砂の国について

 かつて砂の国では、言葉を発するということはすなわち血を流すことを意味しておりました。

 我々砂の国の者たちは言葉を発する際、自分の体の一部を切りつけ血を流すことによって自分の声を手に入れます。喋り続けるかぎり血は滴り続けます。血が滴っている間だけ我々は喋ることができるのです。むろん痛みはあります。しかし砂の民は痛みに強い種族です。それに私は普段は喋りません。今日私がこんなに饒舌になってたくさんの血を流しているのは、どうしても砂の国についてあなたにお話しておきかったからです。

 あなたの体も同じ作りかどうかは存じませんが、流した血は空気に触れるとそのうち固まります。我々はこの血と砂とを混ぜて粘土にすることで物を作るようになりました。なにしろ砂の国には僅かながらの動植物と水以外にはただ砂が広がっているだけなのです。砂ならいくらでもありました。我々は砂と血から日常生活に必要なあらゆる物を生み出してきました。壁や座敷、寝床や卓やかまど、皿や器といった日用品。それに加え、怒りのこもった濃厚な血を用いれば鋭利な刃物まで作ることができました。しかしそれらが永遠に在り続けることはありません。砂から作られた物はやがて乾ききって崩れ、生き物たちと同じように自然と砂に還ってゆくのです。およそ人の作り出すものはすべて言葉を発する際に流した血からできているのであり、言葉から生まれてきた物はつまるところ仮そめのものです。所詮言葉は言葉でしかない。ひと昔前まで我々は言葉の無力さを大いに理解しておりました。我々は必要な時にだけ言葉を発し、必要な物だけをその都度その都度作っていたのです。

 我々砂の民にとって砂とは絶対的なものでした。砂とは過去に生きていたものたちの亡骸の集合体であり、砂には先人たちが残そうとして奪われた言葉の亡霊が潜んでいるようでした。砂の国ではどこにいっても常に砂が皮膚に纏わりついてきます。どんなにしっかりと扉を締めきっていても衣服で身を隠していても、砂は僅かな隙間から我々を見つけ出してしつこく追いかけてくるのです。時折誰かが高い建物を立てれば見せしめのように巨大な砂嵐がやってきて跡形もなく壊してしまいます。死者たちの圧倒的な存在感。我々砂の民は彼らに畏怖の念を抱くばかりで、逆らうことなど許されてきませんでした。我々は代々ただ砂に頭を垂れ、なんとか短い命を無事に生き抜けることだけを許されてきたのです。

 その一方で我々の心の内には、砂に抗いたいという気持ちも昔から密かに引き継がれていたのだと思います。強い日差しが照りつける厳しい環境下、言葉を発する度に血を流さなくてはならず、短命であることを宿命づけられている我々の人生はあまりにも不条理ではないか、と。我々のその思いは着々と蓄積されてゆきました。かつてはおそらく固く禁じられていたであろう試み——血を流すことなく言葉を発し、砂を自在に扱うことができるようにならないものかという無謀な企み——が、はじめは後ろ指を指されながら秘密裏に行われていたのが、いつしか公然と組織的に行われるようになり、いつしか我々皆の希望となり、いつしかその研究を行うことがこの国の最大の事業となりました。血を流す必要のない国を誰しもが夢見るようになったのです。研究中、試行錯誤して多くの言葉を交わしたがために血を流しすぎて砂に還ってしまうものも少なくはありませんでしたが、そういった長年にわたる犠牲の上に、半世紀前ついに血を止める薬が発明されました。

 薬を摂取することによって、我々は血を流すことなく言葉を発し、痛みを伴うことなく喋ることができるようになりました。そして代わりに人工の血が作られ、我々は自分の血を使わなくとも物を作ることができるようになりました。年長者の中には、薬や人工の血など神への冒涜だと警鐘を鳴らす者もいましたが、彼らの声は国民大勢の熱狂にかき消されてしまいました。誰しもが競って薬を手に入れようとしました。誰しもが言葉を好きなだけ発することのできることを素直に喜び、好きなだけ物を作ることのできる自由を謳歌しました。質素で飾り気のなかった我々の国の建物には派手な装飾が施されるようになり、我々は建物を密閉し、砂が入り込まない生活を送ることができるようになりました。物は物でしかなくなったのです。

 しかし喜びも束の間、それから四半世紀が過ぎた頃、まだ若くどう見ても死期に達していないような人々が突然干からびて枯れ死んでゆくという現象が相次ぐようになりました。変死した者たちは薬を過剰服用した人々ばかりでした。国民は不安に陥りましたが、国は関係性なしと判断し、相変わらず薬を支給し続け国民も服用し続けました。国も国民たちも心のどこかでは危ないと勘づきながらも、もう後には引けなくなってしまっていたのでしょう。ますます多くの人々が同じようにひび割れて死んでゆくようになりましたが、あまりにも頻繁に起き日常茶飯事の光景となったため、国民は死というものに慣れてしまい、やがてほとんど誰も気に留めなくなりました。そして今から数年前、ある医者がある事実を——変死した者たちの死体を解剖して調べたところ、薬を用いることによって排出されなくなった血が一定量たまると、体内で固まって砂となり、その人の水分を内側から奪いとってしまうという検査結果を暴露したのですが、医者の声に応える者など数えるほどしかおりませんでした。血を流しながら声高に訴え、薬の危険性を公にしなかった国を糾弾する医者に対して、同じようにわざわざ血を流して憤るほどの気力を持つ者はもはやいなかったのです。それに、もしかしたら皆そんなことはとうの昔から薄々わかっていたのかもしれません。

 我々の国はもう長くはもたないでしょう。死者の増加と人工の血のせいで砂の量は以前よりはるかに増え、地層が急激に上がったせいで砂を掘っても容易には水を得られなくなりました。我々は昼間は灼熱の下で喉を枯らし、夜は寒さに凍えながら、突然自分の身に死が訪れるのをじっと待っています。実際のところ、薬を使ったことのない者などほぼ存在しないに等しいのです。昔、反対していた年長者たちはもうすでに老衰のために砂に還ってしまいました。やっと国によって使用が禁じられるようになったかつての薬は、現在は禁止薬物として裏で流通しており、どうせ死ぬのであればと多くの人々が相変わらず服用を続けています。彼らは自由に言葉を発することのできる生活に慣れてしまったのです。

 私もかつて若い頃は仲間たちと共に薬物を用いておりました。死に対して無謀であることが砂に逆らう唯一の手立てだと考えていたのです。きっと仲間たちも同じように考えていたのでしょう。でも結局、彼らの生はあっという間に枯れつき、砂となって死者たちの中に飲み込まれてしまいました。彼らの残した言葉など、あまりにも軽くて何一つ記憶に残りませんでした。

 私が今日このように、自分の血のほとんど全てを流すのと引き換えにあなたに話したのは、これだけが砂に抗うことのできる唯一の方法だということがやっとわかったからです。本来、言葉を発するとは血を流す覚悟のいるものであり、痛みと引き換えにあるべきものなのです。言葉は凶器にだってなり得るのであり、自らも死ぬ覚悟がなければ、それを用いてはならなかったのです。そして、その覚悟をもって語られた言葉だけが、確実に他者の記憶に刻まれるのです。私がこうして血を流して砂の国について語った言葉は、あなたの中に留まり続け、あなたの中で息をし続けるでしょう。私の言葉は生きて脈打っているのであり、それが誰かの中で生きている限り、我々砂の民は存在し続けるのです。

 だいぶ喉が渇いてきました。いえ、水を飲んだとしても無駄なのです。きっと私は、あなたがこれから進んでいき、全ての話を聞き終わる前に、内側から砂に飲み尽くされてしまいます。あなたに差し上げた言葉の他に我々には何もありません。私の座っているこの場所には、ただ砂が残るばかりでしょう。

樹の国について

 わたしたちは森の奥に暮らしています。雨をしのいだり、寝起きするための簡素な小屋は作りますが、壁で遮断することはありません。あくまで小屋は森の一部なのです。虫やヤモリは当然のように小屋の中に入っては出ていって、わたしたちが寝転がっていると、鳥や精霊たちの鳴き声、木々の軋む音、雨が葉にあたる音が、蚊帳を通り抜けていきます。わたしたちはやってくるものも出ていくものも、拒むことはしません。ゆっくりと流れる森の時間に溶け込んで生活しているのです。

 森は深く巨大で、日が落ちると真っ暗で、ときどき闇夜に出歩いたりすると、果てしなく並んだ背の高い木々が倒れてきてわたしを飲み込んでしまう気がするほど、圧倒的な存在感を持っています。ですが、森はわたしたちが謙虚でいる限り、むやみに傷つけてくることはありません。森はわたしたちに必要な全てを与えてくれます。木の実も果物も澄んだ水も、小屋を建てるのに必要な木材も、森は恵んでくれます。わたしたちは必要な分だけを森から借りて生きています。

 森には数え切れないほどたくさんの木が生えていますが、よく見るとその一本一本が異なっていて、あなたが人や建物を区別するのと同じように、わたしたちは木々を見分けることができます。そしてその中には、自分だけの木があります。自分だけの木は別に誰かに決められているわけではありません。わたしたちは、自分だけの木があるのだという事実を教えられるだけで、あとは自分でその木を見つけます。言葉で説明するのはむずかしいのですが、非常に親密に感じる木、それが自分の木です。自分の木に寄りかかっていると、わたしは輪郭が消えて、自分が人間ではなくて木であるような、わたしにも根があり、土から栄養をもらって、空に向かって立ち、風に葉を揺らしているような、そんな気がしてきます。なんと言いますか、自分がその木自身であるような感覚に陥ったら、それは自分の木だと思ってよいでしょう。

 自分の木だからといって、所有したりだとか、独占したりだとか、そういうことをするわけではなく、その木は自分の木だと思うだけなのですが、自分の木にすっかりなじんで、寄りかかっていると、ある時、木から実をもらうことができます。ぽとりと、優しく肩を叩くように、実が落ちてくるのです。実の中には一つだけ種が入っていますが、その種はわたしたちの将来のパートナーとなるものの種です。パートナーは異性であるとも限らないし、まして、人であるとも限りません。わたしたちは自分で好きな種を選ぶということはありません。自分の木が、ちゃんとわたしたちにふさわしい種を与えてくれます。わたしたちは与えられた種を受け入れるだけです。

 わたしたちはその受け取った種を小屋に持ち帰って、土を入れた鉢に植えてやります。発芽するのにどれくらいの時間がかかるかは人それぞれです。一年や二年、はやければ一ヶ月前後で芽が出てくる人もいるそうですが、わたしの場合、芽が出たのは三年目の春でした。種のあいだは、土を湿らせることを忘れずにこまめに水をやり、日中は外に出して日差しを浴びさせ、夜になれば小屋の中に取り入れます。夏の間は日陰に置いてやり、冬の間は冷えないように布でくるんでやります。パートナーを育てるのは最初から最後までとても手がかかりますが、やはり、発芽するまでが一番大きな試練といってもよいでしょう。なんの変化もない鉢植えを見ているだけというのは、楽なことのようでなかなか辛いのです。いつまでたっても種のままで、育っているかどうかわからない。一見すると、死んでいるようにしか見えない。他の人たちのパートナーが続々と発芽していたりすると、どうして自分のだけまだなのだろう、と焦ってしまいがちです。じっとしていられなくなって、土を掘り返して種の様子を確かめてみたくなったり、逆に、面倒くさくなって完全に放置してしまったりします。ですが、わたしたちは根気強く、見守ってやらなくてはなりません。見るという行為はそれだけで力なのです。見るということは一番最初の、一番基本的な他者への働きかけなのです。

