生をどう過ごしたい?
 答えられなければきみはまもなく死ぬ。驚嘆すべき死の奇跡。
 銃口をこめかみに押し付けられたきみは、銃がそこにあること、ぼくがすぐ隣にいること、これは生死に関わる問題で、次の瞬間にも死ぬかもしれないことを痛感するだろうか。
 涙の粒が転がり落ち、銃身に涙の太い線が一本走り、引鉄の周りの輪を伝ってぼくの人さし指に落ちるだろうか。
 きみは何と闘っているのか。
 ぼくは何と闘っているのか。
 水で薄められたすぐにはじける泡なんかじゃなく、祭壇から流れる石鹸のようにねっとりとした濃い生をいきたいと思うだろうか。
 きみはこめかみに銃口を押し付けられたまま、顔をあげ、ぼくにむかって答えられるだろうか。
 きみはぼくの要望に答えられるだろうか。
 ただ一つ。
 そうだ、ぼくを力いっぱい殴ってくれ。