 やっと小さな芽が出てきたら、やりすぎないように注意して栄養をやります。パートナーごとにふさわしい栄養の種類は違ってくるので、いろいろ試して自分のパートナーの好む肥料を見つけてやります。そうやってわたしたちは少しずつ伸びてゆくパートナーを気長に育てていきます。体の弱いパートナーのなかには風邪を引いてしまうものもいるし、思春期もあれば反抗期もあります。どんなに大切にしていても、歯向かってこられたり、触ろうとして噛み付かれたりすると、世話をするのが無駄に思えて、自分が無力に思えてくることもあります。でも、どんなことがあっても見捨ててはなりません。どうしてもわたしたちは、自分が与えたら、それと同じだけのものを返してほしいと思ってしまいがちです。でも、森がわたしたちに何もかもを無償で与えてくれるのと同じように、わたしたちも見返りを求めずに、愛情を与え続けることが大切です。与え続けることによって、パートナーは、ぐらつくことのない頑丈な根をはることができます。

 そうして、わたしたちは数十年の時間をかけて、自分の木からもらったパートナーを育てます。パートナーが無事に育ち、成人のときを迎えると、パートナーはやっと鉢植えから出て、自分の足で歩くことができるようになります。ちゃんと手間をかけて育てられたものだけが、しっかりと自力で歩けるのです。パートナーが自分の足で歩き出した時、育てた側はすべてが報われます。わたしたちは何ももらわなくていい。パートナーがちゃんと歩いているということ自体が、この上ない幸福なのです。それからわたしたちは結ばれます。結ばれるといっても、とくに何かするわけではありません。わたしたちは互いの体に触れ合うこともしません。パートナーの体はもろく、さわればすぐに崩れてしまうから。愛の言葉を交わすこともありません。わたしたちには愛を確かめ合う文化がないのです。何もしないこと、それがわたしたちの愛のかたちです。何もしなくても自然と感じるもの。わたしたちにとって、愛というものを言い換えるとすれば、それは信頼するということです。信頼し合っていれば、そこに愛があることがわかります。だからわたしたちは常に一緒にいるわけでもなく、寝るのも別で、食事をするのも別です。別々に生活していても、本当に信頼している物のあいだには、特別な行為がなくとも、ちゃんと愛し、愛されているという安心感から、肌さみしさを感じることはありません。わたしたちの信頼は数十年の間の、育て、育てられるという関係性の中で着実に育まれているので、簡単には崩れないのです。

 春になると、小屋のどこかに赤ん坊が生えてきます。その場所は人によってみんな違います。お風呂だったり、囲炉裏だったり、縁側だったりします。わたしの場合は、本を開くとそこに小さな指人形のような赤ん坊が丸くうずくまっていました。小さな赤ん坊たちは、かすかに呼吸をし、上下にゆれています。わたしたちはパートナーとともに窓際に立って、その赤ん坊を息で吹き、空に飛ばします。ぜひ、また今度の夏にでも遊びにきてください。夏が終わる頃には、夕日の上にたくさんの赤ん坊たちが舞っているのが見えるでしょう。無数の赤ん坊、無数の姿かたちの違う赤ん坊、そのかたちはそれぞれの信頼のかたちなのです。この森に生まれた新たな信頼たちだけが、毎年空を飛ぶことができます。そして信頼たちは、やわらかに風に流され、着地したところに静かに根付いて、やがて芽を出します。

 わたしたちとパートナーとの関係は、それで終わりです。わたしたちのあいだには、ひとつしか子供はうまれません。わたしたちは残りの人生をかけて、パートナーが次第に枯れゆくのをながめます。もちろん、枯れゆくパートナーと同時にわたしたちも老いてゆきます。死んだら、それで終わり。死んだら、物体でしかない。死んだ肉体は森に埋めるだけで、お墓をつくることもない。わたしたちの命というのは、ただすぎてゆくだけのものです。他の国の方々からすれば、わたしたちの生は地味で、わたしたちの愛は淡白かもしれません。でもわたしたちには明確な目的があります。わたしたちにとって人生とは、信頼をつくり、それを次の時代へ飛ばすこと、それ以上でも以下でもないのです。

 わたしももう、赤ん坊をだいぶ前に飛ばし終わり、パートナーも枯れて死んでしまいました。たった一人、老いゆく命です。もしかしたら、また自分の木のところに行けば、新しい種をもらうことができるかもしれません。でも、わたしは、二つ目の種をもらおうとは思いません。実際、この森に暮らす人々のほとんどが、たとえ途中でパートナーを枯らしてしまっても、代わりの種をもらいに行こうとはしません。それはたぶん、二つ目のパートナーを育てたとしても、最初のパートナーとの相違点ばかりに目がいってしまうような気がするからだと思います。種のかたち、芽の大きさ、葉の枚数、そのすべてが、最初のパートナーとは違うという記憶を呼び起こし、これは本当のパートナーではないという違和感が自分の胸のうちに膨らんでしまうからでしょう。新たなパートナーを育てても、そこにわたしたちは最初のパートナーの残像を見てしまう。それでは、健全な信頼は築けません。わたしたちの国では、あくまでも、あなたではないといけないという、交換不可能な愛だけが、信頼をかたちづくることができるのです。 

お知らせ 第二作品集『失われたものたちの国で』(書肆侃侃房)刊行!

第二作品集『失われたものたちの国で』(書肆侃侃房)が12月18日より刊行となります!

【帯文】
切れば血が出そうな言葉で綴られた
でも 希望の匂いがする本。
(柴田元幸)

 

*書肆侃侃房のページはこちら

*amazonはこちら

 

前作ではやたら切りまくっていましたが、今作では何から何まで埋めまくってます。とりあえず埋めちゃおう。そんな夢と希望にみちあふれた作品集です。

装画は文芸同人誌『プラトンとプランクトン』の表紙でおなじみの柳田久実さん。ブッダの絵なので買ったらきっとご利益があります。

地上で生きていくのに疲れたとき、何もかも流したくなってしまったとき、そんなときにはぜひぜひ『失われたものたちの国で』をお手にとってみてください。ちゃお!

 

 

詩と批評のあいだⅩ からっぽの棺桶を埋めること——ジョナサン・サフラン・フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(近藤隆文訳)

Ⅹ からっぽの棺桶を埋めること——ジョナサン・サフラン・フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』(近藤隆文訳)

 

やかんはどうだろう? 湯気が出たら注ぐところが開いたり閉まったりして口になって、きれいなメロディを口笛で吹いたり、シェイクスピアをやったり、いっしょに大笑いしてくれたりするのは?
小型マイクはどうだろう? みんながそれを飲みこむと、心臓の音が小さいスピーカーから出る仕組みになっていて、そのスピーカーをオーバーオールの前ポケットに入れておけるとしたら? 夜、スケートボードで通りを走ると、みんなの心臓の音が聞こえて、みんなにはこっちの音が聞こえるなんて、ちょっと潜水艦のソナーっぽい。
あと、急いで脱出しないといけないことはよくあるのに、人間には翼がない、というか、とにかくまだ生えてないから、鳥のえさをつけたシャツというのはどうだろう?
地球の大きさはずっと同じなのに、死んだ人の数は増えつづけているのって、すごくヘンじゃない? それでいつか人を埋める場所がなくなるだなんて? 去年の九歳の誕生日に、おばあちゃんは『ナショナル・ジオグラフィック』の、おばあちゃんの呼び方でいうと『ジ・ナショナル・ジオグラフィック』の定期購読を申しこんでくれた。『ナショナル・ジオグラフィック』で読んでグッときた話によると、いま生きている人は人類の全歴史上に死んだ人より多いそうだ。
だったら、死んだ人用の超高層ビルを下に向かって建てるのはどうだろう? 生きている人用に上に建てた超高層ビルの下側につくればいい。そしたら地下一〇〇階に人を埋めることができて、まるっきり死んだ世界が生きた世界の下にできる。ときどき考えるのだけど、エレベーターが止まったままで超高層ビルが上がったり下がったりしたらヘンじゃないかな。それで九五階に行きたかったら、95のボタンをおすと九五階がこっちにやってくる。それにこれはものすごく便利で、九五階にいるとき飛行機が下の階にぶつかっても、ビルが地上に連れていってくれるから、その日は鳥のえさシャツを家に忘れてきたとしたって、みんな安全だ。
それはそうと。
ニューヨークにはブラックという名前の人が四七二人いて、住所の数は二一六個だけど、これは当然ブラックさんたちのなかにはいっしょに住んでいる人がいるからだ。というのも、パパのクローゼットに残されてた花びんのなかにはカギの入った封筒があって、その封筒にはブラックって書かれていたから、土曜日と日曜日を使ってブラックという名前の人たち全員を見つけることにした。そのカギに合うカギ穴を見つけることこそ、究極のレゾン・デートル—––ほかの全レゾンのおおもとのレゾン—––になったんだ。

 

メッセージ1。九月十一日 火曜日 午前八時五二分 誰かいるか? もしもし? パパだ。そこにいるなら、出てくれ。オフィスにかけてみたが、誰も出ない。聞いてくれ、ちょっとした事故があった。こっちは大丈夫だ。この場所から動かす消防を待つよう言われている。きっとうまくいく。状況がもう少しわかったらまた電話する。大丈夫だと知らせたかっただけだから、心配しないように。またすぐ電話する。

 

うわさに聞くビーバーみたいに発明してばかりでやめられないのも、がっかりの数をかぞえるのをやめられないのも、知らない人たちに手紙を書き始めるようになったことも、それと自分にあざをつくっちゃうのも、とにかく靴が重すぎるからで、というのは、人は一度死んだらずっと死んでいて、何も感じないし、夢を見ることもないって信じてたからだ。だってそれが本当のことで、パパは本当のことを愛していたからだし、本当のことというのは、パパがもう死んでること。
ニューヨークにいるラストネームがブラックの人全員に会うと決めたのも、どちらかというと取るに足らないとしたって、何かではあるし、何かしなきゃならないのは、泳がないと死んでしまうというサメと同じだ。でもパパのカギのカギ穴がうまく見つかったら、発明するのをやめられるかもしれなくて、だからパパがどんなふうに死んだか知る必要があるし、そしたらどんな死に方をしたか発明しなくてもよくなるから。パパの死に方が、どうやって死んだかがはっきりわかったら、何人かの人みたいに、階と階のとちゅうで停まったエレベーターのなかで死んだなんて発明しなくていいし、ポーランド語のサイトのビデオで見た人みたいにビルの外壁をはっておりようとしたとか、ウィンドウズ・オン・ザ・ワールドにいた人たちが実際にやったみたいにテーブルクロスをパラシュートのかわりにしたとか想像しなくていい。ほんとにいろんな死に方があったし、とにかくパパのがどれだったか知らなきゃならないんだ。

 

メッセージ2。九月十一日 火曜日 午前九時十二分。 また私だ。おまえがいるのか? もしもし? すまない。少しずつ。煙が出てきてる。おまえがいてくれたらと思ってたんだ。そこに。うちに。何があったかおまえがもう知っているかはわからない。ただ。私は。こっちは大丈夫だと知ってもらいたかった。万事。順調。だと。これを聞いたら、おばあちゃんに電話してほしい。私は大丈夫だと伝えてほしい。

 

お墓に着いてからっぽの棺桶が沈められると、   あなたは動物みたいな声を出した。
あなたのおとうさんのお墓にシャベルで土がかけられた。
わたしの息子のからっぽの棺桶に。  そこには何も入っていないのに。
同じ映像が何度もくりかえされる。
ビルに突っ込む飛行機。
落ちていく体。
ビルに突っこむ飛行機。
ビルに突っこむ飛行機。
崩れ落ちるビル。
ある朝、目を覚ますとわたしの真ん中にぽっかり穴があいているのがわかりました。
スカーフを編みながら、わたしの思いはあちこちさまよいます。   それはドレスデンへ、わたしの思いは父の外套の袖を上っていく。   父の腕はとても太くて強かった。   わたしが生きているかぎり守ってくれると信じていました。
あの日、父は天井の下に閉じこめられていました。   体にかかった漆喰が赤くなっていった。
父は言いました、すべては感じられない。
わたしは天井を父からどかそうとした。
父は言いました、メガネを見つけてくれないか?
わたしは探すわと父に告げました。
それまで父が泣くのは見たことがなかった。
父は言いました、メガネがあれば私も力になれる。
わたしは父に言いました、わたしが助けるから。
父は言いました、メガネを見つけてくれ。
みんなが逃げろと叫んでいました。   残った天井がいまにも落ちてきそうでした。
わたしは父と一緒にいたかった。
でも父が自分を置いていくよう望むのはわかっていた。
わたしは父に告げました、パパ、もう置いていかなきゃならない。
すると父は何か言いました。
それが父が最後にわたしに言ったことでした。
わたしはそれを思い出せない。
夢のなかで、涙が父の頬を上がって目のなかに戻った。
わたしは客間に行って書くふりをしました。   スペースキーを何度も何度も何度も押しました。
鳥たちがもうひとつの部屋でさえずる。
わたしの人生の物語はスペースばかりだった。
からっぽの棺桶。
落ちていく体。
わたしの声はすべてわたしの内にしまいこまれた。

 

メッセージ3。九月十一日 火曜日 午前九時三一分 もしもし? もしもし? もしもし?

 

沈黙はガンのように私たちを襲う、その時、私は最後まで言うことができなかった、彼女の名前が出てこなくて、もう一度言おうとしても出てこず、彼女は私のなかに閉じ込められたままだった、おかしい、もどかしい、哀れだ、悲しいと思い、ポケットからペンを取り出して「アンナ」とナプキンに書いた、二日後にも同じことが起き、その翌日にもまたあって、私が話したいのは彼女のことだけなのに、それは何度もくりかえされた、次に私が失った単語は「と(アンド)」だった、たぶん彼女の名前に似ていたからだろう、こんな簡単な言葉を、こんな大事な言葉を失った、私が考えることの意味はまるで木の葉が木から川に落ちるように私から離れて漂いはじめた、声に出して言えた最後の単語は「私(アイ)」、やがて私は私も失い、完全に無言になった。私たちの周りではありとあらゆるものが落ちていった、黒い雨、投下された爆弾、破れた天井、急降下する飛行機、あっけなく崩れ落ちるビル、落ちていく紙、机、体、あの子の父親であり、私の息子であるおまえ、父が最後に言ったことは妻の記憶から抜け落ち、私の唇からは言葉が、「私」が、「と」が、「アンナ」が、落ちて二度と戻ってこなかった、私は自分が上昇しているのか下降しているのかわからない、私たちは暴力的に失わされるばかりだ、私は考えに考えて考える、父を失うこと、恋人を失うこと、姉を失うこと、夫を失うこと、娘を失うこと、息子を失うこと、親を見殺しにすること、家族を捨てること、おまえをなくすこと、広島で、ドレスデンで、ニューヨークで、私たちは失い、残された私たちは空白を通じてかろうじてつながり合っているのだろうか、失くすということ、失ってはならないものを失うということ、死体の入っていない棺桶を土の中に埋めたとして、私たちはいったい何に向かって祈るのか? 私たちは空白を抱え、封筒の中身はないまま、私は決して渡すことのない手紙を延々と書き続け、妻は編みおわることのないスカーフを編み続ける、そしてそれは何に向かって? 私が書きに書くのと同じように、あの子は話しに話すのだ、言葉があの子を流れ落ち、あの子の悲しみの底を見つけようとする、言葉から言葉へと移動してやまない、饒舌であることは失語であることと等しく、「ある」ことはほとんど「なし」のようなもの、あの子は電話をしまいこんで心を隠し、妻はスペースキーを押してばかりいる、私たちはうまく語ることのできない者同士、私は言葉を失い、妻は声を失い、あの子は沈黙を失った。語れない空白を補うためにはどうしたらよいのだろう、私たちは収集する、ナップザックが、スーツケースのジッパーが閉まらなくなるほど満杯に、写真を、タイポグラフィーを、暗号を、数字を、動物を、発明を、ニューヨークじゅうのブラックを訪れてあのカギに合うカギ穴を探すこと、あの子は探すのをやめない、私は考えるのをやめられない、考えに考えて考える、私たちは空白を埋めようと彷徨うが、結局決して埋めることができないまま空白の周縁をいつまでもなぞり続けているだけなのだろうか、考えることは私に何をしてくれたのか?

 

メッセージ4。九月十一日 火曜日 午前九時四六分 パパだ。もしもし? 聞こえるか? おまえがそこにいるのか? 出てくれ。頼む! 出てくれ。こっちはテーブルの下にいるんだ。もしもし? すまない。濡れたナプキンが顔にかかってるんだ。もしもし? いや。もうひとつのでやってくれ。もしもし? すまない。みんな、おかしくなってきてる。ヘリコプターが旋回していて。そっちのでやってくれ。ああ、そっちだ。これからみんな屋上に上ると思う。頼むから、出てくれ。おまえがいるのか?

 

夢のなかで、春が夏のあとに来て、秋が冬のあとに来て、冬が春のあとに来た。
夢のなかで、絵描きたちが緑色を黄と青に分けた。
茶色を虹に。
子どもたちが塗り絵帳からクレヨンで色を抜き取り、子どもに先立たれたおかあさんたちが黒い服をはさみで繕った。
時間はわたしが乗りたかった列車から振られる手のようにすぎていった。
わたしがすべてを失うまえの日の夜はいつもと同じような夜でした。
アンナとわたしはとても遅くまで一緒に起きていました。  わたしたちは笑いました。  子ども時代の家の屋根の下にあるベッドのなかの若い姉妹。  窓を叩く風。
壊されちゃいけないものがほかにあるかしら?
夢のなかで、つぶれた天井がすべて頭の上で元どおりになりました。  火は爆弾のなかに戻り、爆弾が上がっていって飛行機のおなかに入り、プロペラは逆にまわりました。ドレスデンじゅうの時計の秒針と同じように、ただもっと速く。夢のなかでは、みんながこれから起こることであやまり、息をすってろうそくに火をつけた。
わたしたちは、わたしたちの上にあるものの話はしなかった。  天井みたいにのしかかっているものの話は。
何年かが一瞬と一瞬のあいだの隙間を通りすぎていきました。
わたしの夢の終わりで、イヴがリンゴを元の枝につけ直した。  その木は土のなかに戻っていった。  苗になって、それが種になった。
神様が地と水を、空と水を、水と水を、晩と朝を、ありとなしをひとつにした。
神様は言った、光あれ。
すると闇があった。
わたしは鳥籠を窓際に持ってきました。
窓を開けて、鳥籠を開けました。

 

メッセージ5。九月十一日 火曜日 午前一〇時〇四分。パ  パだ。もしも   パだよ。ひょっとして
れか聞こえ    これは私が
もしもし?   こえるかい?  みんなで
屋上へ   万事    だいじょぶ   順調    すぐぬ
すまない     聞こえる    だいぶ
なったら、    おぼえておいて——

 

私の心は日々刻々と、ばらばらどころか粉々に打ち砕かれていく、私は自分が寡黙だとは、まして無言になるとは考えたこともなかった、もともと物事をくよくよ考えることはまったくなかった、何もかも変わってしまった、私と私の幸せのあいだに割りこんだ隔たりは世界ではなかった、爆弾と燃える建物ではなかった、それは私、私の考え、けっしてあきらめないガンだった、知らぬが仏なのか、私にはわからないが、考えることはあまりにつらい、私は人生について、私の人生や、ばつの悪さ、小さな偶然、ベッドの脇のテーブルに置かれた目覚まし時計の影について考えた。私のささやかな勝利と、私の目の前で壊れていったあらゆるものについて考えた、私はここに座って最後の空白を埋めている、私はアンナのことを考えている、二度と彼女のことを考えずにすむならすべてを捧げよう、私たちはなくしたいものにしがみつくばかりだ、私は私たちが出会った日のことを考えている、私たちは何もかも変わる前の日々のことを考えている、私たちは時間を巻き戻すことを夢見て語り続ける、あの子はわたしのところにやってきてはじめから話した、花びん、鍵、ブルックリン、「パパ」とあの子は言った、「パパ」、あの子は走って電話を持って戻ってきた、「パパの最後の言葉だよ」、メッセージは途中で切れた、おまえはとてもおだやかな声だった、まもなく死ぬ者の声には聞こえなかった、あの子はそこにいたにもかかわらず、出ることのできなかった留守番電話をいつまでもしまいこんでいた、そしてはじめて私になにもかも打ち明けたのだ、あの子は言った、「お墓を掘り起こしたいんだ」、棺桶を開けたら何をするのかと訊ねると、あの子は答えた、「中身をつめるんだよ、当然」、おまえの入っていない棺桶を取り出す、もし埋められるとするならばその空白を何で埋めよう、私たちを覆うあらゆる空白を、スペースだらけの紙を、中身のない封筒を、送らなかった手紙で、巻き戻した物語で埋めていくことはできるのだろうか、巻き戻すとは正しく語り直すことなのだろうか、零れ落ちていった「私」が、「と」が、「アンナ」がゆっくり上って私の口へと戻ってゆき、空襲は空をのぼっていき、アンナの体からは瓦礫が浮いていき、あのビルから落ちるおまえの体は鳥のように上っていくのだろうか、最後の一枚を最初に、最初を最後にしてめくっていけば、落ちていったものたちがビルの中にもどり、けむりが穴の中に流れこんで、その穴から飛行機が出てくるのだろうか、飛行機は後ろ向きにはるばるボストンまで飛んでいくのだろうか、おまえはエレベーターで地上まで行って最上階のボタンをおし、地下鉄まで後ろ向きに歩き駅まで戻ってくるのだろうか、後ろ向きに改札をぬけ、メトロカードを逆に通し、ここまで後ろ歩きしながら『ニューヨーク・タイムズ』を右から左に読むのだろうか、ベッドのなかに戻り夢を逆に見るのだろうか、そして最悪の日のまえの夜の終わりにまた起きだし、後ろ歩きであの子の部屋へ、口笛で「アイ・アム・ザ・ウォルラス」を逆に吹きながらやっていくのだろうか、おまえはあの子のベッドのなかに入り、おまえたちは天井の星を見て、星はおまえたちの目から光を引き戻すんだろうか、あの子は「なんでもない」とさかさに言い、おまえは「なんだ、相棒」とさかさに言い、あの子は「パパ」とさかさに言うと、それは前から言う「パパ」と同じ音がするんだろうか。おまえは第六行政区の物語をあの子に話す、最後の缶のなかの声から最初まで、「愛してる」から「昔むかし……」まで。そうしたらあの子は、おまえは、私たちは

 

おまえがいるのか? おまえがいるのか? おまえがいるのか? おまえがいるのか? おまえが

 

全部の超高層ビルの屋上に風車をつけるのはどうだろう?
超高層ビルに根っこがあったらどう?
超高層ビルに水をかけたり、クラシック音楽を聴かせたり、日なたと日かげのどっちが好きか知らなきゃならないとしたら?
やかんはどうだろう?
逆回しにした夢でからっぽの棺桶をいっぱいにするっていうのは? そうしたらニューヨークじゅうの靴が少し軽くなって、歩きながらタンバリンを鳴らさなくてもすむかもしれない。
それはそうと。
毎年、一万羽の鳥たちが超高層ビルの窓にぶつかって死ぬんだって。だったら、ビルにありえないほど近くなった鳥を探知して、別の高層ビルからものすごくうるさい鳴き声を出して鳥を引きつける装置はどう?
そうすれば鳥たちは安全に飛べるんだ。

 

 

詩と批評のあいだⅨ まばたきのない語り ——村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』

Ⅸ まばたきのない語り ——村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』

  

 暗い箱の中、仮死状態だった赤ん坊は全身に汗を掻き始める。最初額と胸と腋の下を濡らした汗はしだいに全身を被って赤ん坊の体を冷やす。指がピクリと動き口が開く。そして突然に爆発的に泣き出す。暑さのせいだ。空気は湿って重く二重に密閉された箱は安らかに眠るには不快過ぎた。熱は通常の数倍の速さで血を送り目を覚ませと促す。赤ん坊は熱に充ちた不快極まる暗くて小さな夏の箱の中でもう一度誕生する、最初に女の股を出て空気に触れてから七十六時間後に。赤ん坊は発見されるまで叫び続ける。
 私たちはみな閉じ込められている。コインロッカーに捨てられたキクとハシのように。プラスチックみたいにツルツルして薄っぺらな現実に一人ずつ入れられて生きている。巨大なコインロッカー。そこには何もない、ドロドロしたものがない、みんなそうだ、上澄みしか見えないように遮断されている。虚像をきかざっている外面、虚構の上に虚構を重ねる。そこには匂いがない。暑さがない。実体がない。私たちはみな同じだ。同じ大きさの同じコインロッカーに入れられた同じ人間。
 街の中心にはビルが立ち並ぶ。私たちは部屋に閉じ込められている。窓際に立って街を見る。雨が降り始める。目の前のガラスには他人の顔と自分の顔が重なって映っている。他人の顔を被っているガラスの中の自分の顔、ガラスの向こう側で煙っている街並、目の裏側に広がっていた島と海、それらは別々な透明な絵になって重なり合い、自分がどこにいるのかわからなくなる。透明な絵の隙間に、顔を残したまま落ちていくように。息が詰まる。水滴が転がる厚いガラスが自分を遮断し閉じ込めていると思う。思いきりガラスを叩く。割れない。私たちは割ることができない。
 私たちは押し込められ、閉じ込められ、物分りよく生きてきた。みんな子供の頃からあまりにも我慢のしすぎで頭の中はモヤモヤして、大人になってからも寝ぼけたような口をきく。解けることのない催眠術にかけられているみたいに。そうだ。子供の頃から何一つ変わっていない、私たちはまだ閉じ込められている。壁はうまい具合に隠されている。巨大なコインロッカー、中にプールと植物園のある、愛玩用の小動物と裸の人間達と楽団、美術館や映写幕や精神病院が用意された巨大なコインロッカーに私たちは住んでいる、一つ一つ被いを取り払い欲求に従って進むと壁に突き当たる、会ったこともないような奴らが私たちの周りによってたかって勝手なことを言い、それでも私たちは壁をよじのぼる、跳ぼうとする、壁のてっぺんでニヤニヤ笑っている奴らが私たちを蹴落とす、気を失って目を覚ますとそこは刑務所か精神病院だ、かわいらしい子犬の長い毛や観葉植物やプールの水や熱帯魚や映写幕や展覧会の絵や裸の女の柔らかな肌の向こう側に、壁はあり、看守が潜み、目が眩む高さに監視塔がそびえている、鉛色の霧が一瞬切れて壁や監視塔を発見し怒ったり怯えたりしてもどうしようもない、我慢できない怒りや恐怖に突き動かされて事を起こすと、精神病院と刑務所と鉛の骨箱が待っている。
 方法は一つしかない、目に見えるものすべてを一度粉々に叩き潰し、元に戻すことだ、廃墟にすることだ。
 つるつるとした現実を語りは容赦することなく剥いでゆく。語りはまばたきすることなく対象を見つめ、ことこまかに描写し、きれいな表面を破って中にある闇をえぐり出す。あらゆる人間に生まれつき含有される悪意、社会の価値観に培養され膨らみすぎた虚栄心、救い難い暴力や性への嗜好は銃声と粘液と血の混ざった音となって、脂肪のようにぶよぶよと膨らんだ会話とともにいつまでも耳にまとわりつく。子供の前で互いの若い愛人と一緒に食事をするイカサマな両親、生魚の頭と骨が詰まったドラム缶の上に乗ってカーテンの隙間から見えるのは弛みきってどこまでが尻でどこからが太腿かわからない豚のような女、その肉の皺が寄り集まっているところに見える白っぽい男性器、その大きさは子供の腕ほどもあるが注射をしすぎてグニャグニャしている、売れなくなって整形手術をした元童謡歌手は醜い子供が生まれて自分の過去が暴かれることを心配し、金色のハイヒールだけをつけて裸で床に転がり涎を垂らしているグルーピーは自ら犯されることを望んで男の腰にしがみつき、体中に斑点のある老人は影を踏まれることを恐れて手の平を噛みながらいけなあああい!と叫び、鉄格子を蹴っても泣き止まない老人に腹を立てた看護人は老人の頬をスリッパで殴りつけて怯えた老人は、はい、はい、はい、はい、はいと弱々しく答えて血を流しながら浴衣がはだけて透明なビニールのおむつがむき出しになり、その声は、匂いは、人を不快にさせ人から人へと悪意は伝染してゆき、イメージが次のイメージへと連鎖し、宙で破裂して殻の破れた言葉からはドロドロと液体が流れ、白い煙を放ちながら熱い腐臭がたちのぼる。それが現実だ。
 人間は美しくなどない。人々は助け合うのではなくて憎しみあうものなのだ。誰かが誰かを必要としているなんて幻想でしかない。自分に触れているもの、自分以外のすべてを憎む。私たちは閉じ込められている。何時間もコインロッカーに放置されて。あるのはただ時間への恐怖、閉じ込められたまま時間だけが過ぎてゆくことへの恐怖。外で音が聞こえる。夏の、長い時間、犬の吠声、盲人の杖の音、駅のアナウンス、自動販売機から切符やコーラが落ちてくる音、自転車の警鈴、紙屑が風に舞う音、遠くのラジオから流れる歌、八人の小学生がプールに飛び込む音、眼帯の老人の咳、水道の水がバケツを叩く音、交差点での急ブレーキの軋み、巣を作る鳥のさえずり、女が肌を擦る音、女の笑い声、そして自分の泣き声、木とプラスチックと鉄と女の柔らかな皮膚と犬の舌の感触、血と排泄物と汗と薬と香水と油の匂い、すべての感覚はこのまま死んでしまうことへの恐怖だけに繋がっているのだ。そこで私たちは細胞が記憶している声を聞く。その声は、こう言っている。お前は不必要だ、お前を誰も必要としていない。
 そうだそれが現実だ。私たちは自分が誰からも必要とされていないのを知っている、必要とされている人間なんてどこにもいない、全部の人間は不必要だ。私たちは自分の腕で休んでいる小さな虫たちを一つずつ潰す。虫は一本の黒い線になって死ぬ。虫を潰すのと同じように、誰かが私たちを閉じ込めて簡単に潰そうとしている。虫は私たちの腕を公園だと思ったのかもしれない、私たちに殺された虫は私たちのことを人間だとはわからなかっただろう、ライオンだと思ったかもしれない、蝶々とは違うくらいはわかったかも知れないが、それと同じように虫みたいに潰されても何から潰されたのかわからないという奴がいる、おそらくそいつらの体は空気で出来ているのだ、ブワブワした風船みたいな奴ら、そいつらはどこまでも追ってくる、私たちは自分が潰される前に潰そうとしてくるものを壊さなくてはならない、潰そうとするものを壊すこと、阻もうとする壁を飛び越えること、ありとあらゆる壁を破壊すること、何のために人間は道具を作り出してきたか? なんのために石を積み上げてきたか? 壊すため、破壊の衝動がものを作らせる、立ちはだかる十三本の高層ビル、窓の外の街は熱暑でゆがんでいる、ビルの群れが喘いでいる、東京が呼びかける、壊してくれ、すべてを破壊してくれ、窓から下を眺める、私たちはある瞬間の自分をイメージする、東京を焼きつくし破壊しつくす自分、叫び声と共にすべての人々を殺し続け建物を壊し続ける自分だ。街は美しい灰に被われる、虫や鳥や野犬の中を歩く血塗れの子供達、そのイメージは私たちを自由にする。不快極まる暗く狭い夏の箱の中に閉じ込められているのだという思いから私たちを解放する。私たちの中で古い皮膚が剥がれ殻が割れて埋もれていた記憶が少しずつ姿を現わす。夏の記憶。コインロッカーの暑さと息苦しさに抗して爆発的に泣き出した赤ん坊の自分、その自分を支えていたもの、その時の自分に呼びかけていたものが徐々に姿を現わし始める。どんな声に支えられて蘇生したのか思い出す。殺せ、破壊せよ、その声はそう言っていた。その声は眼下に広がるコンクリートの街と点になった人間と車の喘ぎに重なって響く。壊せ、殺せ、全てを破壊せよ、赤い汁を吐く硬い人形になるつもりか。怯えていてはいけない、怒れ、壁の前で足踏みをし、逃げて嘘をついて偽の生き方をさせられ、みんなに好かれようと努力をし、頭の中はモヤモヤモヤモヤモヤモヤモヤモヤモヤと曇り、誰か傍にいて優しくしてくれないと生きてこられず、自分の欲しいものすらわからなかった現実を、壊せ、私たちは何が欲しかったのか、何かが欲しかった、何かに飢えていた、あの音、あの音だけ、あの音だけが欲しい、私たちは何一つ手に入れていない、私たちは変わっていない、まだコインロッカーの中にいる、肌を腐らせたまま箱の中に閉じ込められている、この腐った街、ヌルヌルする糸を吐いて繭を作り、外気を遮断して、触感を曖昧にする、巨大な銀色のさなぎのような都市、道路は溶けたゴムの匂いがし、柔らかくぬかるんでベトベト糸を吐き、通りを歩くすべての人々がガラスと鉄とコンクリートにはさまれて足の裏で糸を引き擦るこの街、銀色のさなぎにくるまれて、さなぎはいつ蝶になるのだろうか、巨大な繭はいつ飛び立つのだろうか、糸や繭が、あの彼方の塔が崩れ落ちるのはいつか。夏に溶かされた柔らかな箱の群れ、漂うミルクの匂い、あの箱の一つ一つに赤ん坊が閉じこめられている。心臓音が響く、体のどこかに煮えたぎるものがある。体を切り裂いて煮えたぎるものを取り出しブヨブヨのさなぎの夜の街に叩きつけたい。壊せ、破壊を続けろ、街を廃墟に戻せ。その音は言う。私たちは何一つ変わってはいない、誰もが胸を切り開き新しい風を受けて自分の心臓の音を響かせたいと願っている。夏の柔らかな箱で眠る赤ん坊、私たちはすべてあの音を聞いた、空気に触れるまで聞き続けたのは母親の心臓の鼓動、一瞬も休みなく送られてきたその信号を忘れてはならない、信号の意味はただ一つ。死ぬな、死んではいけない、信号はそう教える、死ぬな、生きろ。十三本の塔が目の前に迫る。銀色の塊りが視界を被う。もうすぐ巨大なさなぎが孵化しようとしている、夏の柔らかな箱で眠る赤ん坊たちが紡ぎ続けたガラスと鉄とコンクリートのさなぎが一斉に孵化するとき、私たちは巨大なコインロッカーの中で新しい産声をあげるだろう。

  

詩と批評のあいだⅣ これからの恐怖にむけて——ブライアン・エヴンソン『遁走状態』『ウインドアイ』(柴田元幸訳)

Ⅳ これからの恐怖にむけて——ブライアン・エヴンソン『遁走状態』『ウインドアイ』(柴田元幸訳)       

  

 何日か続いて思い出せない日があって、それが何日間なのかはどうしてもわからなかったが、とにかくそれらの日々、自分は昏睡状態に陥って床に倒れ、妻だろうと思ったがもはやそれも定かではない女性の隣に横たわって目から出血していたにちがいない、ととりあえず推測した。そしてそういう日々の前の日々も、やはり思い出せなかった。何とか目を開けて、自分の周りの世界が、五感で十分感知できる速さで動いていると感じたとき、女性は、彼女が誰であれ、もう死んでいた。かくして最初の、どんどん崩壊しつつある記憶は、女性の隣に横たわって、その痩せこけた顔に、すぼまって犬歯の先を覗かせている唇に、見入っている記憶だった。
 この女は誰だろう? と考えた。
 そして俺は、いったい俺は誰だろう?         
                                  ——「遁走状態」

  

 名前をもたないものにせよ、名前をもたされているものにせよ、たとえ名前をもっていたとしてもそれが正しいものだという確証はまったくないのだが、とにかくここ、二つの短編集のなかに収められ、描かれている彼らは、自分の置かれている今ある閉ざされた状況、それは多かれ少なかれ陰惨で、暴力がどっぷりと満ち、物語がはじまったときにはすでに取り返しのつかなくなってしまっている状況を、自分でもはっきりと把握することができない。彼らは我々に、彼らの限られた視野から見えるか聞こえるかする情報を語りながら、自分の置かれている立場というものを、たどたどしく手探りでたしかめていこうとする——なぜ目の前の人物は両方の眼窩から血をどくどくと流しているのか、なぜ自分は血まみれの仔馬たちの死骸の中に立っているのか、なぜ父は頭をオレンジ色のビニールのメッシュにくるんで撚り糸できっちり縛っているのか——といったことを。それはひょっとすると、子供たちが肝試しにやるような、壁板のうしろがわのみえない暗闇に指を滑りこませて、そこにじっとひそんでいるものを手でたしかめながら質問に答えていくような遊びに似ているのかもしれない。それってつるつるしてるかい? それともざらざら? うろこみたい? 血は冷たいかい、温かいかい? 赤い感じ? かぎ爪が出てる感じ、引っ込んでる感じ? 目が動くのがわかるかい?

 しかしながら彼らが認識のために用いようとする身体は、彼らに従属するものとしてではなく、むしろ彼らと齟齬をきたすものとしてあるのである。ある男は、自分が片腕を失ったことを自覚していて、その喪失が現実であることを一瞬たりとも疑いはしない。ところが、切断面に目をやると、腕がまだそこにあることを男は見てとる。また別の男は、痛みを感じていたとしても、医者のようなものたちからは、あなたがいま痛みをかんじることはありえないと断定される。あるいは、声が出た確信があっても、出てくるのはささやき声だけ。あるいは、周囲の音が次第に遅れて届くようになる。あるいは、パントマイム師がつくりだした存在しない箱に毎晩圧迫される、等々。

 そしてまた、彼らがそれだけを頼りに語ろうとすがりついている言葉も、彼らが求めるがままには応じてはくれない。常に他人との会話はちぐはぐ、双方向の関係はなりたたないのであって、正しいと思えること、自分では納得できることを言っても、誰も本当にわかってはくれない。他人は自分とは別の世界に住んでいるみたいな、もしくは、こっちが水の中から話しているみたいな感じにさせるだけなのだ。言葉は頼れるものではなく、彼らをさらなる混乱へと陥れるものとしてあるようにみえる。それは他人との関係だけとは限らない。言葉は独立した、まるで邪悪な意志をもった存在であるかのように、ときに彼らに執拗にとりつき、ときに勝手に口から滑り出て単語同士を勝手に入れ替える。彼らはもはや言葉というもの、自分の口から出てくる言葉に、呑まれ、信用することができなくなっていく。

 だが語ること以外に彼らにいったいどんな術がある? 語ることでしか彼らは自分の置かれている位置を認識すること——正確にいえば、認識に至ろうともがく不毛な試み——ができないのだ。すでにして人生の把握を失っている彼らは、慎重に、ゆっくりと、その信用ならない言葉をぎこちなく使いながら、自分に問いかけること——どうなっているんだ?——を繰り返し、考え、思考し、出来合いの言葉で目の前にある絶望的な現実を語る。彼らはいくつもの可能性のあいだを、どちらにせよ悲惨にはかわりない選択肢のあいだを、どっちつかずのままゆらゆらと歩いていく。妹は消えてしまったのか、それともはじめからいなかったのか? なぜ自分は支配されているのか、この支配から逃れられるのか? そもそも誰に支配されているのか? 誰が、ではなく何が、なのか? どうやって始まったのか? いつ始まったのか? そもそも始まっていないのか? 現実だったのか? 自分が現実だと信じ込んでいるだけなのか? こうやって語っている自分はまともなのか? 自分はもう壊れてしまっているのではないか? 
 困難は何が現実で何が現実でないかを知ろうとする際に生じる。彼らはよろよろと歩いていって、新たにドアを開けて、また別の部屋が現れるたびに、自分という人間の蝶番がまた少し外れていくのが、自分がまた少し狂っていくように感じる。けれども彼らには前に進む以外の選択肢はない。話はどこにもたどりつかない。だとしても、彼らは少しでも語ることで、自分たちにいったい何が起こったのかを把握しようとし、そうすることで、かろうじて希望を得ようとするのだ。彼らは曖昧な現実を曖昧なままに伝え、我々は曖昧なままに受け取ることになる。

 あるいは、現実に我々が立たされている世界、根源的な世界というのは、まさに彼らが置かれているような状況ではないだろうか。生まれたときからすでに世界は壊れていて、とりかえしがつかない状況からはじまり、気づけば見えない蟻地獄から抜け出せないでいる。我々は声のする方に向かって、聞こえるとおりに従っていこうとするが、価値判断は流動的、声のいうことは数秒ごとにうつりかわり、その声が確かなものか、誰が発したものなのか、本当に聞こえているのかどうかも確信できず、そしてもはや我々は自分が何を感じているのかさえわからないのだ。嬉しいのか? 楽しいのか? 悲しいのか? 怒っているのか? 自分で感じていることを感じとることは不可能で、いいたいことはわからないために、いうべきことだけをいうしかない。我々は靄のかかったまま世界を生き、頼りにできるものはなにひとつない、というのも現実そのものが確固たるものではないからだ。
 我々にとっての恐怖は、いまやアッシャー家のような、おどろおどろしい舞台を必要とすることはないのだろう。フランケンシュタインの怪物のような異形のものでもなく、幽霊でもなく、人間の顔をした蝿でもなく、自分の奥底にひそむハイド氏でもないのであって、それは明確なかたちをもった恐怖ではなく、そこには明らかな因果関係もない。我々が対峙しているのは現実ですらない。認識そのものなのだ。それをなにか認識することができないということ自体への恐怖、わからない、ということへの恐怖。だがそれこそが、恐怖というものこそが、そもそも根源的な世界であったのであり、我々はいまや、確かなものなどどこにもない、という事実と直接戦わなければならないのだ。

 けれど、そんなことを声を大にしていったとして、いったい何になる? せいぜい、じきに絶望して首をくくるか、誰彼構わず惨殺する破目になるかではないか。最悪の場合、いまある以上にわからないことを増やしてしまうことになるだろう。本当にこの事態から無事抜け出すという可能性、本当に一度だけでも明確な認識を得るという可能性は、我々自身からみても、一番確率が低そうに思える。だから、我々はここで語るのをやめておこう。我々に向かって語っている彼らをそのままにしておいて、一歩二歩うしろに下がろう。それからそっと寝室にいって、明かりを消し、暖かなベッドにもぐりこもう。そうして、闇のなかで誰かがせかせか寝返りを打つ音が聞こえようとも、夜が更けてゆくにつれやりきれなさげなうめき声が漏れてこようとも、我々としてはにっこり笑うことにしよう、そして我々自身に嘘をつくことにしよう、そうとも、もう何もかも大丈夫だ、そう、シーッ、そう、我々は眠りについたのだ。  

  

詩と批評のあいだⅡ 浮気者のための恋愛論 ———ジュノ・ディアス『こうしてお前は彼女にフラれる』(都甲幸治・久保尚美訳)

Ⅱ 浮気者のための恋愛論———ジュノ・ディアス『こうしてお前は彼女にフラれる』(都甲幸治・久保尚美訳)
  
                                                 

  

 ユニオール、お前にはアルマという名前の彼女がいて、その長くしなやかな首は馬みたいで、大きなドミニカ風の尻はジーンズを越えた四次元にあるようだ。月を起動から外しちまうほどの尻。お前に会うまで、彼女自身はずっと嫌いだった尻だ。お前がその尻に顔を埋めたいとか、その細くなめらかな首筋を噛みたいとか思わない日はない。お前が噛んだとき彼女が震える感じや、彼女が両腕でお前に抵抗する感じが好きだ。彼女がいなければ、お前は永遠に童貞を捨てられなかったかもしれない。お前は友人の男どもに自慢する。彼女は他の誰よりたくさんレコードを持ってるし、セックスのとき白人の女の子みたいなすごいこと言うんだ。素晴らしい! でもそれは、六月のある日に、ラクシュミって名前の一年生のきれいな女の子ともお前がやってることにアルマが気づくまでの話だが。
 ある時はまた、お前にはフラカという彼女がいる。黒い細身のワンピースを着て、メキシコのサンダルを履いてて、よくお前にくっついて本屋にいく。お前と同じくらい長く本屋にいても平気な娘は、お前が人生で出会った中でも彼女しかいない。インテリ女だ。少なくとも彼女は誠実だったけど、お前もそうだったとは言えない。二ヶ月も経たないうちに、お前は他の娘と付き合い始めることになる。シャワーで自分のパンティを洗う娘で、髪は小さな拳が集まった海みたいに波打ってる娘だ。それからフラカとの喧嘩が延々と続いたが、それでも彼女はお前と一緒にもう一度スプルース・ラン貯水湖に行く。夜、彼女はお前のベッドに入ってきて、互いの腕の中で眠る。けれども次の朝、彼女は行ってしまっている。ベッドにも家の中のどこにも、彼女がいたという徴は残っていない。
 お前は言う。おれは悪い奴じゃない。おれだって他のみんなと同じだ。弱いし、間違いも多いが、基本的にはいい奴なんだ。でもマグダレナはお前のことをそうは思わないだろう。彼女はお前のことを道徳心のないクソ野郎だと思ってる。たとえお前が、八〇年代風のものすごく大きな髪型をした女の子と浮気するという愚行をやめてからもう何ヶ月も経っていたとしても。
 ユニオール、お前はいつまでも懲りなくて、しょうもない浮気を繰り返し、彼女たちにバレ続ける。そして彼女たちはお前の元を次々に去っていき、お前は置いてかれる度に落ち込でしまう。ひどいときなんか、お前は鬱に完璧にやられてしまって、分子一つ一つがゆっくりとペンチで引き剥がされていくような感じだ。彼女たちは言う。じゃあ浮気なんかしなけりゃいいのに。その通りだ。だがそんなことを言われるまでもなく、お前は悔い改めようとしているのだが、その決意は長続きしない。お前はまた違う女の子に手をだす。それでも一度限りの出来事にできるとお前は思う。しかし次の日にはまた浮気相手の家に直行してしまう。
 それは呪いなのよ、と彼女たちは言う。あなたに流れる血が、あなたの運命を決めてしまっているのよ。お前は思う。そうだ、確かにもしおれが誰か別の人だったら、こうしたすべてを避ける自制心も働いたかもしれない。でもお前はあの父親の息子だし、あの兄貴の弟だ。お前の父親も兄貴もひどい男だった。まったく、父親はよく女に会うのにお前を連れて行った。車にお前を残して、部屋まで駆け上がっていき、愛人たちとやるのだ。そして結局父親はお前たちを捨てて二十五歳の女のもとへ走ってしまった。兄貴だってそれよりましとは言えなかった。お前の隣のベッドで女の子たちとやるんだから。最悪のたぐいのひどい男たちで、今やお前もその一人だと認定された。遺伝子が自分を避けてくれるように、一世代飛ばしてくれるようにとお前は望んできたが、単に自分を欺いていただけだとはっきりした。結局、血からは逃れられないもんだね、お前は言う。
 いや、違うわよ。彼女たちは言う。そんなの都合のいい言い訳でしかないじゃない。あなたは悔しいんでしょ? あなたはお兄さんに勝とうとしてるんでしょ? お前は黙って考える。もしかしたらそうかもしれない。思い返してみれば、ミス・ロラとのことだって、兄貴のことがなかったらしただろうか? 他の野郎どもはひどく嫌ってたあのミス・ロラ——すごく痩せてて、尻もおっぱいもなくて、まるで棒みたいだった。でもそんなこと兄貴は気にしなかった。あの女とヤりたいぜ。兄貴は言った。兄貴は生涯を通じて、ものすごい美男子で、学校でも白人の女の子たちさえ、やたらと筋肉のある兄貴に憧れてた。おまけに昔から色男で、すぐさま尻軽女たちを捕まえては、母ちゃんが家にいようがいまいが地下の部屋にこっそり連れこんだ。父親が出て行ってから恋人もつくらなかった母ちゃんは、ただ兄貴一人を完璧に甘やかし続けた。兄貴が父親の代わりみたいなもんだった。兄貴が癌だってことがわかる前から、母ちゃんはいつも百パーセント兄貴の肩を持っていた。もしある日、兄貴が家に帰ってきて、ねえ母ちゃん、人類の半分を皆殺しにしちまった、なんて言っても、母ちゃんは野郎をこう言ってかばうに違いない。そうね、あんた、もともと地球は人口過剰だったからね。
 お前は自分に問いかける。おれは兄貴がうらやましかったのか? おれは兄貴になりたいと思っているのか? 兄貴がいなかったらこんなことやらなかったんだろうか? 
 お前は誰からもちゃんと愛されたことがなかった。父親には捨てられて、母ちゃんには空気のように扱われ、近所の連中からはいつも兄貴と比べられていた。でも兄貴がいなくなってから、女の子たちはお前に注目し始めた。お前はかっこよくはなかったけど、相手の話をちゃんと聞いたし、腕にはボクシングの筋肉がついてた。お前は兄貴のように女の子を家に連れこむことはしなかったし、彼女たちの髪の毛をつかんでひきずりまわしたりなんてことはしなかったけど、どんなに素敵な彼女がいるときでも、浮気することはやめられなかった。いつも別の女と寝ようとした。そうやってお前は兄貴と同じ場所にいけると思ってたのかもしれない。女の子たちはお前の顔をじろじろと見る。ねえ、本当にお兄さんに似てるのね。みんなにいつも言われるでしょ。
 ときどきね。
 お前はだんだん兄貴になっているのか? だとしたら、これは素晴らしいことのはずだ。
 だったらなんでお前の夢はどんどん悪くなっていくのか? 朝、洗面台に吐き出す血が増えていくのはなぜなのか?
 ユニオール、お前は彼女たちにフラれたことを繰り返し語る。十七歳の時、十九歳の時、大学生の頃、もっと大人になってから、いろんな時代、場所、いろんな女の子、お前の恋愛は実にさまざまだ。けれど、結局お前の話はどこにも行き着いちゃいない。お前は太陽のまわりを回る月みたいに一つの点の周辺をぐるぐると語っているだけだ。一つの点、一つの空白。そう、お前は兄貴の死についてはこれっぽっちも語ろうとしない。お前はあくまでおどけながら浮気話を語るだけで、兄貴の死に正面からぶつからない。そんなお前のことを心配してミス・ロラはいつもお前に兄貴の話をさせようとした。そうしたら楽になるから、彼女は言う。
 お前は言う。言うことなんてある? 癌になって、死んだ。
 お前は逃避してた。ひたすらセックスをして。心が傷つくことなんて何も起きてないふりをするために。浮気することで逃げていた。お前は自分のしてることにものすごく怯えてた。でもそれに興奮してもいたし、世界の中であまり孤独を感じずにすんでた。誰とも親密になりすぎないように、いつだって女を掛け持ちして、浮気することで向き合うべきものから逃げてた。そしてお前はあえてバレるようなドジを踏んで、何度もフラれて、またかと思わせるほどしつこくさも悲しげに語ってた。そうすればお前は兄貴の死のまわりをぐるぐると回るだけですむから。
 けれど、お前はそうすることによって本当は兄貴の死を繰り返しているんだとしたら? 浮気をしてフラれることで兄貴の死を延々と再現しつづけているのだとしたら? お前は兄貴の死をなんどもなんども反復して自分自身を破壊しているのだとしたら?
 お前は浮気をするからフラれるんじゃなくて、フラれるために浮気をしているんだ。

 そしてまたお前は手に負えないほどひどい浮気者だってのに、ゴミ箱に捨てた電子メールを消しさえしなかったから、新しい彼女(まあ実際には婚約者だが、でもそれはそんなに重要なことじゃない)は浮気相手を五十人も見つけてしまう! そうさ、六年間にってことではあるけど、それでもね。五十人の女の子とだって? まったくもう。もしお前が婚約したのが素晴らしく心の広い白人女性だったら、お前も何とかやり過ごせたかもしれない——でもお前が婚約したのは素晴らしく心の広い白人女性なんかじゃない。お前の今度の彼女はサルセド出身のやっかいな女で、広いナントカなんて何一つ信じてない。実際、彼女がお前に警告し、絶対に許さないと断言してたのは浮気だった。あんたにナタを打ち込んでやるから、彼女は言い切った。そしてもちろん、そんなことしないとお前は誓った。お前は誓った。お前は誓った。
 彼女は玄関前の階段でお前を待ってて、お前は彼女のサターンを停めながら、彼女が仁王立ちしているのに気づく。そのとき、絞首台の落下口を太った盗賊が落ちていくように、心臓がお前の体の中を落ちていく。お前はエンジンをゆっくりと切る。大海のような悲しみに圧倒される。バレたことの悲しみに、彼女が決して許してくれないだろうとわかった悲しみに。お前は信じられないほど素晴らしい彼女の脚を眺める。そしてその間にある、もっと信じられないほど素晴らしいオマンコのあたりを眺める。
 こうしてお前は彼女にフラれる度に、兄貴に死なれる。

  

詩と批評のあいだⅠ悲しき妄想 ———ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』(岸本佐知子訳)

Ⅰ 悲しき妄想 ———ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』(岸本佐知子訳)

 
 
 ミランダ・ジュライが膨らませる妄想は、風船のように檻の間を抜けて高く高く昇ってゆく。そしていつのまにか膨らみすぎたそれは、ふとした他人との軋轢で弾け、落下し、ゆっくりと沈んでゆく。死にゆくクジラのように。

***

 ここにいるわたしたちはみんなちょっぴり変だ。変だ、っていうと語弊があるかもしれないから、わたしたちはみんな閉じ込められているって言った方がいいのかも。例えばわたしは自宅の周りの世界に閉じ込められていて、二十七歩進んだところで足が止まる。家から出られないわけではないから、広場恐怖症ではなくて、恐怖はいつも家を出て二十七歩め、ちょうどネズの木のあたりで襲ってくる。ほかにもいろいろ。別のわたしは子供の頃から、同じ夢を繰り返し見る。いわゆる反復夢と呼ばれるやつ。その夢のなかでは何もかもが崩れ去って、わたしは下敷きになっている。がれきに埋もれて窒息する夢。それで地元のNPO団体に勤めて近所の地震防災グループを引率してるわけだけど、もうずっと恋人なんかいなくて、ときどき電話をかけてくる妹には電話ごしに性的虐待を受けていて、でも妹から性的虐待というのも変だから、何か他に言葉があるのだろう。セックスレスみたいな現代人ならでは的な閉じ込められ方をしているわたしもいる。わたしは、夜、ベッドで彼氏の横に寝て、自分のあそこに信号を送ってみるけれど、まるでケーブルに加入していないテレビでケーブル・チャンネルを観ようとしているみたいな気分になる。だからセックスの代わりにときどき”おっぱい飲み“をする。”おっぱい飲み“というのは仏教とか色へのこだわりと似たようなものでもあり、全然ちがうことのようでもある。というより、おっぱい飲みはそういうのとはそもそもカテゴリーがちがう。他にそのカテゴリーに属しているものとしては、
 わたしたちの中の言葉にならない、理由のよくわからない怒り。
それと——
 自分には”次の段階“というものがあって、そこへ行かなければならないという感じ。

 わたしたちは朝、目をさますと、あああたし/俺、この世界にひとりぼっちで生きてるんだと思い出して、そのたびに愕然となる。そうしたらなんだかもう急に死んじゃいそうな気分になって、目を固くつぶって、息を吸うのをやめて、バスタブにもぐりこむ。わたしたちはものすごく長い時間水の中にもぐっていられるけど、それはバスタブの中だけのこと。オリンピックの種目に、お風呂のお湯の中で息を長く止める競技ってないのかな、と思う。もしそんな競技があれば、わたしたちはきっとメダルを取れるだろう。オリンピックでメダルを取れば、わたしたちが知っているすべての人たちがわたしたちのことを見直してくれるかもしれない。たとえば家族カウンセリングを受けてた時、わたしがひそかに恋していたカウンセラーのエド。彼は掛け値なしにすばらしかった。前はわたしの話なんてちっとも聞いてくれなかったけど、メダルさえ取ればちゃんと話をきいてくれるようになるかもしれない。エドはわたしに言う。君の話が聞きたいんだ。わたしはひとりで話して話して話したおすだろう。話し終わるとエドが言う、まったくきみは天才だ、それに比べて他の連中はみんなアンポンタンだよ。そして彼は、前からずっと君のことが好きだったと言い、彼がわたしの服を脱がせてわたしも彼の服を脱がせて、そうして二人は末永くしっかりと抱き合うかもしれない。エドだけじゃない。ウィリアムだって愛してくれるかも。英国王室のウィリアム王子。もしも太陽系の地図のようなものがあって、星の一つひとつが人間で、人と人との距離を表しているとしたら、わたしの星からいちばん遠く離れた着くのに何光年かかるかわからない彼方にある星がウィリアムだ。
 作戦1および2。わたしはまずパブにいく。あちらではバーのことをそう呼ぶのだ。わたしはカウンターに腰かけ、飲み物を注文し、それから”糸を巻き“はじめる。”糸を巻く“というのは、両手にかけた糸を巻きとるみたいに、聞いている人々をぐいぐい引き込んでいくような、そんなお話をすること。わたしは話術でカウンター中の人たちを引き込んでいく。あるところまでいくとわたしは言う、「そこでわたしはもう一度ドアをノックしてこう叫んだの——」するとカウンター中の人たちが声を合わせて言う。「入れてください! 入れてください!」そうすればきっと、友達やボディガードと一緒にきていたウィリアム王子が何の騒ぎだろうと気になりだすにちがいない。彼はいぶかしげな笑みを浮かべて、わたしの方に近づいてくる。それでもわたしは話し続ける。糸を巻く手を休めない。二人の距離はどんどん近くなってくる。そしてわたしの前に進み出たウィリアムは、周囲の声に合わせ、国民を代表して、わたしの胸に、地元のNPO団体に勤めて近所の地震防災グループを引率してる46歳の女の胸にむかっていうだろう。「入れてください、入れてください!」。
 嬉しくて天にも昇る気持ちだ。喜びの塊が膨らみすぎてむちゃくちゃに暴れだしたいような気分。わたしたちは昔からこういうとき変なことをよくやった。たとえばわたしはドアに鍵をかけ、鏡に向かって発作みたいに奇っ怪な動作をつぎつぎやり、自分に向かって狂ったように手を振って、顔をゆがめてブキミで不細工な表情を作る。それはワタシというものの突然の大噴火だ。科学的な用語で言うところの〈最初で最後の打ち上げ花火〉というやつ。カシオのキーボードでF♯と真ん中のCのキーを押しながらイエスと叫んで、わたしたちは人間の枠からはみ出してしまいそうになる。わたしたちの体はぐんぐん上昇して木々を突き抜け、雲の中に入り、宇宙に飛び出して天の川を二つに切り裂き、星も塵も突っ切る。今までなんでこんな簡単なことを怖がっていたんだろう。こんなふうにどんどん想像に空気をいれていけば、世界ってこんなに軽くって、檻から打ち上げられて宙に浮くことができるのに。豚だって空を飛べちゃうかも。いや、豚はちょっと言いすぎた。でも、たとえばそこにプールなんかなくたって、わたしという存在がいるだけできっときっとアパートの床に水があふれてきて、すっごい年よりのエリザベスとケルダとジャックジャックにバタフライまで教えて、立派な水泳コーチにだってなれるのだ。
 人はみんな、人を好きにならないことにあまりに慣れすぎている。だからちょっとした手助けが必要だけど、粘土の表面に筋をつけて、他の粘土がくっつきやすくするみたいにすれば、ずっとずっと誰かに知ってもらいたかったことを話せる友だちが近くにできるかもしれない。わたしは子供の頃から、プロの歌手と友だちになりたいと思っていた。ジャズ・シンガーとか。ジャズ・シンガーで、運転が荒っぽいけどすごく上手、みたいな。本当はそんな親友がほしかった。それか、わたしのことが大好きで尊敬してくれる友だち。今の友だちはみんなわたしのことをウザいと思ってる。わたしたちが人からウザがられる要因は、おもに三つある。

 留守電を折り返さない。
 謙遜のしかたが嘘くさい。
 右の二つのことを異常に気にしすぎるあまり、一緒にいる人たちを不快な気分にさせる。

 自分を包んでいるウザさのオーラを取り払って、一からやり直したら、ソーイングクラス初級コースの教室で、わたしが後ろの席からそのふわふわの頭を見つめてたエレンだって、急に振り返って、わたしに向かって指を開いて手を差し出してくれるだろう。そうしてわたしはその手をつかんで、朝出る前にキッチンは片付けたけど机の周りだけわざとちょっと乱雑にしておいた自分のアパートに連れてきて、グラスに濃縮還元のオレンジジュースを注いで、そこに本物のオレンジジュースを丸ごと一個入れるという裏技を披露するだろう。彼女が目を丸くして感心したら、暮らしの知恵よ、なんていうつまんない謙遜を言うのはやめて、きっときっとわたしは、あなたがここにいてくれるから人生は楽しいの、あなたがいなくなってしまったら、またしんどい人生に戻ってしまうの、と素直に言えるだろう。そしてまるでお誕生日みたいな一日を過ごして、二人の初めての誕生日、プレゼントは自分たちで、わたしとあなたはそれを何度も何度も開けてはしゃぐだろう。互いの靴をはきっこしてわたしの靴は彼女ののほとんど倍ちかくあって、でもそれもいい感じで、靴だけでなく、足も、体の他のいろんな部分も、何もかもサイズがまるでちがう。脚と脚をくっつけると、それもまた信じられないくらいに大きさが違っていて、わたしたちの好奇心はバラみたいに花開き、もっともっと知りたくなるだろう。お互いの不可知な部分を何もかも、わたしたちはどれほど似ているか、どれほどちがっているのか、本当にちがうんだろうか、もしかしたら誰もちがってなんかいないんじゃないか。稲妻をひらめかせ、暗い海の底に光を届かせ、そしてもう一つの世界を、そこに息づいているこの世のものとは思えない色や模様をした何億という生命の形を、ほんの一瞬でも見ることができるだろう。わたしたちはお腹とお腹を合わせ、唇と唇を合わせ、それもやっぱりちがう大きさで、そして何よりあたたかくって、わたしたちは動きを止め、見つめあうだろう。
 けれど、目と目を見つめあうのはとてつもなく危険なことだ。人はどれくらい長いあいだ人を見つめていられるものだろう。いつかは筆をインク壺に戻してインクを足すように、また自分のことを考えなければならなくなる。わたしたちは結局ばらばらの他人なんだ。わたしたちは普段、道行く人々がわたしの車のことをどう思っているかなんて考えてるけど、でも誰もわたしたちの車なんか見ていない。みんな自分の内側を見つめている。誰もが自分や自分の車のことを考え、自分の忙しさと睦み合っているだけだ。どっちみち誰も自分のこと以外には大して関心がないのだ。みんな、相手が自分や自分の知っている誰かを殺そうとしていないかどうかだけ確かめて、そうでないとわかるとまた自分の話に戻ってしまう——自分との関係でついに殻を破れそうな気がするとか何とか。この世界には人間の数だけの物語が存在していて、わたしなんて他の人の物語においては脇役でしかなく、それと同じで、他人なんてわたしたちの物語においては脇役でしかないんだから。
 見つめあっていたわたしたちは、どちらからともなく目をそらす。それからまた一瞬、わたしは彼女を見、彼女がわたしを見る。のがれようのない現実が、急に目の前にあらわになる。あれほど恋い焦がれた彼女だって、長い目で見ればわたしの人生においてべつに特別な存在じゃないんじゃないか、という気がしてくる。そこいらの娘。ウィリアムだって、もといた何光年先の星に戻っていくかもしれない。わたしたちは自分の物語から出ていくことも、相手を変えることもできないのだ。イエス(F♯)、イエス(真ん中のC)。だからわたしたちは、手の届く範囲にいる相手を適当にこしらえて、レストランに連れて行ってもらっても、横目でもっと若いかわいい男の子を眺めながら、わざと味にケチをつけて、わざと期待を一から十まで裏切るようなことをして、誰かに何かをしてあげながらその誰かを傷つけてやろうとする。わたしたちみんなが、何も必要としない何かになれたらいいのに。
 かくしてわたしとエレンはだんだん多くを語らなくなる。くっつきあっていた体を離し、うっかり転んだだけ、とでもいうようにお尻をぽんぽんと手ではらう。彼女はわたしの家を出て行き、わたしたちの大前提が足元で揺らぎはじめて、頭の中では、逃げて、という叫び声がする。でもだめだ。世界がなだれを打って崩れおちてくる。電気をつけると、目に見えない何かがあとかたもなく消え去って、後にはただ、埃だらけの、百万年くらい掃除してなさそうなリノリウムの床があらわになる。ジャックジャックたちが腕をばんばん叩きつけて泳いでいたそこはプールなんかじゃなくて、空高く打ち上げられた豚は落ちたままどこにも姿が見えなくって、英国の王子はテレビの向こう側でクールなスーツを着て映ってる。ウィリアム。ウィリアムって誰? エレンって誰だっけ?
 空想は膨らみすぎて宙で破裂して、フルートの音が急降下するみたいに百年分落下して、その無様な残骸を目にしたわたしたちは、鳴り止まない留守番電話を聞きながら、クロスをつかんでその場でテレビを拭きはじめる。オレンジジュースを飲みすぎたみたいな感じがする。ジュースの酸で、胃が、胃だけでなく体じゅうが、ぼろぼろに溶けてしまいそうで、座ったままじっと動かなくなる。動くと人間の形が崩れて、中から空気が洩れ出しそうだったから。でもわたしたちはいてもいられないくらい悲しくなって、ふいに膝の力が抜けて、床にへたりこみ、英語で泣き、フランス語で泣き、あらゆる言語で泣く。涙は世界共通の言語、エスペラントだから。

 顔を洗って、バスルームのバスタブの中にお湯を入れて、わたしはその中にもぐりこむ。そこは粉っぽくて、暖かくしんとしている。わたしはものすごく長い時間水の中にもぐっていられるけど、それはバスタブの中だけのこと。オリンピックの種目に、お風呂のお湯の中で息を長く止める競技ってないんだろうか、と思う。もしそんな競技があれば、わたしはきっとメダルを取れるだろう。オリンピックでメダルを取れば、わたしが知っているすべての人たちがわたしを見直してくれるかもしれない。でも、お風呂のお湯の中で息を長く止める競技なんてオリンピックの種目にはないから、わたしはメダルもとれないし、見直しもなし。あと十五分スタンバってても、何も起こらなかったら、わたしはバスルームのドアを開け、諦めて独りぼっちの現実に帰ろうと思う。ネズの木までの二十七歩の狭い狭い現実に。あと十五分。わたしの体から少しずつ空気が漏れでている。頭がふうっと軽くなり、わたしは自分の体が溶けるイメージを思い描く。わたしはゆっくり、ゆっくり、ゆっくり、バスタブの底に沈んでゆく。十四分。クジラは死ぬと、まる一日かけて海の底に沈んでゆくらしい。他の魚たちが見守るなかを、巨大な像のように、ビルのように、でもゆっくり、ゆっくり、ゆっくりと。十三分。わたしは意識を集中し、その奥にある本物のクジラに、死にゆくクジラに、思いを届かせようとする。そしてささやく、あなたは悪くない。十二分。意識の奥、夢の底、何もかも崩れ去った世界で、わたしはがれきの下敷きになって、待ち受ける死に向かって少しずつ沈んでゆく。十一分。わたしはがれきの下を這いつくばりながら、突然思い出す。この苦しみ、この死、これがあたりまえのことなのだと。これが生きるということなのだ。人生とはこんなふうに壊れたもので、他のことを期待するほうがどうかしていたのだ、と。
 最後の八分。わたしはそのドアを見つめている。食い入るように。救いをもとめるように。息を一つするごとに、時計が一分進むごとに、今にも何かが開きそうだった。一。二。三。四。五。六。七。八。

冷凍された物語——ケナス・ロナーガン監督『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(2016年)

 毎日ニュースや新聞ではおびただしい数の犯罪や事故や災害の報道がされていて、確実に当事者というのは存在しているはずなのに、都市に住むわたしたちは道を歩いて人々とすれ違うときその当事者たちの顔を見つけることはできない。もちろん彼らが胸に「犯人」とか「被害者」とか「遺族」とかいう名札をつけているわけでもなく、同じアパートのとなりの部屋に誰が住んでいるのかも知らないようなこの時代に、聞かれもしないのに自分から過去のことを語るわけもない。

 事故が起きれば人々は現場に群がり、驚きや怒りや悲しみの声を上げる。けれどひとしきり感情を発散させたあと、人々はまた自分の生活へと戻ってゆく。いつまでも他人のことを気にかける暇などわたしたちにはないのだ。十分に消費されつくして味がなくなり、「もうあなたたちの出番は終わり」と、視野の外に追いやられてぽつんと取り残された当事者の前には、ただ苦しみを乗り越えるための長い日常という道が延々とつづいている。

 その関係はまるで映画と観客そのもののようにも思える。その人の人生で一番味の濃い部分だけを切り取り、「物語」の形に整えて、観客の目の前に差し出して消費させる。それが映画という娯楽の孕む構造であるならば、ケナス・ロナーガン監督は、人々に忘れ去られたあとも確実に血を流し続けている当事者たちの存在にまなざしを向けることによって、映画の構造そのものを揺り動かそうとする。2000年の初監督作品『ユー・キャン・カウント・オン・ミー』では幼い頃に両親を交通事故で失った傷をいまだに引きずる姉弟を、続いての2011年『マーガレット』では、自分のちょっとした過ちから老女を事故で死なせてしまった記憶から逃れられずに逡巡する女子高生の姿が描かれていた。

 そして本作『マンチェスター・バイ・ザ・シー』では、ある事故の後、誰に対しても心を一切開くことなく凍らせたまま生きている青年、リー・チャンドラーが主人公だ。

 

 

 ボストンで便利屋をしているリー・チャンドラーは、アパートの住人たちの要望に応じ、トイレのつまりだとか配管の水漏れだとかを修理している。愛想がなくいつも無表情で、喧嘩っ早くて挨拶もしないのでクレームも多いが、腕がいいので管理人からは往往にして許されている。

 リーは雪に覆われた半地下の質素な部屋に一人暮らしをしていて、誰に対しても、何に対しても、自分の中に踏み込ませないように壁をつくっている。仕事終わりに行ったバーでは、隣にいた若い女に話しかけられても拒絶し、自分のことをチラチラと見ていた男の客たちには言いがかりをつけて殴りつける。便利屋の客たちに言われるがままソファやらダンボールやら何から何まで次々とゴミ箱に捨てていく姿は、自分が手にしているものがなんであろうが大した違いはなく、何もかもを捨ててしまおうとしている彼の生き方そのもののようにもみえる。

 いつも通り淡々と雪かきの仕事をしていたリーのもとに、ある日一本の電話がかかってくる。故郷の港町マンチェスター・バイ・ザ・シーに住む兄ジョーが心臓発作で倒れたという知らせだった。特に驚くこともなく車で故郷へと向かい、病院で予想通りジョーの死を告げられたリーだが、ジョーの遺言の内容を知らされて激しい動揺を隠せなくなる。ジョーは、遺された一人息子パトリックの後見人としてリーを指名し、故郷に帰って一緒に暮らすようにと記していたのだった。呆然とするリーの脳裏には、ずっと凍らせていた記憶が否応なく蘇ってくる。妻と3人の幼い子供たち。散らかってはいるが暖かな部屋。仲間達と深夜遅くまで騒いでいたビリヤード。子供達のために薪木をくべてやった暖炉。立て忘れた暖炉のスクリーン。酒を買いにいこうと出かけた夜の道。戻ってきたら燃え上がっていた自宅。泣き叫びながら子供達を助けに行こうとしている妻。彼女を止める消防隊員。そして一部始終をただ見ているしかできなかった無力な自分。

 あまりにも重すぎる過去の匂いが充満しているこの街に戻って住むことなど到底できないと思うリーは、パトリックの後見人になってほしいという兄の遺言を受け入れることができない。リーはかつて自分の犯してしまった過ちを警察や法律が罰しなかった代わりに、自らボストンの牢獄のような柵のついた部屋にこもっていまだに自分で自分を罰し続けているのだ。便利屋として他人の家を直すことはできてもリーは自分の壊れた心を直すことができずにいる。死んだ兄はそんな風にいつまでも心を閉じたままのリーを心配し、故郷に戻ることで立ち直ってほしいと思ったのだろうが、リーの心はかたくなにこの街の記憶を拒絶し、仕方なくパトリックと暮らし始めてからも、街に面した部屋の窓を不意に殴り割ったりする。まるで自分に後ろ指を指すこの街そのものを破壊するかのように。

 そんなリーと対極にある存在として描かれるのが甥っ子のパトリックだ。アイスホッケーの選手として活躍している高校生のパトリックは、多くの友人に囲まれ、ガールフレンドをかけもちし、へたくそなバンドをやっていて、父を亡くしても皆に支えられてなんとか元気にしている。この小さな街で思い切り青春を謳歌しているパトリックは、自分の後見人になることを嫌がっているリーに不満を抱き、いつも誰に対しても無愛想なその態度を解せないでいる。

 リーとパトリックの違いが象徴的に描かれる場面がある。ふたりはそれぞれジョーの亡骸を見に行くが、冷凍されて白く乾いた兄の遺体をじっと眺めてハグをし、その顔にキスをするリーとは対照的に、パトリックは父の凍らされた姿を十秒と見ていられず足早に遺体安置所を出る。自分の心を過去のまま凍らせているリーが冷凍された死体に何ら違和感を抱かない一方で、今という生を謳歌するパトリックが時間を停止させる「冷凍」というものに過剰に拒否反応を起こすことは当然のことだろう。冬のあいだは墓地に雪が積もっていて埋葬することができないから、春になって雪解けするまで死体を冷凍保存しておこうとするリーに対し、パトリックは父を凍らせておくなんて絶対に嫌だと反対し、自分の要望が聞き入れられないと、しまいに自宅の冷蔵庫にあった冷凍チキンを見てパニック発作を起こすまでになる。

 リーはパトリックがなぜそこまで冷凍保存を拒否するのか、なぜ冷凍チキンなんかを見てパニック発作を起こしているのかまったく理解できないし、パトリックはなぜリーが誰に対しても心を開かず敵対的なのか、なぜ自分の後見人となって一緒にこの街で暮らすことをそんなに嫌がるのかを理解することができない。二人は別に嫌いあっているわけではない。むしろ相手を思って心配しあっているのに、互いの心のなかをのぞきこむことのできないまま、違うタイミングでドアを開け閉めするようにすれ違ってばかりいる。

 そんな硬直した二人の関係性を溶解するきっかけとなったのがジョーの遺した船だ。その船はまだジョーが生きており、パトリックがほんの子供で、リーも家族と暮らして幸福だった頃に三人でよく釣りにでかけた船だった。はじめは、モーターが壊れているし維持費がかかってしまうから売ってしまおうとしたリーだが、ふとした思いつきでモーターを直すことに成功する。直った船にガールフレンドを乗せて運転するパトリックのうしろ姿をそっと見守るリーの顔には久しぶりの笑みがこぼれる。

 こうして船の心臓ともいうべき壊れたモーターが動きはじめたことによって、リーの止まっていた心にもゆるやかな変化が訪れる。リーの頑なに固まった心を最も動かしたのは、ばったり出くわした元妻からの赦しの言葉だった。リーは慌てて逃げるようにその場を去るが、バーに行って酔っ払った末に他の客に殴りかかって怪我をし、連れていかれた友人夫婦に介抱されながら、何も語ることなくただただ黙って涙を流す。そうして怪我をして戻ってきたリーを見ても、もはやパトリックは以前のように「バカじゃないの」とは言わない。リーがリビングで寝ているあいだに、ふとリーの部屋に入ったパトリックは、ベッド脇のテーブルに3つの写真が置かれているのを見る。それは何にも興味がなく、何もかも捨ててしまおうとするリーが、唯一大切にしているものだった。写真の中身はわたしたち観客に映されることはない。リーの心を覗き見ることができるのは甥のパトリックだけの特権なのだろう。パトリックはリーの傷の深さを垣間見て、その写真に釘付けになったまましばらく動けなくなる。部屋を出たパトリックは、黙ったままリーのもとにいき、何か必要なものはないか、と声をかける。

 この映画では春が近づくにつれて街に降り積もった雪が溶けていく過程と、リーの凍った心が少しずつ溶けていく過程が並行して描かれている。雪が大気に触れれば少しずつ溶けていくように、凍りついた心も小さな触れ合いによって徐々に溶けてゆくものだ。

 といっても、その溶け方はほんのささやかなものだ。結局リーはパトリックの後見人になることを正式に辞退し、ボストンのアパートへと一人帰ることにする。リーはパトリックに言う。「乗り越えられない」。それは一見あまりにも救いのない言葉のように思えて、実のところ、それこそが救いの言葉ではないだろうか。たしかに物語のあらすじだけみれば「最後まで過去から立ち直ることができなかった失敗物語」でしかないかもしれない。けれどジョーの埋葬の後、2人並んで歩きながら、リーはボストンの今の部屋を出てパトリックが泊まりにこれるよう広い部屋に引っ越すつもりだという計画を恥ずかしそうに告げる(そしてこの時パトリックは「冷凍」されたアイスを食べている)。リーの心はわずかではあるが確実に溶けはじめているのだ。落ちていたボールを拾って投げやりに放るリーと、そのボールを拾って無邪気に何度も投げ返すパトリックの姿は、かつてジョーと3人で船に乗って遊んでいた頃のあたたかさを彷彿とさせる。

 ロナーガン監督は、大きな痛みを負った人間の背中をむりやり押して「幸せ」になることを強要したりしない。早く立ち直らなくてもいいのだと、もう少し自分のペースでゆっくり心を溶かしていってもいいのだと、あえて凍ったままでいることを許すその眼差しによってはじめて溶け始める心というものもあるのだ。そういう意味では、都市というのは「冷凍」にうってつけの場所だ。黙っていること、匿名であること、誰にも干渉されないことが許され、記憶を封印し、重い過去すら無色にすることができる場所。都市にはきっと、凍ったまま語られることのない物語が、誰に知られることもなく毎日すれちがっているのだろう。

 

 

へその緒の国について

あなたがご存知ないかもしれないということを考慮して説明しておきますと、わたしたちの国ではへその緒が何よりも重視されています。自分の両親とはいつまでもへその緒で結ばれていますし、結婚している場合は配偶者と子供と結ばれています。そうして栄養を供給しあって、互いに助け合って生きる。へその緒が人々のセーフティーネットとなっているわけです。あなた方は生まれるとすぐにへその緒を取ってしまうとのことですが、それでも社会がなりたっているというのは不思議なことですね。

わたしたちの国では、まず、あるカップルが結婚することとなると、結婚式で国に二つ目のへそをあけてもらいます。一つ目のへそはもちろん自分の両親とへその緒でつながっているへそです。人は結婚するとそれとは別に、全く新しいへそを作ることになります。そして国に新品のへその緒を授与され、新郎新婦は新たにへその緒で結ばれることになります。それからスタンダードなコースでは彼らは工場に行って子供を購入します。工場ではわたしたちによって生産されたさまざまな子供たちがベルトコンベヤーの上で回っており、夫婦は順番に回ってきた子供を受け取り、自分たちの新しくできたばかりのへそと子供とのへそとを、夫婦のへその緒で結びます。こうしてへその緒で結ばれた新郎新婦と子供を「家族」と呼ぶのです。

世の中にはたくさんの家族がいて、家族の一員それぞれがへその緒の伸びる限り好き勝手に歩き回るので、ときどきよその家のへその緒とからまってしまうというトラブルが生じます。そのために信号があるのですが、これだけの人々がいるのですから信号だけでどうにかなるものではありません。人と人とがすれ違えばほぼ必ずや、互いの家族のへその緒がからまってしまいます。そういうときは整備士さんがいち早く駆けつけて、からまったへその緒をほどいてくれます。整備士さんはいつの時代でも子供達にとってあこがれの存在です。困っている人を助ける職業が一番人気というのはあなた方の国でもきっと同じでしょう?

むすぶ、つながり、といったものが何よりも重要視されているので、この国では「切る」という行為は縁起が悪いとされています。昨今では人々のへその緒を無差別に切るへそテロリストによる事件が増えてきていますが、それもこの国ならではの犯罪なのでしょう。人々は一度へその緒で結ばれたらよほどのことがなければそれを切ってはなりません。……ということに表向きはなっておりますが、実際にはへその緒切りはしょっちゅうとは言わないまでも普通に行われており、きちんと手術代を支払いさえすれば大概において黙認されています。夫婦の間で切るものもいますが、一度結婚するとへその跡がなかなか消えず再婚するのが難しくなってしまうのであまり多くはありません。一番多いのは、やはり、子供とへその緒を切るパターンです。工場から連れてきた子供が問題児だったり気が合わなかったりその容姿に飽きてしまったりすると、夫婦は子供とのへその緒を切ってまた違う子供とへそを結びます。遺棄された子供は解体工場に運ばれ、まだ使えるパーツだけを取り出し、古くなったパーツは再利用し新しい子供に作り変えます。そのような解体作業や工場での仕事はしばしば切ることを伴うため、安全上の観点からもわたしたち非人間に任せられています。

非人間についても一応お話ししておきましょうか。工場で作られたけれども引き取り手がないまま育っていった子供たちや、さきほど申し上げたように両親に遺棄された子供が解体するにはもう成長しすぎている場合は、そのまま誰ともへその緒で結ばれることなく、工場からの栄養補給だけで育ち、非人間化の道を歩むこととなります。ええ、両親は子供とへその緒をいつでも切ることができますが、子供からは両親とのへその緒を切ることはできません。不公平でしょうか? しかしつながりとはそういうものなのです。もちろん、非人間として育ったとしても、大きくなってから誰かと結婚し、へそをあけて新たなへその緒を結ぶことで人間化することも可能です。

人間化しないのかって? そうですね。いまのところ、人間化の道は考えておりません。いいえ、さみしくないわけではないです。わたしは誰ともへその緒でつながっていないし、わたしという存在が生きていることすら誰も気に留めていないかもしれません。正直なところ、将来の不安がないわけではないし、経済的にも誰のへその緒にも頼れないので贅沢する余裕はありません。ときには両親にへその緒をハサミで切られてしまったときのことを夢に見て、夜中、汗だくになって目をさますこともあります。

けれども、わたしたち非人間は、なんといっても自由です。それはあらゆる不安を背負うことになっても、なお、十分に持つ価値のあるものです。交差点で人々のへその緒が絡み合い、整備士さんに誘導されている間に、人々の脇を、すっと通り抜けていくときのあの軽さ。工場での仕事が終わったあとに、誰にも知られることなく、裏の丘の上で沈んでゆく夕日と二人だけでする密やかな対話。そういったものが、わたしは好きなのです。それに、なんといってもわたしは、この工場での仕事が気に入っています。ありとあらゆる肌の色、眼の色、髪の色の子供たちが入り混じってベルトコンベヤーの上を流れていく光景、それをみていると、わたしはへその緒で誰ともつながっていないはずなのに、工場の子供たちが、みな、自分の家族であるような気がしてくるのです。